リスタ①
アストリア国の女王に代々仕える、オーダン家。
男の出生率が極めて低いこの国において、なぜかオーダン家では代々、男を産むことができた。
この家が“女王に選ばれし家系”と呼ばれる所以でもある。
俺はそんなオーダン家の長男として生まれた。
物心がつくよりも前に剣を握り、言葉を覚えるより先に忠誠を叩き込まれた。
女王に命を捧げること――それがオーダンの宿命であり、俺の誇りだった。
現女王――アルミナ様と初めてお会いしたのは、俺が十三歳のとき。
当時、まだ父が女王の側近として仕えていたにも関わらず、アルミナ様は自ら俺に会いたいとお願いされたらしい。
初めて謁見したアルミナ様は、ひと目で常人ではないとわかった。
まるで空気そのものがひれ伏さざるをえないような、そんな威厳をまとっていた。
伝承にある“気高き赤い瞳の龍”――その姿が重なって見えた。
「初めまして、リスタ。私は女王アルミナよ」
その声は柔らかく、けれど不思議な力を帯びていた。
「お初にお目にかかります。
アルミナ様。私はオーダン・リスタです。
この身に宿るすべての力をもって、全身全霊で、アルミナ様をお守りいたします。」
俺は膝をつき、深く頭を下げた。
するとアルミナ様は静かに微笑み、意外な言葉を口にされた。
「うふふ、ありがとう、リスタ。でもね、私は強いから大丈夫。
あなたには、私ではなく――もっと弱い子たちを守ってもらいたいの。
今はまだ誰のことか分からないでしょうけれど……いずれきっと、わかる時が来るわ」
その言葉の意味は、当時はわからなかった。
だが、すぐに“弱い子たち”はニーナとサラ――十五歳の、左右で異なる瞳を持つ少女たちなのだと理解した。
初めて二人を見たとき、胸の奥がかすかに震えた。
彼女たちはまるで、昼と夜、陽と月のように対照的だった。
ニーナは赤茶色の髪に、少し尖った耳。
悪戯っぽく笑うその顔は、まるで太陽の化身のように明るく、
左の深い緑の瞳がその輝きをいっそう際立たせていた。
一方のサラは、まるで雪の中に立つような冷たさと静けさをまとっていた。
白い髪、透き通るような肌。
そして、右の赤い瞳が闇の中でもひときわ強く光っていた。
――赤と緑。
相反するふたつの色が、どこかで均衡を保っているように見えた。
その瞬間、アルミナ様の言葉が胸によみがえった。
「もっと弱い子たちを守ってほしい」
なぜ、俺にこの二人を守れとおっしゃったのだろう。
アルミナ様は、いったい何を考えておられるのか。
ニーナとサラがお城に来てから、しばらく経った昼下がり。
アルミナ様はふたりを庭へ招き、
「たまには勉強も剣も忘れて、のんびりしましょう」と微笑まれた。
薔薇の香りが風に乗って流れ、
焼きたてのクッキーと紅茶の甘い匂いが庭いっぱいに広がっていた。
俺はいつものようにアルミナ様の少し後ろに立ち、周囲を見張っている。
「私、クッキー大好き! いただきまーす!」
ニーナが嬉しそうに手を伸ばした。
「こら、ニーナ! アルミナ様が先でしょ!」
「うふふ。いいのよ、いいのよ。たくさんお食べ」
穏やかな笑い声が木漏れ日の下に響く。
だからだろうか。完全に油断しふ
ぐぅ、と。
無情にも、腹の虫が鳴いてしまった。
一瞬で耳まで熱くなる。
誰にも聞かれていないといい、と願ったが、
近くにいたサラの長い睫毛がわずかに揺れたのが見えた。
そっと袖を引かれ、振り向くと、サラが視線を落としたまま、小さく紙包みを差し出していた。
「……よければ、これ。余っていたから」
白い紙越しに、かすかにバターの香りがした。
包みの中には、さっきまでテーブルに並んでいたクッキーがひとつ。
冷たく見える彼女の指先が、光を受けて透き通るように白く見えた。
ほんの一瞬、指先が触れた気がして、心臓が跳ねる。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで声を絞り出すと、サラは小さく微笑んだ。
それは、ほんの一瞬の笑みだった。
けれど、その一瞬が、胸の奥に深く残った。
――この子は、冷たい人じゃない。
初めて会ったとき、ニーナの太陽のような明るさに対して、
サラはまるで月のように静かで、冷たく見えた。
でも、今ならわかる。
あの静けさは、冷たさなんかじゃない。
ただ、人よりも少しだけ、優しさを隠すのが上手なだけだ。
そう思うようになった出来事は、他にもあった。
サラは、いつも首元に一粒だけついた真珠のネックレスをつけていた。
小さくて、控えめで、それでいて光を集めるような優しい白。
以前、アルミナ様に尋ねられたとき、彼女は少しだけ照れたように微笑んで言った。
「これは母の形見なんです。真珠は、長い年月をかけて母貝の中で育つから、“長寿”を意味するそうです。母はもういないけれど……私がその分、生きていかないと」
サラの父と母は、盗賊に襲われ、帰らぬ人となったという。
俺より三つも歳下の一人残された少女。
今日までどんな夜を過ごしてきたのだろう。
どれほどの孤独と恐れの中で、生きてきたのだろう。
俺は胸が痛くなった。
しかし、ある日の昼下がり、庭師の子どもが、サラとニーナと一緒に庭で遊んでいた時だ。
子どもははしゃぎながらサラに抱きつき、無邪気に笑っていた。
そして次の瞬間、サラの首もとで、かすかな音がした。
ぱちん。
ネックレスの糸が切れ、真珠が宙を描いて飛んでいく。
陽の光を反射して一瞬きらりと光り、そして――ぽちゃん。
池の中に静かに沈んだ。
あっという間の出来事だった。
子どもの顔が一気に青ざめ、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「ご、ごめんなさい……! ぼく……!」
ニーナは「やっちゃったね」という顔で頭をかく。
一部始終を見ていた俺も、焦った。
あれは、サラが大切にしていたネックレスだったのに。
けれど、サラはすぐにしゃがみ込み、震える子の頭をそっとなでた。
「大丈夫よ」
その声は驚くほど穏やかだった。
悲しみの色をひとつも浮かべず、まるで何事もなかったかのように、やわらかく笑っていた。
子どもに罪悪感を抱かせまいとしているのだろう。
けれど、その笑顔が――痛いほどきれいだった。
リスタは言葉を失う。
強い子だな。
もう、誰にも守られなくていいくらいに。
そう思った。
その日の夜、池のほとりを通りかかったとき、水面を見つめるサラの姿があった。
昼間と同じ池。
けれど、月明かりに照らされたその横顔には、昼にはなかった静かな影が落ちていた。
月の光が波紋を撫で、真珠の代わりに星が水面に浮かんでいる。
そよぐ風に髪が揺れ、その隙間から見えた瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
ひと粒、ふた粒と、頬を伝う涙。
――母の形見なのだ。なくなって平気なわけがない。
サラはひとり静かに涙を流していた。
あぁ、サラは強い子なんかじゃない。
優しい子なのだ。
優しいからこそ、弱さを見せられない。
サラが池のほとりを離れたあと、俺は静かに水の中へ足を踏み入れた。
冷たい水が膝を越え、指先を刺すように染みてくる。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
小さな真珠を探す。
水面に映る月光だけが頼りだ。
指先で泥をかき分け、石を避ける。
見つかる気はしなかった。
それでも、諦められなかった。
なぜこんな衝動に駆られるのか、自分でもわからなかった。
ただ、泣かせたままにはしておけない――そう思った。
指先の感覚が薄れていく。
夜は冷え込み、池の水は身を刺すほど冷たい。
そして、水面がわずかに光った。
月光に照らされ、微かに輝きを放つもの――真珠だった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
冷たい水も、静かな夜の空気も、何もかもが消え去ったように感じた。
――俺は、いったい何をしているのだろう。
自分でも説明できない衝動。
けれど、真珠を手にしたその瞬間、すべてがはっきりした。
俺は、サラに恋をしている。
月の光に照らされる夜の池。
揺れる水面に映る自分の影を見つめながら、リスタは静かに息をついた。
守りたい。
アルミナ様に命じられたからではない。
自分の意思で、彼女を守りたいと強く思った。




