第8話 アトリエのモデル
モデルをしてもらう約束の日。珠樹くんが朝から家にやってくるのに併せて、早朝から今日の食事を準備する。今日のメニューはグリーンカレーにした。これなら温めてご飯にかけるだけですむ。
美味しく食べてほしいと思うと、包丁を握る手にも力が入る。前回家でご馳走した時も、打ち上げにいった時も、美味しく食べている姿が、とても愛おしい、そう思って心をこめてつくった。
珠樹くんが来ると、まずリビングに案内してどんな絵にするか相談することにした。
「まずは君に送る絵を描こうと思う、6号くらいの壁にかけやすいサイズでいいと思うんだけど、どんな姿を描いて欲しい?」
私は彼の希望をなんでも聞きたいと思い、素直に問いかけてみた。
「そうですね……最初に聡介さんがデッサンしてくれたのは、創作の作業中の私でしたよね?あれ、『つい描きたくなってしまった』って言ってくれましたよね? 僕はそれを描いてほしいです」
「うん、わかった。道具今日はもってる?」
「はい、持ってきてます」
「じゃあ、アトリエに移動して、まず普通に作業してみてくれるかな。次のイベント用のやつを真剣につくってくれたらいいよ。僕はそれをみて、描くから」
「わかりました」
二人でアトリエに入り、珠樹くんにはいつもするのと同じように、制作をしてもらう。
私は少し離れたところにイーゼルをおくと、まず珠樹くんを観察する。
珠樹くんがだんだん創作に熱中し、こちらを気にする様子がなくなっていくのがわかる。
それに合わせて私の心からも珠樹くんへの雑念が消えていき、私はただキャンバスに真っ直ぐ向き合って、愛しい珠樹くんではなく、そこにあるひと[#「ひと」に傍点]をただ描き写すことだけに集中していった。
白いキャンバスが、私の描く線、弧、点で埋め尽くされていく。
真剣に手元を見る眼差し、器用に動く指先、大事そうに部品をしまっていく手つき。それらがどれも美しいと感じる。その美しさを懸命に、キャンバスの上に再現していく。
「よし、出来た」
そうつぶやくと、周りの光景や匂いなどが一斉に意識の表層に浮かび上がってきた。鼻をくすぐるコーヒーの香りに、ふと顔をあげると、そこには、二つのマグカップをそれぞれの手にした珠樹くんがいた。
「お疲れ様、そろそろ終わるかな、と思ってコーヒー淹れておいたよ、勝手にキッチン使ってごめんね」
私は自分のマグカップを受け取りお礼を言った。
「ありがとう、いい香りだ。ごめんね、集中してて気付かなかった」
「いいえ、僕の為にこんなに真剣に描いてくれて嬉しいです。下絵はこれで終わりですか?」
「ああ、後は絵の具で塗っていくだけだね。モデルありがとう。出来上がったら真っ先に連絡するから。そうだ、お昼つくっておいたんだ、一緒に食べよう。今日も遅くなってしまったね、急いで準備しよう」
ダイニングキッチンに移動して、対面型のキッチンで、ダイニングテーブルで待ち遠しそうに待っている珠樹くんのために、カレーを温め直す。
なんだか同棲でもしてるみたいだ……などと馬鹿な事を考え、タイマーで炊いてあるご飯を深皿によそい、そこにカレーをかける。
「おまたせ、さぁ、食べよう」
珠樹くんはいつものように手をあわせると、「いただきます」と小さく言って、食べ始める。
「おいしーい! 聡介さん、これ美味しいよ」
「ありがとう、たっぷり食べてね」
完成度をあげるために、今週は3回もグリーンカレーを作って、カレー週間になってた事も、この笑顔を見ていると全部許せる出来事になる。
せめて、洗い物はさせてほしいという珠樹くんの要望を入れて、私は洗い物をする彼を、さっきとは逆に、ダイニングテーブル側から眺めていた。これもまた……家族みたいだなぁと考えていると、
「聡介さん、こうしてると、なんだか家族になったみたいですね」
などという、破壊力の高い言葉を珠樹くんから言ってくる。
「あ、ああ、そうだね」
こちらの心がバレてしまっているんじゃないか……早鐘のように心臓がバクバクするのを、押さえ込んで、なんとか相づちを打った。
洗い終わってこちらを見る珠樹くん、なんだか彼の顔も赤いような気がするな、と思ってたら、彼がこう切り出した。
「今日のモデルはもう終わりですけど、この後も彩色されるんでしたら、見てていいですか?」
「ああ、いいよ。でも退屈じゃない?」
「ぜんぜん、聡介さんと一緒なら退屈になんかならないですよ」
これが、恋人からの言葉なら、嬉しくて仕方ないだろう。でも、彼は人のものだ。立場はわきまえないといけないけれど、友人としてなら……。
「じゃあ、好きにしてくれてていいからね。喉が渇いたなら冷蔵庫は勝手にあさってくれていいから」
そう言って二人でアトリエに戻る。
そして私は絵の具を出して、彼の絵を彩り続けた。
最初はニコニコこちらを見ている珠樹くんに、こちらも笑顔を返していたけれど、集中すると、だんだんそれもなくなり、私はただ、絵と向き合う。
彼の穏やかな空気を、真剣にうちこむ情熱を、絵筆を滑らせて、色で表現しようとする。
フッと気付くと外が暗くなってきている。
周りを見回すと、部屋の隅に置いてあるソファに座った珠樹くんが、器用に船を漕いでいる。
そばによって、彼の顔を眺める。長い睫毛、柔らかそうな頬、そして紅をさしたような、瑞々しい唇。どれもが魅力的で、起きて動いている時は、元気で凜々しい雰囲気なのに、寝顔は、まるで少女のように愛らしかった。
こんな寝顔をじっと眺めているなんて、彼にばれたらどうしようと思った私は、彼を起こそうと思い……何故か出来心で、彼の柔らかい頬に、指をのばし、ツンツンとつついてしまっていた。
「ん……、は? あれ、僕寝ちゃってましたね、ごめんなさい。それと、もう起きましたから、つっつくのはやめてくださいね」
名残惜しく彼の柔らかい頬から指を離す。
「おはよう、いい夢が見れたかな?」
「うーん、覚えてないです。でも今日一日楽しかったです」
その後は、次回の展示会の話と、もう一枚の絵の話をしながら、夕飯を一緒に食べた。
「じゃあ、次の絵のモチーフは、太極拳を見せるってことでいいんですね。流石にこの部屋だと、近所迷惑だと思うので、どこか近くに身体を動かせるところないですかね? あ、これも美味しい」とパクパクとまた美味しそうに私の作ったパスタを食べている。
「この裏にある公園はどうだろう?そんなに大きな公園じゃないから、子供が遊んでるくらいだけど。」
「子供達を驚かせたくないですし、もっと人のいないところがいいです」
「わかった、来週までに考えておくよ」
「お願いします。絵の仕上げ頑張ってくださいね、でも急いで無理したりしないでくださいね。ちゃんと待ってますから」
待ってるという言葉にドキっとさせられながら、「ああ、出来たら連絡する」と素っ気なく返事することしかできず。彼が帰って一人になってから、もっといい言い方があったろうにと頭を抱えた。
不定期連載となりますが、完結までお付き合いください。
ブックマーク、評価、顔文字、感想、コメントなど反応いただければ、とても嬉しいです。
モチベーションアップの為に、よろしければ何かリアクションしていってくださるととても嬉しいです。




