リスタ④
サラの瞳が――緑から、赤へと変わっていた。
昨夜は薄暗くてはっきりしていなかったが、朝日が差し込む寝室の中でその色は確実に変化していた。
両目とも、深く、透きとおるような赤。まるで伝説に語られる龍の瞳のようだった。
「……サラ、その目……」
俺が言うと、サラは鏡を手に取り、自分の顔を見つめた。
「どうして……?」
震える声でそうつぶやく。
信じられないというように、何度も瞬きを繰り返した。
緑の瞳も綺麗だった。
けれど、白い肌に映えるその燃えるような赤は、どこか神秘的で、目を離せないほど美しかった。
まるで人ではなく、何か大きな力が宿った存在のように見えた。
この瞳の変化は――もしかして龍の伝説と関係があるのだろうか。いや、まさか。そんなはずはない。
何が起きたのかはわからない。
ただ、今は立ち止まっている時間がない。
アストリアを出るとき、「一週間で戻る」と約束してきたのに、もう二週間が過ぎようとしている。
アラン国の図書館で、古い文献を読みあさり、街にいる人達にも話を聞いて回った。
けれど、赤い瞳の龍の伝説について、これ以上わかることはなさそうだった。
ふと、あの日のことを思い出した。
アストリアとアラン国の国境を越えたとき――ビリッと、身体の奥に電気が走るような感覚があった。
そういえば、あれはいったい何だったのか。
もしかしたら、あの場所に何かがあるのかもしれない。
「もう一度、国境を調べてみないか?国境を越えた時の違和感、何かあるのかもしれないと思ったんだけど」
そうサラに言うと、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから静かにうなずいた。
「確かに、ビリってしたものね。あの時は通り過ぎてしまったけど、確認した方がいいかもしれないわね」
俺たちは荷をまとめ、宿の主人に別れを告げて、再び国境へ向かうことにした。
アストリアの自然が生い茂る大地と、アラン国の乾いた砂の大地。
その境目が目の前に広がっていた。
ここが国境なのだろう。
それにしても、こうもはっきりと世界が分かれるものなのか。
サラと手を繋ぎ、ゆっくりとその境をまたいだ。
びりっ――。
一瞬、指先から腕にかけて電気のような刺激が走った。
「やっぱり……ビリッとしたよな?」
「ええ。不思議な感覚……なんでなのかしら」
サラの瞳が、不安で揺れている。
「もう一度、やってみよう」
俺はそう言って、再びサラの手を取った。
今度はアストリア国からアラン国へ。
またしても、びりっ――。
確かに電気が走った感覚はある。
けれど、それ以上の変化は何もない。不思議だった。
しばらく近くの木のふもとに腰を下ろし、宿の主人からもらったパンを分け合いながら考え込んでいた。
「アストリア国は、龍が作った国。特別で、不思議な国なんだ。」
そう口にすると、サラは小さく笑った。
「そうね。本当に不思議なことがたくさん起こる国。
そのたびに驚いていたら、キリがないのかもしれないわね。」
そんな事を話していると、ふと頭の中に何かがひらめいた。
――もしかして。
俺は国境の“ちょうど真ん中”に立ち止まってみた。
次の瞬間、びりびりと全身に電気のような刺激が走った。
さっきまでの“びりっ”という一瞬の感覚とは違う。
途切れることなく、体の奥まで響いてくる。
「っ……!」
息が詰まり、視界がぐらりと揺れる。
頭の中まで痺れるような感覚が広がり、意識が遠のいていく。見えているはずの国境も、サラの姿も、霞のように薄れていった。
足元の力が抜け、俺はその場に崩れ落ち、そしてそのまま――夢を見た。
伝説の龍の夢。
赤い瞳の龍は、少女を抱き抱えながら空を飛んでいた。
果てのない灰色の雲の上を、静かに、けれど確かに進んでいく。
その少女は、以前のサラの左目と同じ、緑色の目をしていた。綺麗な緑色の瞳を涙で濡らし、龍の腕の中で泣き叫んでいる。
「いやだ……いやだ!」
その声は風にかき消され、空へと溶けていった。
下を見れば、地上では人々が逃げ惑っている。
龍を恐れ、叫び、祈りながら、火の粉のように散っていく。龍の瞳がわずかに揺れた。
そして――抱えていた少女を腕から離した。
少女の身体はふわりと空へ放り出され、重力に引かれるようにゆっくりと落ちていった。
風が髪をなびかせ、涙が宙に散る。
その姿はまるで時が止まったかのように静かで、
どこか儚く、美しかった。
だが――次の瞬間。
少女の身体が地面に触れた、その瞬間だった。
白い光が、少女の身体からあふれ出した。
それは一瞬で視界を埋め尽くし、まるで太陽が地上に落ちたようだった。
轟音。閃光。炎。
大地が爆ぜ、建物が砕け、人々の悲鳴が音の中に飲み込まれていく。
風が肌を切り裂き、世界は赤と黒の渦に変わった。
すべてを焼き尽くす光の中心に――少女の姿は、もうなかった。
空の高みで、黒い龍は静かにその光景を見下ろしていた。
その瞳には、怒りでも憎しみでもない――
ただ、深い悲しみと諦めのような赤い光が宿っていた。
龍は低く、長く吠えた。
その声は、滅びゆく世界への鎮魂のように響いた。
やがて炎は静まり、音も風も消えた。
何もない、灰色の大地だけが残った。
だが――時間が過ぎるにつれ、黒く焼けた地面のあちこちから、小さな芽が顔を出した。
ひとつ、またひとつ。
若葉が広がり、草が生い茂り、木々が空を覆う。
かつての焼け野原は、いつしか緑あふれる森へと変わっていった。
その光景を見届けるように、龍はもう一度だけ空へ吠え、
静かに翼を広げて、どこか遠くへと飛び去っていった。
空は、まるで何事もなかったかのように、
青く澄み渡っていた。
目を覚ますと、心配そうなサラの顔が目の前にあった。
赤い瞳が、じっとこちらを見つめている。
――その色を見た瞬間、胸がざわついた。あの夢に出てきた龍の瞳と、同じ色。
少女が地面に落ち、爆発し、すべてを焼き尽くして新しい大地が生まれたあの光景を、ただの夢とは思えなかった。
あれはきっと、アストリアの“始まり”の記憶。
アストリアは、緑の瞳をした少女の命と引き換えに生まれた国。
少女の死が、国を創ったのだ。
俺はもう一度、サラの顔を見つめる。
その赤い瞳の奥に、夢で見た龍の光が揺れている気がした。
サラの瞳が緑じゃなくて、よかったと思った。




