紬の選択〜母の裏切りと娘の決断〜
柊紬は中学一年生の秋、十三歳になったばかりだった。周りの友達は恋愛の話で盛り上がり、アイドルやドラマに夢中になっている。でも紬は、どこか冷めた目でそれらを見ていた。もっと現実的なことを考えてしまう自分がいた。それは、家の中で感じる違和感のせいだった。
最初に母の様子がおかしいと気づいたのは、半年ほど前のことだ。母はスマホを見ながらニヤニヤ笑うことが増えた。誰かとメッセージをしているのは明らかだった。父が仕事で遅い日、母は妙に上機嫌だった。逆に父が早く帰ってくると言った日は、イライラしていることもあった。紬は何となく、母が何かを隠していると感じていた。でも、それが何なのかはわからなかった。ただ、家族の空気が少しずつ変わっていくのを、敏感に感じ取っていた。
父は相変わらず仕事に忙しく、母は家事をこなしながらパートに出ていた。弟の蒼汰は小学四年生で、まだ子供だから何も気づいていない様子だった。紬だけが、家の中の微妙な空気の変化を感じ取っていた。学校から帰ると、母がスマホを慌てて隠す姿を何度も見た。電話がかかってくると、別の部屋に行って小声で話す。誰と話しているのかは聞こえなかったが、その声のトーンは、父と話す時とは明らかに違っていた。
ある日、紬は母に聞いてみた。
「お母さん、最近よく電話してるけど、誰と話してるの?」
「え?ああ、ママ友よ。最近仲良くなった人がいてね」
母は笑って答えたが、その笑顔は少し不自然だった。紬は何も言わなかったが、心の中で疑念が膨らんでいった。母は嘘をついている。そう感じた。でも、娘として母を疑いたくなかった。きっと自分の考えすぎだと、自分に言い聞かせた。
そして十月のある夜、紬の疑念は確信に変わった。父が紬と蒼汰を呼んで、静かに話を始めた。
「紬、蒼汰、二人に大事な話がある」
「何?お父さん」
紬は不安な予感がした。父の表情は、いつもより硬かった。
「もしも、お父さんとお母さんが離れて暮らすことになったら、二人はどうしたい?」
その瞬間、紬の中で何かが弾けた。やっぱり。母が何かしたんだ。父は知っているんだ。紬の頭の中で、様々な情報が繋がっていった。母の不自然な行動、隠し事、父の最近の疲れた表情。全てが一本の線で繋がった。
「お父さん、もしかして……」
「まだ何も決まっていない。ただ、可能性の話だ」
父は優しく言ったが、紬にはわかった。これは可能性の話ではない。もう決まっていることなのだ。弟の蒼汰が不安そうに聞く。
「パパとママ、離婚するの?」
「そうなるかもしれない。だから、二人の気持ちを聞いておきたいんだ」
紬は少し考えてから、はっきりと答えた。
「お父さんについていく。蒼汰も」
「どうして?」
父が聞く。紬は深呼吸をして、心の中にあった言葉を口にした。
「だって、お父さんはずっと家族のために頑張ってきたもん。お母さんは……最近、なんか変だった」
「変って、どういうことだ?」
「よくわかんないけど、スマホばっかり見てニヤニヤしてたり、急に外出したり。お父さんが仕事で遅い日、嬉しそうにしてる時があった」
紬は全てを話した。父は静かに聞いていたが、その表情には深い悲しみが浮かんでいた。紬は自分の言葉が父を傷つけているのではないかと不安になったが、でも嘘はつけなかった。母がしたことは、きっと許されないことなのだ。
「そうか。わかった」
「お父さん、何があったの?」
紬が心配そうに聞く。父は紬の頭を撫でた。
「大丈夫だ。お父さんが全部何とかするから」
その父の言葉に、紬は少しだけ安心した。でも同時に、これから家族がどうなってしまうのか、不安でいっぱいだった。
数日後、家の空気は決定的に変わった。母が毎日泣いていた。父は母と話すこともなく、書斎にこもっていた。蒼汰は状況がよくわからないようで、混乱していた。紬は弟の面倒を見ながら、自分の感情を押し殺していた。学校では普通に振る舞ったが、心の中は不安と怒りでいっぱいだった。母に対する怒り。なぜ、こんなことをしたのか。なぜ、家族を裏切ったのか。
ある夜、母が紬の部屋にやってきた。
「紬、話があるの」
「何?」
紬は冷たく答えた。母は悲しそうな顔をしていたが、紬は同情する気にはなれなかった。
「お母さん、悪いことをしたの。お父さんを裏切ってしまった」
「知ってる」
「紬……」
「お父さんが何も言わなくても、わかってた。お母さん、誰かと浮気してたんでしょ」
母は言葉を失った。紬は続けた。
「お母さん、私たちのこと、どう思ってたの?私と蒼汰より、その人の方が大事だったの?」
「違う、そんなことない。お母さんは二人のことを……」
「嘘つき」
紬の声は震えていた。涙が溢れそうだったが、必死に堪えた。
「お母さんが本当に私たちのこと大事に思ってたなら、こんなことしなかったはずだよ。お父さんを裏切って、私たちも裏切ったんだよ」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
母は泣き崩れた。でも紬は、母を抱きしめることはできなかった。心の中で、もう母を信じられなくなっていた。紬は部屋を出て、父の書斎に向かった。ノックをすると、父が優しく迎えてくれた。
「どうした、紬」
「お母さんと話した」
「そうか」
「お父さん、私、お母さんのこと、許せない」
紬の目から涙が溢れた。我慢していたものが、一気に溢れ出した。父は紬を抱きしめてくれた。
「泣いていいんだぞ。お前は何も悪くない」
「でも……私、お母さんのこと、嫌いになりたくない……でも、許せない……」
紬は父の胸で声を上げて泣いた。十三歳の少女には、あまりにも重い現実だった。父は何も言わず、ただ紬の背中を撫でてくれた。その温かさが、紬には何よりも嬉しかった。
離婚調停が始まった。紬は調停委員の前で、自分の気持ちを書いた意見書を提出した。「私は父と暮らしたいです。母は私たちを裏切りました。もう信じられません」そう書くのは辛かった。母を否定することは、自分の半分を否定することのように感じた。でも、それが紬の正直な気持ちだった。
学校では、誰にも家のことは話さなかった。友達が恋愛の話をしていても、紬は黙って聞いているだけだった。愛だの恋だのという言葉が、今の紬には空虚に聞こえた。母だって、きっと父のことを愛していたはずなのに。それなのに、なぜ他の人を好きになってしまったのか。大人の世界は、紬にはまだ理解できなかった。
親友の美月だけには、少しだけ話した。
「実は、うちの両親、離婚することになったんだ」
「え……そうなの?」
「うん。お母さんが……浮気してて」
「そんな……」
美月は言葉を失った。紬は続けた。
「私、お父さんについていくことにした。お母さんのこと、許せないから」
「紬……辛かったね」
「うん。でも、もう決めたから」
美月は紬の手を握った。
「私、紬の味方だから。何かあったら言ってね」
「ありがとう」
紬は少し救われた気がした。一人じゃない。そう思えることが、今の紬には大きな支えだった。
数ヶ月後、離婚は正式に成立した。紬と蒼汰は父と共に、新しいマンションに引っ越した。母とは別々に暮らすことになった。引っ越しの日、母が見送りに来た。
「紬、蒼汰、元気でね」
母の目は真っ赤に腫れていた。蒼汰は母に抱きついて泣いていた。でも紬は、母から距離を置いたままだった。
「お母さん」
紬は静かに言った。
「私、まだお母さんのこと、許せない。でも、いつか……いつか、許せる日が来るかもしれない」
「紬……」
「でも今は、無理。ごめんなさい」
紬はそう言って、引っ越しのトラックに乗り込んだ。母の泣く声が聞こえたが、振り返らなかった。振り返ったら、自分も泣いてしまいそうだったから。
新しい生活が始まった。父と紬と蒼汰の三人での生活。最初は慣れないことばかりだった。家事も、紬が手伝わなければならなくなった。料理も、少しずつ覚えた。父は仕事で忙しいから、紬がしっかりしなければと思った。でも、父は決して紬に無理をさせなかった。
「紬、お前は子供なんだ。母親の代わりをする必要はない」
「でも、私がやらないと」
「家事は三人で分担すればいい。お前には、お前の人生がある。勉強も、友達との時間も大切にしなさい」
父の言葉に、紬は涙が出そうになった。父は、ちゃんと紬のことを見ていてくれる。母がいなくなっても、父がいる。それだけで、紬は前を向けた。
半年が経った頃、紬の心にも少しずつ変化が生まれていた。母への怒りは、まだ完全には消えていない。でも、少しずつ薄れてきていた。母も人間なのだ。完璧ではないのだ。間違いを犯すこともある。それを理解できるようになってきた。ある日、紬は父に言った。
「ねえ、お父さん」
「何だ?」
「私、もうお母さんのこと、許してもいいかなって思うようになった」
父は驚いて紬を見た。
「どうしてそう思ったんだ?」
「お母さんがしたことは許せない。でも、ずっと恨んでいても、自分が苦しいだけだから」
紬は大人びた表情で言った。中学二年生になった紬は、少しずつ成長していた。母の裏切りという辛い経験を通して、人間の弱さや、許すことの大切さを学んでいた。
「そうか。お前がそう思うなら、それでいいと思う」
父は紬の頭を撫でた。
「でも、一緒に暮らしたいとは思わない。お父さんと蒼汰と、三人がいい」
「わかった」
父は優しく笑った。紬は、この笑顔を守りたいと思った。母がいなくなって、父は傷ついた。でも、父は決して弱音を吐かなかった。紬と蒼汰のために、必死に頑張ってくれている。だから紬も、しっかりしなければと思った。
ある日、紬は母にメールを送った。『お母さん、元気ですか?私は元気です。お父さんと蒼汰と、三人で頑張ってます。お母さんのしたことは、まだ完全には許せないけど、でも、いつか許せる日が来ると思います。それまで、お母さんも頑張ってください』短いメールだったが、紬の正直な気持ちだった。
数時間後、母から返信が来た。『紬、ありがとう。お母さん、本当にごめんなさい。いつか、ちゃんと謝りたい。それまで、お母さんも頑張ります。紬のこと、ずっと愛してます』紬は涙が溢れた。母を許したわけではない。でも、完全に拒絶するつもりもなくなっていた。母も、きっと苦しんでいる。自分のしたことの重さを、毎日噛み締めているのだろう。
紬は窓の外を見た。春の空は青く、桜が咲き始めていた。新学期が始まる。紬は中学二年生になる。新しい一年が、また始まる。家族の形は変わった。でも、紬には父がいる。弟がいる。そして、いつか許せる日が来るかもしれない母がいる。それだけで、紬は前を向ける。
「お父さん、ご飯の準備できたよ」
紬は父を呼んだ。三人で食卓を囲む。以前より質素だけど、温かい時間。それが、今の紬にとって、何よりも大切なものだった。母の裏切りは、紬を大きく成長させた。人を信じることの難しさ、許すことの大切さ、そして家族の絆の強さ。十三歳の少女が学ぶには重すぎる教訓だったが、紬はそれを乗り越えていった。
そして紬は、静かに誓った。自分は、絶対に母のような大人にはならないと。誰かを裏切るようなことはしないと。大切な人を、ちゃんと大切にできる大人になると。それが、母の裏切りから紬が学んだことだった。
桜の花びらが、窓の外を舞っていた。春の風が、優しく吹いていた。紬は笑顔で、新しい季節を迎えた。




