弥生の決断〜夫の裏切りと新しい人生〜
樫原弥生が自宅のポストから封筒を取り出したのは、十月のよく晴れた午後だった。差出人の名前はない。封筒の中身を確認しようと開封した瞬間、弥生の人生は大きく変わることになる。
中には数枚の写真と、印刷されたメッセージのやり取りが入っていた。写真に映っているのは、夫の巧と見知らぬ女性。二人は親密に腕を組み、ホテルの入り口に消えていく姿が克明に記録されていた。メッセージの内容は、さらに生々しかった。『今日も会えて嬉しかった』『君といると時間を忘れる』『旦那は気づいてないの?』『うん、チョロいから大丈夫』弥生の手が震えた。膝から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
実は、弥生は薄々気づいていた。夫の帰りが遅くなったこと。休日に急な仕事だと言って出かけることが増えたこと。スマホを肌身離さず持ち歩くようになったこと。だが、見て見ぬふりをしていた。気づかないふりをしていれば、この生活は続くと思っていた。しかし、こうして証拠を突きつけられると、もう逃げることはできなかった。
弥生は四十歳。パートで働きながら、二人の子供を育ててきた。長女は高校二年生、次男は中学一年生。夫は広告代理店の営業部長で、収入は安定していた。経済的には恵まれていたし、夫婦仲も悪くはないと思っていた。いや、思い込もうとしていた。ここ数年、夫との会話は減っていた。週末も仕事だと言って家を空けることが多く、家族で過ごす時間はほとんどなくなっていた。それでも弥生は、夫が仕事で忙しいのだと自分に言い聞かせていた。
写真をもう一度見る。夫の表情は、家で見せる顔とは違っていた。楽しそうで、生き生きとしている。その隣にいる女性は、弥生より若く見えた。きれいに着飾って、幸せそうに笑っている。弥生は鏡で自分の顔を見た。疲れた表情。増えた白髪。たるんだ頬。いつの間にか、自分は老け込んでしまっていた。夫の世話、子供の世話、パートの仕事。自分のことは後回しにして、家族のために生きてきた。それなのに。
「お母さん、ただいま」
長女の声で我に返る。弥生は慌てて写真を封筒にしまった。
「お帰りなさい。今日は部活どうだった?」
「うん、楽しかった」
長女は無邪気に笑う。弥生はその笑顔を見て、胸が締め付けられた。この子たちに、どう説明すればいいのか。お父さんは他に好きな人がいて、家族を裏切っていたのだと。
その夜、巧が帰宅したのは十時を過ぎていた。いつものように遅い。
「ただいま」
「お帰りなさい。ご飯、温めるね」
「いや、外で食べてきた」
巧は疲れた様子でソファに座った。弥生は夫の顔を見た。この人は、今日もあの女性と会っていたのだろうか。それとも本当に仕事だったのだろうか。もう、何が真実なのかわからなかった。
「あなた、最近疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「ああ、仕事が立て込んでてな。でも大丈夫だよ」
巧は笑った。その笑顔も、写真で見た表情とは違う。弥生に見せる顔は、どこか作り物のように感じた。弥生は何も言わなかった。まだ、どうすればいいのかわからなかった。ただ、このまま何もなかったふりをして生きていくことはできないと、心の底で感じていた。
翌日、弥生は封筒を持って弁護士事務所を訪れた。予約なしで飛び込んだため、少し待たされたが、やがて応接室に通された。中年の女性弁護士が、穏やかな表情で迎えてくれた。
「どうされましたか?」
「夫の不倫の証拠を手に入れました。どうすればいいのか、相談したくて」
弥生は封筒を差し出した。弁護士は中身を確認し、静かに頷いた。
「これは、かなり決定的な証拠ですね。相手の女性についても調べた方がいいでしょう。それで、あなたはどうしたいと考えていますか?」
「わかりません。ただ、このまま何もしないのは嫌なんです」
「わかりました。まず、選択肢を整理しましょう。一つは離婚して慰謝料を請求すること。もう一つは、夫婦関係を継続しながら不倫相手に慰謝料を請求すること。どちらを選ぶかは、あなた次第です」
弁護士の言葉を聞きながら、弥生は考えた。離婚。その言葉は重い。子供たちのこと、経済的なこと、世間体のこと。考えなければならないことは山ほどあった。だが、同時に、もうこの嘘の結婚生活を続けることはできないとも思った。
「離婚したいです。慰謝料も請求したい」
弥生の声は震えていたが、決意は固かった。弁護士は優しく頷いた。
「わかりました。それでは、詳しい状況を教えてください」
弥生は、ここ数年の夫の変化、不審な行動、そして自分が感じていた違和感を全て話した。話しているうちに、涙が溢れてきた。悔しさ、悲しさ、怒り。様々な感情が混ざり合って、止まらなくなった。
「大丈夫ですよ。あなたは何も悪くない。裏切ったのは夫です」
弁護士の言葉に、弥生は少しだけ救われた気がした。そうだ、悪いのは自分じゃない。夫なのだ。それから数日後、弁護士から連絡があった。
「相手の女性について調べました。名前は柊梢。既婚者で、二人の子供がいます。夫は大手IT企業のマネージャーだそうです」
「既婚者……」
弥生は言葉を失った。相手も家庭を持っていたのだ。それなのに、二人は何年も関係を続けていた。その事実が、さらに弥生の心を傷つけた。
「それと、もう一つ。相手の夫も、奥さんの不倫に気づいたようです。こちらも離婚と慰謝料請求の準備を進めているとのこと」
「そうですか……」
弥生は複雑な気持ちだった。相手の夫も被害者なのだ。同じように裏切られ、傷ついているのだ。弁護士は続けた。
「相手の夫の弁護士と連携を取ることも可能です。情報を共有すれば、より有利に進められるでしょう」
「お願いします」
弥生は頷いた。そして、夫と正面から向き合う覚悟を決めた。その日の夜、弥生は夫に全てを話す決心をした。子供たちを実家に預け、二人きりになる時間を作った。巧が帰宅すると、弥生はリビングのテーブルに例の封筒を置いて待っていた。
「何だ、改まって」
巧が不審そうに聞く。弥生は封筒を差し出した。
「これ、見て」
巧は封筒を開け、中身を確認した。その瞬間、顔色が変わった。
「これは……どこで……」
「どこで手に入れたかは関係ない。事実かどうか聞いてるの」
弥生の声は、自分でも驚くほど冷静だった。巧は言葉に詰まった。
「……事実だ」
「そう」
弥生は深く息を吸った。
「私、離婚したい。慰謝料も請求する。それと、相手の女性にも請求するから」
「待ってくれ、弥生。話せばわかる」
「何を話すの?八年も私を騙し続けていたこと?家族を裏切っていたこと?それとも、相手と一緒になるために、私たちの貯金を使おうとしていたこと?」
弥生は立ち上がった。
「もう、あなたとは一緒にいられない。子供たちにもちゃんと説明する。全部、あなたがしたことの結果よ」
巧は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。弥生はそのまま寝室に向かった。もう、振り返ることはなかった。
それから数週間、弥生の人生は目まぐるしく変わった。弁護士を通じて正式に離婚調停を申し立て、慰謝料三百万円と養育費を請求した。巧は会社でも不倫がバレて、左遷された。営業部長から関連会社への出向。給料も大幅に減額された。子供たちには、正直に事情を話した。最初はショックを受けていたが、やがて母親の決断を支持してくれた。特に長女は、父親の裏切りに激怒し、もう会いたくないとまで言った。
「お母さん、私たちはお母さんの味方だから」
長女の言葉に、弥生は涙が止まらなくなった。子供たちは、自分が思っていた以上に強かった。そして、自分のことを大切に思ってくれていた。巧との離婚は、三ヶ月後に正式に成立した。慰謝料三百万円は分割払いで支払われることになり、養育費も毎月きちんと振り込まれる約束をした。巧は左遷先で苦しい生活を送っているらしい。さらに、相手の夫からも慰謝料五百万円を請求され、借金をして支払ったという話を聞いた。
弥生は、夫の末路を聞いても何も感じなかった。哀れみも、同情も湧かなかった。ただ、当然の報いだと思った。裏切った者には、それ相応の罰が下る。それだけのことだ。
離婚後、弥生は子供たちと小さなアパートで暮らし始めた。以前より狭い部屋だったが、不思議と心は軽かった。もう、夫の顔色を窺う必要もない。嘘をつかれる心配もない。ただ、子供たちと共に、正直に生きていけばいい。パートの収入と養育費、そして慰謝料の分割払いで、生活はギリギリだった。それでも、弥生は前を向いていた。弁護士が言っていた。
「あなたは、新しい人生を始められるチャンスを得たんです。過去に縛られず、前を向いて歩いてください」
その言葉を胸に、弥生は毎日を生きている。
ある日、弥生はスーパーで偶然、柊梢を見かけた。相手の女性だ。彼女はレジのパート店員として働いていた。疲れた表情で、客の対応をしている。弥生は彼女を見て、何も感じなかった。憎しみも、怒りも。ただ、彼女もまた、自分の選択の結果を生きているのだと思った。二人の目が一瞬合った。梢は弥生に気づき、顔を青ざめさせた。だが、弥生は何も言わず、静かにその場を去った。もう、関わる必要はない。それぞれが、それぞれの人生を歩めばいい。
家に帰ると、子供たちが夕食の準備をしていた。
「お母さん、お帰りなさい」
「ただいま。二人とも、ありがとう」
三人で食卓を囲む。以前より質素な食事だが、笑顔がある。温かさがある。これが、本当の家族なのだと、弥生は思った。
その夜、弥生は一人、窓の外を見た。夜空には星が輝いている。離婚してから半年。傷はまだ完全には癒えていない。でも、少しずつ前に進んでいる。それだけで十分だった。巧のことを思い出すこともある。二十年近く連れ添った相手だ。完全に忘れることなどできない。でも、もう愛情はなかった。あるのは、ただの記憶だけ。そして、彼がどんな末路を辿ろうと、もう自分には関係ない。
弥生は新しい人生を歩み始めていた。一人の女性として、二人の子供の母親として。夫に依存せず、自分の足で立って生きていく。それが、弥生が選んだ道だった。
窓の外、冬の冷たい風が吹いていた。弥生はカーテンを閉め、温かいリビングに戻った。子供たちの笑い声が聞こえる。それが、今の弥生にとって、何よりも大切なものだった。裏切った夫には、それ相応の報いが下った。失ったものの大きさに、彼は今頃気づいているだろう。だが、もう遅い。時間は決して巻き戻らない。そして弥生は、もう振り返ることはなかった。前だけを見て、子供たちと共に、新しい未来へと歩いていく。
それが、樫原弥生の決断だった。




