ニーナ①
アストリア国――。
森と街が溶け合うように続くこの国では、どこにいても風の音と木々の匂いを感じることができる。
建物はすべて、自然と共に生きるように設計されており、屋根には草花が根を張り、壁は淡い石や木材でできている。
海はないが、代わりに大地の奥深くを流れる湖や泉が人々の暮らしを潤している。
空は高く澄み、風はいつもやさしい。
ここでは、時間までもが自然の呼吸に合わせて、ゆっくりと流れている。
――私はこの国が大好きだ。
「ニーナ! そんなところで何をしているのです?」
凛とした声が、枝の上の私を呼び止める。
はっとして下を見下ろすと、漆黒の髪が風に流れ、深紅の瞳がこちらを見ていた。
――女王アルミナ様だ。
「アルミナ様……!」
私はあわてて枝にしがみついたまま答える。
「アストリアの街を眺めておりました。今日は祝日ですから、みんな楽しそうで。」
眼下では、白い石畳の通りに露店が並び、色とりどりの布が風にはためいていた。
果実の甘い香り、焼き菓子の香ばしい匂いが風に乗って運ばれてくる。
花の冠をつけた子どもたちが笑い声をあげながら走り回り、転びそうになるたびに母親たちが手を伸ばして抱きとめた。
木々の合間からこぼれる光が、金の粉のように人々の髪や衣を照らし出す。
賑やかな声、笛の音、遠くで鳴る鐘の音。
すべてがひとつに溶けあい、まるで街そのものが、見えない神々から祝福を受けているかのようだった。
私が登っているのは、王都の広場にそびえる一本の大樹。
幹は三人がかりでも抱えきれないほど太く、枝はまるで空を支えるように広がっている。
この木は、アストリア建国の時からずっとここに立っているという。
「まったく、また木登りですか。あなたはいつになったら落ち着くのやら……怪我だけはしないでくださいね。」
アルミナ様はため息をつきながらも、どこか優しい目で私を見上げている。
「はーい!」と軽く手を振りながら、私は枝から枝へと身を移し、軽やかに地上へ降りていった。
その瞬間、風がふわりと吹き抜け、スカートの裾がふくらんだ。
慌てて押さえる私を見て、アルミナ様はこめかみに手を当てて小さく首を振る。
「……もう、あなたって子は。」
困ったように笑うその横顔が、どこか嬉しそうにも見えて、私は思わず笑い返した。
アルミナ様が「やれやれ」といった顔で立ち去るのを、大樹のそばから見送る。
アルミナ様の背中からは、揺るぎない迫力が伝わってくる。まるで、この一本の大樹のように。
数年前までは、遠くから見上げることすら叶わなかった人だ。
それが今では、まるで母と子のように言葉を交わしている。
人生というものは、なんとも不思議なものだ。
本当の母が亡くなったのは、私が十歳のときだった。流行り病だった。
咳が止まらなくなり、熱でうなされる母のそばで、私はただ泣くことしかできなかった。
病院に行くお金がなく、お医者さんに診てもらうこともできなかった。
父とは、会ったこともない。名前も、どんな人だったのかも知らない。
私は生まれてからずっと、母一人に育ててもらった。
貧しい暮らしだったけれど、母はいつも笑っていた。
壊れかけのランプの明かりの下で、一緒に食べるおかゆの味を、今でも覚えている。
「ごめんね」と言いながらも、母は必ず私の頭を撫でてくれた。
その手のぬくもりを感じる時が、世界でいちばん好きだった。
だから――大好きな母の死は、なおさら悲しかった。
繋いだ手の温もりが、ゆっくりと消えていく瞬間。
何度呼びかけても、もうそのまぶたは開かない。
泣いても叫んでも、母は何も言ってくれなかった。
それからの私は、ひとりぼっち。
家も、親戚もなく、どこへ行けばいいのかもわからない。
夜になると、母の声を探して外をさまよった。
冷たい雨の降る日、私はただ、道の端を歩いていた。裸足の足は泥にまみれ、服はずぶ濡れで重く、体の芯まで冷え切っていた。
お腹が空いていた。寒くて、眠くて、涙も出なかった。生きているのか、死んでいるのかさえ、もうどうでもよかった。ただ、息をしていた。それだけだった。
こんな苦しみ、いつまで続くのだろう。そんなことをぼんやり考えていたときだった。
ふいに、黒い外套が私の肩にそっとかけられた。驚いて振り向くと、温かな手が私の肩を包み込んでいた。見上げると、月明かりの中に黒い髪の美しい女性が立っていた。静かな瞳で私を見つめ、やがて柔らかく微笑む。
「あなた、とっても綺麗な瞳をしているのね。」
その言葉に、私は息をのんだ。
目の前の女性から、目を離すことができなかった。
私の瞳は、右が赤で、左が緑。
左右で異なる色をしているせいで、気味悪がられたこともある。
けれど、彼女は違った。
まっすぐに見つめ、微笑みながら「綺麗」と言ってくれた。
女性の瞳は、私の右目と同じ――深い赤色をしていた。
だから惹かれたのかもしれない。
それとも、母と同じ緑の瞳を「綺麗」と言ってくれたからだろうか。
「裸足で歩いていたのね。寒かったでしょう……かわいそうに。」
その女性はそう言って、私の頭をそっと撫でた。
その手の動きは驚くほど優しくて――まるで、大好きだった母がよみがえったかのようだった。
亡くなる直前、冷たくなっていった母の手とは違う。
確かに生きている人の温もりが、そこにはあった。
私はこらえきれず、彼女の腕の中で声をあげて泣いた。
泣いても泣いても、女性は何も言わず、ただ静かに背を撫で続けてくれた。
そう。あの日、私を拾ってくださったのは、アルミナ様だった。
「冷えるでしょう?」と低く澄んだ声。顔を上げると、月明かりの下で赤い瞳が静かに光っていた。
その瞳は燃えるように強く、それでいて、どこか悲しげだったのを覚えている。
アルミナ様は国の現状を知るため、街の外れまで足を運んでいたのだという。
その時の私は、まさかこの方がアストリアの女王であるとは知らなかった。
「わたしと一緒に暮らしましょう。」
アルミナ様は私にそう言ってくれた。
その言葉とともに見せた微笑みは、雨雲の切れ間から差す光のようだった。
私は今でも、忘れられない。濡れた肩にそっとかけられた黒い外套の重みを。あのぬくもりを。
それからの日々、私は城で育ち、読み書きも礼儀も剣も学んだ。
アルミナ様は厳しかったけれど、夜には時折、私の髪を梳いてくれることもあった。
黒い髪が月明かりを受けて光るその横顔を見るたび、私は胸の奥が少しだけ痛くなる。
――母ではないけれど、母のような人。私の世界の、中心のような人。
だからこそ、私はアルミナ様の国を誰よりも愛した。このアストリアを、絶対に守りたいと思った。
この国の人口の九割以上は女性である。
昔からなぜか男児の誕生率は極端に低く、女性たちは自らの手で国を支えてきた。
彼女たちは畑を耕し、政を執り、時には剣を取って戦場へ赴く。
戦の最前線に立つのは、いつも女性だった。
その美しくも脆い均衡は、外の世界から見れば格好の的だった。
それにアストリアの豊かな森の奥には、黄金に輝く鉱脈が眠っている。
その金は世界でも稀な純度を誇り、幾度となく他国の欲望を呼び寄せてきた。
中でも最も執拗にこの地を狙ってきたのが、南の隣国・パラドゥーラである。
鉄と機械の力で発展した彼らは、自然と共に生きるアストリアを「時代遅れの国」と嘲り、十年前から侵攻を繰り返してきた。
森を焼き払い、村を奪い、美しいこの国を、血の色で染めようとしたのだ。
私の生まれた村も、パラドゥーラに攻められてしまった。
母は侵攻の混乱とその後に広がった流行病が原因で息を引き取った。
アルミナ様を思うと、どうしても母の姿と重なってしまう。女王が戦で倒れることなど、あってはならない。
彼女の声と決断がこの国の軸であり、女王がいるからこそ私たちはまだ立ち上がれるのだ。
どうか、アルミナ様が母のように戦に散ることがありませんように。




