サラ④
アストリア国の北西に位置するのは、アラン国――。
アストリアの七分の一ほどの小さな国だが、独自の文化と歴史を誇る。
私は、初めてアストリアを離れる。
広大で自然豊かなこの国のことを、頭の中で思い描く。
城を中心に広がる街は、石畳の道が花々で彩られ、人々の笑い声が絶えない。
だが街を抜けると、そこから先はまるで別世界だ。手つかずの山々と深い森がどこまでも続き、空気はひんやりと澄みきっている。
パラドゥーラ国との国境も、線など引かれてはいない。
ただ、森や岩山、川の流れが、自然のままに境を成しているだけだ。
人の気配はほとんどなく、風だけが自由に駆け抜けていく。
この国の民の多くは、きっとこの外の世界を知らないだろう。
もちろん、私もリスタも同じだ。
私たちが目指すのはアラン国だ。
パラドゥーラ国との争いが続く今、南へ向かうのはあまりにも危険すぎる。
山や森に囲まれた道を北西へ進む。
その先には、小さな国が静かに待っていた。
アラン国は、平和を謳う国として知られている。
戦争や争いを避け、文化や宗教を重んじる土地だと聞く。
きっと私たちを受け入れてくれるだろう。
リスタと並んで歩きながら、私は空を見上げた。
まだ見ぬ地の空気、知らない人々、どんな景色が待っているのだろう。
少しの緊張と、大きな期待が胸の中で入り混じる。
アストリアを出ることは、アルミナ様には伝えなかった。
止められるかもしれないし、何と言えばいいのかもわからなかったから。
いつも身の回りの世話をしてくれる方と、ニーナにだけは出る直前に伝えておいた。
「少し旅に出るわ。心配しないで。一週間ほどで帰るから」と。
ニーナは少し考えたあと、いつものように笑顔を見せて「いってらっしゃい」と元気な声で言った。
きっと、本当はいろいろ考えただろう。
どうして自分は誘われなかったのか、なぜ直前まで教えてくれなかったのか――とか。
でも、旅立ちの準備を整えた私とリスタを見て、何も言わないほうがいいと悟ったのだろう。
ニーナはそういう子だ。空気を読んで、相手を思って笑える子。
だからこそ、私は胸が痛む。
謎が解けたら、必ず伝える。待ってて、ニーナ。
リスタもまた、誰にも告げなかったという。
「サラを危険にさらすことを、アルミナ様はきっとお叱りになるだろう。けれど、謎を謎のままにはしてはおけないから」
と彼は言った。
準備は入念に整えた。馬を二頭。
乗馬の授業を受けていて本当によかったと思う。
テント、食料、必要なものはすべて揃えた。
夜明け前の冷たい空気の中で、私は小さく息を吐いた。
もう、後戻りはできない。
街を出ると、途端に道は途切れ、整えられた石畳は土に変わった。
人の手の入らない草木が行く手を覆い、まるで「ここから先は来るな」と告げているようだった。
枝葉の隙間から差し込む朝の光が、霧を淡く照らしている。
鳥の声も、虫の音も、街の中では聞こえなかったものばかり。
山の中へ入った。
不思議なことに、野生の動物たちは私たちを襲ってこなかった。
クマや狼の姿を見かけるたびに、思わず「ひっ」と声をあげてしまったけれど、
彼らは私たちを見ると、静かに進路を変えるだけだった。
確かに目が合った――その鋭い視線が私の肌をかすめたのに、彼らは何もせず、ただ静かに歩いていく。
逃げるでもなく、威嚇するでもない。
まるで私たちの存在を、獲物とも敵とも思っていないように。
ただ、淡々と道の向こうへ消えていく。
不思議だった。
普通なら人間を見れば身構えるはずなのに、この山では、それがまるで当たり前のことかのように、ただただ静かだった。
五日ほどが過ぎただろうか。
森の中を進みながら、方位磁石が指す北西の方角へと馬を走らせていた。
出発のときは「一週間ほどで帰る」と言っていたが、まだアラン国にはたどり着かない。
それほどに、このアストリア国は広いのだ。
道が整備されていないこともあるが、あらためてその広大さを思い知らされる。
やがて、木々の密度が少しずつ薄くなり、視界が開けていく。
もうすぐ森を抜ける――そう感じた瞬間、びりり、と体の奥に微かな電流が走った。
「……今の、なに?」
「びっくりしたー!」
リスタが驚いた声をあげる。
わたしたちは顔を見合わせ、周囲を見渡したが、特に変わった様子はない。
ただ森を抜けただけだ。
さっきまで鬱蒼と木々が茂っていたのに、今は一面の砂地。
草も花もなく、照りつける太陽が地面を白く輝かせている。
空気は乾き、気温も一気に上がった。
明らかに今までとは変わっていた。
まるで、さっきまでいた場所とはまるで繋がっていない、全く別の世界に踏み込んだようだった。
「森を抜けるとこんな世界が広がっているなんて」
「こんな砂地、見たことない」
私たちは不思議に思いながらも、馬の腹を軽く蹴って走らせた。
しばらく進むと、熱を帯びた空気の向こう、揺らめく地平の先に、かすかに街並みが姿を見せはじめた。
最初は幻かと思うほどぼんやりしていたが、近づくにつれ輪郭がゆっくりと浮かび上がり、人々の生活の気配がかすかに漂ってくる。
「アラン国だ!」
リスタが声を弾ませる。
五日もかかってしまったけれど――ようやく、目的の地が見えた。
街が近づくにつれて、砂の色と同じ淡い黄褐色の建物が並んでいるのが見えた。
壁は日差しを反射してまぶしく光り、どの家も平らな屋根をしている。
遠くには丸い屋根の大きな建物があり、風にたなびく旗がゆるやかに揺れていた。
道は石畳ではなく、細かい砂と土でできていて、馬の足音がふかふかと吸い込まれていく。
行き交う人々の服装も、アストリアとはまるで違っていた。
薄い布を何枚も重ねたゆったりとした服をまとい、頭には布を巻いている。
肌の色も少し濃く、みな太陽の下で暮らしているのだとすぐにわかる。
市場のほうからは、香辛料のような強い香りが風に乗って流れてきた。
赤や橙の果物が山のように積まれ、乾いた空気の中でも人々の声は活気に満ちている。
見たことのない景色ばかりだった。
「サラ、あれ!」
リスタが指さす先に、金色に輝く建物があった。
太陽の光を浴びて、まるで自ら光を放っているかのようだ。
壁は磨かれた石と金属が組み合わさっていて、見る角度によって白金にも、琥珀色にも輝く。
高くそびえる塔の先端には丸いドームがあり、その表面には繊細な模様が刻まれていた。
風が吹くたびに、その模様が光を受けてきらめき、まるで空気そのものが震えているように見える。
建物の周囲には白い柱が並び、門の前には青い布で作られた長い旗がはためいていた。
旗にはこの国の紋章らしき模様――二つの太陽が重なったような印が描かれている。
あたりの建物とは比べものにならないほど壮麗で、まさしくこの国の心臓部と呼ぶにふさわしい。
きっとこの国の中心、王宮だろう。
わたしは馬上から街を見下ろしながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
ようやく着いた。ここが、アラン国。
アストリアとはまったく違う空気が流れている。
この国で、いったい何が待っているのだろう。




