サラ⑧
ニーナを手に抱きしめながら、私はパラドゥーラの街の上空を旋回していた。
冷たい風が頬を刺し、翼は夜の空を切り裂く。
腕の中のニーナは小さく震えているのか、それとも静かに覚悟を固めているのか、私はわからなかった。
屋上で「行こう、サラ」と言ったあの、決意を決めた顔が、今も胸の中で光っている。
ニーナは自分のすべきことを受け入れていた。
だが私は違った。言われるがまま龍になり、ニーナを連れてきた。
大切な友を、これから自分の手で死なせなければならない。そんな覚悟は、私には一欠片もなかった。
下では街の明かりが小さく瞬き、人々の声や叫びが微かに波のように届く。
家々の屋根、通り、灯り――すべてが今夜の私たちの軌跡の下にある。
ニーナの髪が月光に揺れ、その温もりが腕に伝わるたび、胸が締めつけられる。
ぐるぐると回るたびに、決断は重くなり、心は引き裂かれる。
どれだけ遠く飛んでも、どれだけ高く舞っても、答えは変わらない。
「サラ、早く——私を落として。迷いが出る前に。早く!」
ニーナの叫びが、風を切る音の中でもはっきりと聞こえた。
我に返る。
けれどもう、頭の中は真っ白だった。
考えることなんてできない。何が正しいのかも、どうすべきかも。
——もういい。
私も、ニーナと一緒に死のう。
それが一番楽だ。
このどうしようもない運命から逃げられるなら、それでいい。
死んだ後はアルミナ様に国を任せよう。
私以外にも女王の後継者はいるはずだ。
私よりも賢く、冷静で、きっと立派に導ける人が。
だったら——もう、私なんていなくていい。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
覚悟なんてなかった。ただ、怖かった。
この現実から、逃げたかっただけだ。
私は翼を広げ、空高く舞い上がる。
月の光が肌を照らし、風が頬を撫でていく。
けれどその光も風も、もう何も感じなかった。
そして、私は人間の姿に戻る。
ニーナの手を強く握りしめながら——
私たちはゆっくりと、パラドゥーラの街へと落ちていった。
「サラ……だめよ。アストリアを平和な国にして。わたしの命を無駄にしないで……お願い、お願いだから。」
ニーナの声が、風にかき消されそうなほど震えていた。
わかっている。
それでも、できない。
友の死の上に、どうして平和な国なんて築けるの。
そんなもの、本当の平和じゃない。
私にはできない。
「サラ、大好きよ。サラを守れるのなら私は死んでも構わないの。私と出会ってくれてありがとう。私と...友達になってくれて...ありがとう」
私こそ、こんなに愛想のない私と友達になってくれてありがとう。
ニーナと出会って、私はまた笑えるようになった。
ニーナと出会って、まだこの世界を生きていたいと思えるようになったの。
ニーナの微笑みは、月よりも穏やかだった。
私もだよ、ニーナ。
私も大好き。
胸の奥からこみ上げる嗚咽を、必死に飲み込む。
どうして私じゃなかったの。
どうして、緑の瞳を持って生まれたのがニーナだったの。
代われるものなら、代わりたかった。
ニーナは静かに、繋いでいた手を離した。
その指先が離れる瞬間、私の身体だけが重力から外れたように、ふわりと浮き上がる。
「サラ女王——アストリアを平和な国に!任せたわよ!」
ニーナの声が夜空に響き渡る。
やめて!
やめて、そんなこと言わないで!
わたしは女王になんてなれない!
そんな資格、どこにもない!私も一緒に死ぬわ!
けれど。私は突然、竜の姿に変わった。
自分の意思ではなかった。
まるで誰かに操られるように、白い翼が広がっていく。
神が言っているのだろうか。
「お前はまだ死んではならぬ」と。
ニーナの姿はどんどん遠くにいき、見えなくなっていく。
そして次の瞬間、世界が崩れるような轟音と共に、地上が赤く燃え上がった。
私は叫んだ。空を裂くほど悲しい、咆哮だった。
燃えさかる地を、ただ上から見下ろしていた。
ニーナを殺した。私が殺した。大好きな友達を、唯一の友達を。
平和を理由に殺してしまった。
そこにはもう、かつての街の面影などどこにもない。
あんなに多くの人々が暮らしていたはずの場所が、
いまはただ、真っ赤な炎と黒い煙に飲み込まれている。
燃えている——
まるで私の赤い瞳のように。
パラドゥーラの街も、人々の声も、すべてが消えていた。
そして、ニーナの姿も。
私は叫び続けた。
この悲しみをどうしたらいいのかわからなかった。
ニーナは運命を受け入れていた。
アストリアを守るために、自らの命を差し出すことを。
私は、受け入れられなかったのに。
あのままではアストリアは滅びていた。
リスタも戦場に出て、きっと死んでしまう。
女王アルミナ様の命も狙われるだろう。
戦いが続けば、私の大切な人たちはみんな消えてしまう。
それでも——私は、ニーナにも生きていてほしかった。
その矛盾に、私は押しつぶされた。
何も考えられなくなって、自分の運命を受け入れることができなかった。
ニーナは強い。
強いから、あなたが“緑の運命”を背負ったの?
私が弱いから、あなたが代わりに?
やがて、燃やすものがなくなり、火は静かに弱まっていく。
最後の炎が消えたとき、そこに残ったのは灰と焦土だけだった。
生の気配のない、大地。
世界の終わりのような静寂。
私はゆっくりとその地に降り立ち、
白い竜の姿を解いた。
足の下の地面はまだ温かく、黒く、
焼けた匂いが風に漂っていた。
涙が頬を伝う。、
ニーナ。
ごめんなさい。
あなたを守れなかった。
誰よりもまっすぐで、誰よりも強かった。
そんなあなたに、こんな残酷な役目を背負わせてしまった。
「ごめんなさい……ニーナ……」
声にした瞬間、
その足元の焦げた大地から、
ひとつの小さな芽がぴょんと顔を出した。
え……?
信じられずに見つめていると、
その芽は風に揺れながら、まるで囁くように言っている気がした。
——泣かないで。
——元気を出して。
その声が聞こえたような気がして、胸が締めつけられた。
やがて、あちこちから芽が伸びはじめる。
一面に緑が広がっていく。
小さな芽が、草となり、木となり、
やがて美しい森をつくりはじめた。
あんなに焼け尽くされた土地が、
いま、息を吹き返している。
まるでニーナが、この地に命を与えているかのようだった。
その焼け跡の上に立って、ニーナの気配を感じた。
芽吹いた緑は、ニーナのあの澄んだ緑色の瞳のようだったのだ。
この土地の息づかいは、ニーナそのもののように思えた。
風が葉を撫でるたびに、あの日の笑顔や小さな声が蘇る。
気づけば視界が滲み、涙はあとからあとから溢れ続けていた。
もういないはずのニーナが――ここにいる気がする。
その思いが胸を突いた瞬間、膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
私にはもう、立っていることさえできなかった。




