第三話 誘惑の森
※本作には一部ダークな表現(精神的な誘惑・幻覚描写など)が含まれます。
あらすじ
暗闇の中、絶対に手を離してはいけない——
そう告げられた直樹は“誘惑の森”へと足を踏み入れる。
導くのは、小さな案内役ビーナス。
だがその森では、心を揺さぶる存在が現れるという。
やがて直樹の前に現れたのは、いるはずのない妹だった。
優しく、甘く、縋るように笑う彼女。
しかしその存在は、どこか決定的におかしい。
これは、理性を侵し、感情を狂わせる“誘惑”の物語。
「うぎゃああああああああああああああああああ」
風が顔面に叩きつけられる。
この感覚、前にも――
ドン――
「痛ッててててて……!」
「直樹しゃん着きましたよ」
ビーナスの声が聞こえる。
だが――何も見えない。
完全に視界が真っ暗だ。
「ビーナス!!どこにいる!!」
「直樹しゃんの右下にいますでしゅ」
手探りで伸ばした先、何かが触れた。
――小さくて、温かい。
ビーナスが俺の手を握る。
「暗闇で見えないので、私の手を握って進みますでしゅ」
「ああ、頼む……」
その小さな手の感覚だけが、俺を闇の中で導いていた。
「ところで、ここはどこだ?」
「いい質問ですね!直樹しゃん」
「ここは通称・誘惑の森でしゅ」
「誘惑の森?」
嫌な名前だな――。
「進んでいけば、いずれ分かることでしゅ」
ビーナスはそう言って、歩みを進めた。
暗闇の中に薄い光が灯っている。
「ビーナス、あの光はなんだ?」
「行ってみれば、わかるでしゅ」
少し間を置きビーナスが続ける。
「ですが、直樹しゃん」ビーナスの声色が、わずかに変わった。
「絶対に手を放しては、いけましぇんよ」
その言葉は、暗闇に溶けていくような低い声だった。
俺は歩みを進めた。
その時――
闇の奥から聞き慣れた声が響く。
「お兄ちゃん」
――心優?
ここにいるはずのない。
それでも、確かに妹の声だった。
「ねぇ、こっちに来て遊ぼう?お兄ちゃん」
「そっちには行かないで……心優、さみしい」
甘く、絡みつくような声。
「お兄ちゃん」
胸の奥がざわめく。
気づけば、足が前に出ていた。
「心優……?」
「どこにいるんだ……」
俺はビーナスの手を引っ張り、妹の声の方に進んだ。
「そうそう」
「こっちだよ、お兄ちゃん」
薄い光の中に人影が浮かび上がる。
――いた。
妹がそこに座っていた。
「遅いよ……私、怖かった」
「こんな暗い中で、ひとり……」
ゆっくり立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「心優……」
心優が俺の胸の中に、飛び込んでくる。
「ごめん、ひとりで待たせてしまって」
思わず抱きしめる。
「いいよ、許す。お兄ちゃんが来てくれたから」
――柔らかい、温かい。
間違いなく、心優だ。
「でもね」
耳元で、囁く。
「これからは、一生一所だからね」
その声は確かに心優のものだった。
――なのに。
どこかが、決定的におかしい。
「ところでお兄ちゃん?」
「どうした、心優……」
「そこにいる。小さな生き物は何?」
確かにそうだよな……
こんな変な生物いれば、俺だって驚く。
ここはオブラートに包んで。
「あ、こいつは案内役のビーナスだ。ねじが何本か抜けているけど、悪い奴じゃない」
「………」
「……たぶん」
言葉に迷いが混じる。
「なんで、私のお兄ちゃんと手を繋いでいるの?」
心優のトーンが少しだけ落ちた
「あ、それは……案内役だから」
「お兄ちゃん」
「そいつから、離れて」
俺に抱きついた心優の手に力がこもる。
「そいつは――悪魔よ」
耳元で心優が囁く。
「お兄ちゃんのことを、惑わそうとしている」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
俺はビーナスの手を握る力が、わずかに緩んだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「こっちに、行こう?」
心優の何かがおかしい――はずなのに、うまく言葉にできない。
「心優……お前……」
「どうしたの?お兄ちゃん何でも言って?」
優しい声。
いつも通りの妹の声だった。
「……本当に、心優か?」
「何を言っているの?」
少しだけ、笑った。
「お兄ちゃんの妹だよ?」
「――直樹しゃん!!」
ビーナスの声が、鋭く響いた。
「行ってはダメでしゅ!!」
強く、腕を引かれる。
「私は最初に言いましゅたよね……!ここは“誘惑の森”でしゅ!!それは妹さんではありません」
はっきり言い切った。
「――人ならざるもの、でしゅ」
「お兄ちゃん」
「行かないで……また、私をひとりにしないで……」
「怖いの……さみしいの……」
腕に回された力が更に強くなる。
「行かないで」
耳元で、甘く湿った声が滑り込む。
「お兄ちゃん……」
その声が、耳にまとわりつく。
離れろ。
頭では、わかっているのに――
身体が、動かない。
妹の顔は、数センチ先。
近すぎる。近すぎるはずなのに――どこか遠い。
「心優……離れてくれないか?」
言葉にした直後、妹の指先が頬をなぞった。
「ダメだよ。お兄ちゃん」
甘い声。
気づいたときには……
唇が、重なった。
「――っ!?」
息が、できない。
温もりのはずなのに、どこか冷たい。
何かが流れ込んでくる。
言葉ではない“何か”が、
頭の奥に、静かに染み込んでいく。
意識が、ぼやける。
輪郭が、溶ける。
抵抗する間もなく、内側へ広がっていく
「直樹しゃん!!」
ビーナスの声が、遠くなる。
視界が、滲む。
――おかしい。
これは、心優じゃない。
ビーナスの手の感触だけが遠ざかっていく。




