表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

弟の家族

作者: 夜道 迷

 東京から一番近い「遠く」。そんな謳い文句で売り出している郊外の街で両親と暮らすようになって、はや三年。駅から張り巡らされたペデストリアンデッキの末端までしか血液が届いていないような、駅前に、夕暮れになると椋鳥かなにかの大群が異常に集まる木があるような、沼に伝わる河童伝説くらいしか老舗和菓子舗の菓子にするテーマがないような、中学の先輩後輩とかいう関係性が成人後もずっと続いていくような、それでいて駅前の落とし物は誰かが必ず拾い上げてガードレールに掛けといてくれるような、そんな街だ。


 今すぐ子どもが欲しい夫と、いまいち実感がもてなくて、もう少し先でよかった私。子どもなんていなくとも、夫は私という単体に価値を感じていて、私と過ごすだけで十分幸せを感じているものとばかり思っていた。最後のほうは、あらかじめ用意した言い分を交互に披露し合うだけの会話しかなくなって、その溝は、ついに埋まることはなかった。


 最後の最後は、離婚届に載った縮れ毛を巡って、こんな重大な局面に、緊張感のないだらしのない毛を落としたのはどちらかと言い争いになり、地元で口にすれば、それなりに一目置かれる国立大の大学院を出た同期の二人とは思えないレベルの言い争いになり、別れた。夫はすぐに七つ下の女と再婚して待望の子をもうけ、私は独りのまま、子どもを産むのは難しい年齢を迎えた。


「子どもが何人とかは、結婚前にある程度詰めとくもんじゃないの?」


 パート先の二回り下の友は言うが、その男との子どもがそこまで欲しいかどうか、子どもをもうけても大丈夫な男かどうかなんて、結婚して一緒に暮らしてみなきゃわからない。現に夫は、まさかの癇癪もちだった。


 癇癪もちだけは避けようと、慎重の上にも慎重を期して選んだ彼は、やはりどこかで癇癪もちだけが放つなにかを発していて、そこに家族としての懐かしさを嗅ぎ取ってしまったのだろう。そして彼は彼で、癇癪を受容してくれそうな私という人間を嗅ぎ分けたのだろう。


 幼い頃から家族だけは、なにを差し置いても、自分を犠牲にしても、壊したくなかった。家族がばらばらになることは、私にとって最恐の悪夢だった。だから離婚してしばらくは、心休まるのは夢の中にいる間だけで、目が覚めたその瞬間から、離婚してしまったという重い現実に押し潰された。あのときは、死にたさがぎゅんぎゅん唸りながら定期的に襲ってきた。今もだいたい毎日薄ら死にたいのは死にたいけど、死ぬと決めきれるほど、ちゃんとは自分のことがわかっていなくて、今死んだら、結局どこのどいつが死んだことになるのか訳がわからなくなりそうで、だからこそ、やりきった人だけに許される諦めという踏ん切りもいまだにつかなくて、どうにか自分を律して生きている。ただ、切迫した死の危機からは少しばかり遠ざかったと感じていて、ほっとしている。たぶん自ら死ぬときは、膨大なエネルギーを放出しながら果てるのだろうけど、今の私には、そんな勢いは残されていない。


 ひょっとすると私の愛情が狂っているのかもしれない、とも思う。親の愛情が全部、弟のともくんに行っちゃったから? その答えが今更わかったところで、夫とはもう他人だ。そんなことにいつまでもこだわってるくらいなら、今の暮らしにとっとと馴染んでしまいたかった。


 私の故郷はずっと団地の一角で、父が膝を悪くして、エレベータのない五階から一階に引っ越したことが一度だけ。それまではずっと、階段を一段のぼるたびに、吐く息にいちいち音声を乗せて、しんどさをアピールしてくる父が鬱陶しかった。そこからはずっと、眺めの悪くなった3LDKが私の実家だ。子ども部屋に舞い戻った私を待っていたのは年季の入ったベッドで、体重を乗せたところがきしきしいうので、怖くて、思うように寝返りも打てない。木の脚が一本でも折れた日にゃ、腰椎圧迫骨折は免れないだろう。そんな居場所でも、まだ収容先があるだけ、ましなほうだと自分に言い聞かせている。


 だって実際、母を責めたところで、なんにも生まれはしなかった。


「ともくんばっかりって言うけどね、子どもたちを平等に愛せだなんて、そんなこと誰が決めたのよ。お母さんだって人間なんだから、助けの必要な子を助けるに決まってるでしょ。だからって、なんの法律にも違反してないよ、お母さんは」と開き直られて、それで仕舞いだった。


 そのともくんは仕事を転々としたせいで、四十にもなって手取りは二十万にも満たない。そのくせ、四人の子もちだ。人数の分だけの児童手当を合算したところで、生活が苦しいことに変わりはない。今は小さな出版社にいるけど、いつまで経っても編集助手扱いだ。その前は、メンバー全員の力を最大限引き出す会議のファシリテータを養成するセミナーを開いている会社にいた。なにをしているのかもわからないくせして、なぜだか私は、名刺をもらってすぐの相手の名前をやたらと呼びたがる人とか、言いたいことは三つと言いながら毎度三つ以上ある人とか、そういう人たちを思い浮かべていた。そのもう一つ前には、老女が一人で運営するNPОの事務局長に就任していた。老女がサ高住に入って、組織は解散したみたいだったけど。


 どれも大勢の人に囲まれた職場で、広く人の意見に触れていると、極端な考えも揉まれに揉まれて、中庸へ中庸へと修正されていきそうなものだけど、ともくんの場合は違った。


 癇癪もちの、ともくんのキレ方は尋常でなかった。目の前の相手が生まれて此の方積み上げてきた善行がいかに無駄であったかを一つずつ検証しながら踏みにじり、無に替えて、もてる力のすべてを召し上げてしまうような、禁じ手のワードをこれでもかと積み上げ、二度と立ち上がれなくなるまで打ちのめすことに徹する。何度も何度も執拗に。長期的に見れば、ここは負けたが得だとか、逃げたが得だとか、そんな打算は働かない。蓄積されたデータから同じ失敗を避ける予断も働かない。そうした一切合切の生きる知恵を偏見や先入観と混同している。


 父も癇癪もちの我が家では、暴言は男らしくなるための通過儀礼と信じられていて、ともくんの暴言を諫める者はいなかった。


 当然ながら、ともくんが暴言を吐いた相手との関係は修復不可能で、毎回取り返しがつかない。なのに信じて疑わないのだ。僕があまりにも的確に相手を分析してしまうものだから、どう言ってあげれば相手の人生が好転するか見えすぎてしまうものだから、どうしたって世間から疎まれてしまうのだと。そして、まくし立てる。癇癪ってのはうまく言葉にできないやつが起こすもんで、これだけ言語化できてる僕が癇癪なんか起こすわけないだろうがと。そう吐き捨てながら、自分の言葉にヒートアップし、また癇癪を起こす。一度医者を勧めたが、僕は医療的・心理学的な解決なんて望んでないからと聞く耳をもたない。かと言って、哲学的・文学的に解決する気配もない。


 幼児の癇癪は理想の自分と実際の自分の埋まらないギャップに、その不甲斐なさに起こすものだろう。だとすれば、ともくんの癇癪もしょせん、気に食わない自分のいびつな影に吠える犬のようなもの。自分とやるシャドーボクシングのようなもの。だとしても、たまたまそこにいて、サンドバックにされた人間はたまったものじゃない。


 きっと癇癪を起こす人間はその間、別の物質にでもなっているんだろう。だって人間の言葉が通じなくなる。自分即ち正義の自分目線定点カメラ一台でしか世界を見ていないから、彼らは無敵だ。ドローンどころか衛星まで飛ばすようにして、前から後ろから、真俯瞰から、過去から未来から、自分を監視してしまう自分が莫迦莫迦しく思えてくる。


 ともくんからの暴言は何度浴びせられても慣れない。思い出すたびに、全身の太い血管という血管が激しく脈打って、便座に腰かけていても尻まわりの太い血管が激しく波打って、私をもち上げ、地震かと紛うほどだ。


 人が爆発する寸前の、まもなく噛むことが確実な犬みたいな静けさが苦手で、諦めから服従へとモードが切り替わっていく、そのときの自分も嫌いだった。誰かが炸裂したあとの祭りのあとのごみ拾いみたいな空気もいやで、あんなのを味わうくらいなら、相手の思想を先読みして、いかにも言いそうなことを私の意見みたいに言ってあげて、仲間とみなされて、最悪の事態を回避したほうがまだましだった。そのうち、自分の意見なんてものは、あまりなくなった。そもそも、世の中のほとんどのことは正直どっちでもよくて、だから意見なんてなくても困りはしなかった。


 衣服もそう。どんなのがいいってこともなくて、夫が買い与えてくれたものをずっと着ていた。こういう衣服を身に着けている女と歩いている俺なら恥ずかしくないという基準で選んでくれた衣服を。人の目が衣服まで決めてしまう生き方も、しんどそうだと思いながら。


「子どもが大きくなったら働くから」


 そう言っていたともくんの妻は、子どもが一人生まれ、二人生まれ……、計画性がないのか、無謀な計画があるのかわからない夫婦の子孫は増え続け、凶暴な遺伝子は受け継がれ、いつまで経っても一番下の子どもが小さいので、いつまで経っても働けない。両家の両親からの支援物資が命綱で、その支援メンバーに三年前から私も加えられた。

 

 子どもができたと聞くたびに、私の脳裏に、セキセイインコとカブトムシとたまごっちの悪夢がよみがえった。ともくんが飼い始めたペットの世話はひと月も経たないうちに、いつも私の担当になった。子育てだけは続いてくれと願うしかない。


 我が家では朝から、殺虫剤をできる限りちびちび使ったとして、耐性をつけてくるゴキブリに同じ殺虫剤は何年くらい通用するかで議論が白熱し、父の癇癪玉がまた炸裂した。ゴキブリは病に似て、見て見ぬふりをしたが最後。手の施しようがないところまで増殖してしまうから、今の一瞬に徹底して殺るべきだという私の持論は、あえなく却下された。


 先週の晩だって、そうだった。トイレットペーパーのシングルとダブルのどちらが結果としてより多く紙を使ってしまうかで意見が割れた。洟は、朝の洗顔時にできるだけまとめて手でかんで流してしまえば、ティシュー代は浮く。その浮いた分、トイレットペーパーに自由度をもたせてもいいのではないかということで、その日はどうにか決着した。熱くなりすぎた議論はたいてい、しょうもないところに落ち着く。

 

 恥ずかしながら我が家では、トイレも小用の場合、一度で流してはいけなかった。四、五回分溜めて、ようやくひと流しできる。発酵を始めた複数の成人のアンモニアが入り混じって放つ臭いは、掃除のおろそかな公衆便所のそれを通り越し、堪らず掟を破ってしまうこともあった。


 夏は冷房をけちり、扇風機さえつけたりつけなかったりで、私たち親子はいつも、気温の変化に体温調節機能がついていけなくなったような妙なくしゃみを繰り返していた。いつかの暑い晩、パソコンで水琴窟と秋の夜の虫の音が同時に流れてくる動画を再生してみたら、二、三度涼しく感じたので扇風機を止めると、父の癇癪玉がまたしても炸裂した。そもそも、パソコンから出る熱が暑っ苦しいんだと。そんな動画止めちまえば、その電力で扇風機くらい回せるだろうがというわけだ。


 暑さに力尽きて死んだ、氷河期世代の娘を含む三人家族の亡骸を尻目に流れ続ける水琴窟の動画だなんて、野党が大喜びで飛びついて、与党の無策を糾弾する恰好のネタにするだけで、考えただけで胸糞悪いわと父は言う。そしておそらく気象庁は、涼しい動画で体感は下がっても、体温は下がらないので惑わされないようにと会見で、日本中の貧困世帯に注意を喚起するだろう。


 しょせん、癇癪の子は癇癪。結局、人は親にされたようにしか子にできない。父から、ともくんへ。ともくんから、その子どもたちへ。誰かが気づいて断たない限り、立場の弱い女子どもは砲弾を浴び続ける。そのたった一度の行き過ぎた砲弾が、子どもの人生を狂わすことだって十分あり得る。こんな生き方も、あんな生き方もあるなんて、よその家族の生き様からまで学べるのは、よほど余裕のある家の子だけ。人生どうにかなるさなんて気楽に構えられるのにも、恵まれた環境が必要なのだ。親を責めるなという風潮は承知している。それでもやっぱり、多くの心の病の根源は親じゃないかと私はうたぐっている。人間なんて、所詮は子殺しも日常の残酷な霊長類のはしくれで、人間性という仮面に素顔を押し込めて、かろうじて踏みとどまっているだけのもの。


 終始、我が家はこんな調子なのに、ともくんと来たら、子どもの情操教育の一環とかで、優雅に花の香りのトイレットペーパーなどを所望する。ともくんに届けるトイレットペーパーの香りを間違えた私は、ちょっと遠いほうのスーパーまで交換に行くところだ。陳列棚の奥から、なるべくきれいな商品を取るのはよしたほうがいい。列の途中から、なぜか違う商品に切り替わっていたりするから。たとえ善意の支援物資でも、その香りが気に食わなければ、あの不遜な弟は容赦などしない。こうして私を交換に走らせる。


「アクアマリンとグリーンフローラルは青臭いから、子どもたちが好きじゃないって言ったじゃない。せっかく人にものをあげるなら、本当に喜ばれるものをあげなきゃ。そうじゃなければ、あげないほうがましだよ」


 世話になった人への贈答品であれば、それはいかにも立派な考え方だと思うけど、ただでもらう側の見解としてはどうなのだろう。花の香りどころか、我が家のベランダからは母の趣味だった鉢植えの花さえも消えたのだ。金がなくなるってことは、四季がなくなるってこと。季節の微妙な移ろいを感じさせてくれる花も衣服も一筆箋も買えなくなるってことだ。造花や重ね着できる衣服や線のみ引かれた一筆箋だけで一年を過ごすってことだ。


 なのに、こんな思いを噛み殺してまでたどり着いたスーパーは、冷蔵設備の不具合で本日は臨時休業で、薄暗い店内には、セルフレジの使用と未使用を示すサインだけが青白くぼおっと灯っていた。こんなことになる気が、家を出るとき、なぜだか少しだけしていた。直感とは当たるもの。直感は、たぶん単なる勘ではないから。私に蓄積された、なんらかのデータが教えてくれる胸騒ぎだから。


 エンジェルナンバーなんか信じているわけじゃないけど、胸糞悪いこんなときは、七とか八とか景気のよさそうな数字が並んだナンバーの車を見つけながらゆけば、気が紛れた。だけどあるとき、景気のいい八のゾロ目は会長か社長でも迎えに行くような黒塗りの車が多くて、そもそもゾロ目ナンバーの車は、どれもぴかぴかの高級車ばかりだと気づいてからは、金持ちは人気ナンバーの抽選に当たるくじ運までいいのかと、また気が滅入った。ああいう連中はきっと、私が後生大事に取っているような百貨店の紙袋で惜しげもなく資源ごみを出したりするんだろう。


 これならまだ、労働色の強い軽トラックの変わり色で運試しでもしているほうが、精神的にもよほど健康的だった。なくはなさそうなモスグリーンや茶色なら中吉で、日が当たればラメがかって見えるダークブルーやオレンジ色なら大吉だ。


 それにしたって、目の前の見も知らぬ人の懐に大金が入っている、ただそれだけのことが、どうしてこうも私をしらけた気持ちにさせるのか不思議だった。エリート一家の莫迦息子がやらかすと気分が高揚するのも、富よ継承されるなという無意識下での願いが叶いそうに思えてしまうからだろう。驕れる者が久しからぬのは、なにゆえか、いつだって楽しい。


 金なんか、そこまで好きでもないのに。だって金で人に頼めることなんて、金で解決できることなんて、金に換算できることなんて、たいしたことじゃない。たやすいことだ。金じゃどうにもならない、ややこしくこじらせたことで、毎日どれだけの人が苦しみ、殺し殺されていることか。


 だから、宝くじは極力買わない。買ったとしても、心のどこかで高額は当たるなと願っている。財布に残された千円札が実はピン札で、残り一枚だと思っていたら、ぴったり張りついた二枚だったときとか、惣菜のサラダについているドレッシングが小さすぎて、味薄っと思いながら食べ進めたら、底からもう一袋ドレッシングが出てきたときとかの繊細な喜びが、きっと味わえなくなるから。


 金の流れがもしも目に見えたら、濃いところ、太いところ、高速でぐるぐる回っているところ、吸い上げられていくところ、出たところへと倍になって戻っていくところ。それはそれで面白かろう。おそらく金だけは、ほかとは一線を画す、異次元の尺度なんだろう。金にはドケチのくせして、命ならば惜しげもなくくれてやる人だって、きっといるに違いない。


 だから今年の初詣も、私は金運なんて願わなかった。年明け一発目から願うようなことじゃない気がして。

 

 初詣は決まって近所の小さな弁天様なのだが、幼い頃から見慣れたはずの弁天池は、私が舞い戻った実家の子ども部屋みたいに、今年はなぜか窮屈に感じた。その碧く濁った池の淵を、いくつもの家族がだらだらと歩いていた。家族とそうでないものの境に結界を張り巡らせ、その内側を是認の空気でいっぱいにして。


 ともくんの四人の子どものうち唯一の女の子で、唯一癇癪を起こさない花菜はななちゃんのりすざるみたいな手が、ぺっとりと私の手に吸いついた。前髪をともくんと同じ、ぺったりした斜め分けにした三人の兄貴と違って、ムラサキハナナの咲く頃に生まれた彼女は巻き毛が美しい女の子だ。夫からもらったアクセサリーをほどいて、きらきらしたものだけをヘアゴムにつけて、花菜ちゃんの髪を結んであげた。


「結婚して、けっこういい生活送ってたんだな」


「ガラスだけどね」


 宝石とガラスの見分けもつかない父は言う。そういえば母の肌に、汗以外の光るものを見たことは一度もない。


「はななのためだけにつくったものだから、大事にする」


 花菜ちゃんはともくんと違って、IQだけでなくEQも高い。だからって、私と夫との間に、こんな小さな手があったらば、なにかが変わったかもしれないなどと思ったわけじゃない。


 まだ財布も金の概念ももたず、手ぶらで歩く、年端もいかない子どもは可愛い。家の中を跳ね回るイエグモの無邪気さにも似て。乳幼児同士の会話は、ときに私たち大人に、言葉を超えたコミュニケーションの在り方を教えてくれる。だけど花菜ちゃんに限っては言葉が達者で、三歳にして早くも、そいつを本気で父親に振りかざしたら、うっかり言い負かして、たちまちのうちに父親の癇癪玉が飛んでくることを悟って、口をつぐんでいるようにさえ見えた。


「三歳で、そんなこと言えるの?」


 私が笑いながら問えば、「子どもが、ちゃんとしたこと言っちゃ、おかしいの?」と返してくる。そんな子どもだ。

 

 段ボール箱いっぱいに詰めたおやつを自転車の後ろに積んで、ともくんちに届けたあとも、無事に花菜ちゃんの口に入ったのかどうか、ずっと気になる。サル山の群れの一番小さなサルに芋や林檎のおやつをあげたいのに、投げても投げても、ふてぶてしいボスザルにかっさらわれてしまった、幼少期の動物園での悪夢がよみがえる。


 初詣を見渡せば、一族の群れの最後尾に所在なさげにつき従っている私みたいな人間は、どの一族でもかったるそうに歩いていた。


「見て。鳥が魚をつかまえたよ」


 ともくんそっくりの癇癪もちの長男が水面を指差し、私の両親が目を細めた。


「よく見てたね。じぃじもばぁばも全然気がつかなかったよ」


 この日は、きょうだい四人の誰もが洟を垂らしていない奇跡的な日だった。集団保育にでも通っているのならともかく、栄養状態がよくないのか、ずっと家にいるのに、きょうだいはいつも誰かが洟を垂らしていた。


 弁天様に、私が言いたいことは一つだけだった。


「あいつがやってきたことの報いが、あいつに返ってきて、そしてあいつが気づきますように」


 縁結びも金運も、どうだってよかった。欲のない私の願い事は、たったそれだけ。それは決して呪いの言葉なんかじゃなかった。報酬も報復も、どちらも報いだから。あいつが、凶暴で身勝手極まりないともくんが、人に親切にしていれば親切が返ってくるし、人の親切を踏みにじっていれば、自分も踏みにじられる。それだけの話だった。


 そういう因果応報というのは自然の摂理で、だから、ほっといたってそうなるはずで、だから私はなにも祈っていないのと一緒なのだった。ただし私に不幸が訪れれば、それも日頃の行いの報いとなるので、おちおち体調も崩しちゃいられない。因果応報も楽じゃなかった。

 

 因果応報は人生の損を埋める依存症の発想とも似ている。足りないピースを埋めようとして、形の微妙に違うピースを無理やりねじ込んでも、いつまでも満ち足りることはない。食に依存した人間が喰らう飯はいかにもまずそうで、性に依存した人間のセックスには気持ちが入っておらず、ちっとも気持ちよさそうじゃない。ぽっかり空いた穴を埋める為だけの行為には、喜びも快感もない。埋まらないことで、かえって足りない人生への怒りが増幅されるだけのようにも思える。それでも人は、因果応報こそが世界の安定を担保していると信じて、形の微妙に違うピースを無理やりねじ込んでは、あいつにバチが当たったと留飲を下げようとする。

 

 ひと通りの行事を終えたら、どこの一族も集合し、取り立てて残すほどでもない記念日の記録を写真に残す。そのことを誰も喜んでいるふうでも、望んでいるふうでもない。歳を取るほどに、人は自分の素人らしい生々しさが写真に写り込むのを嫌ってか、列の後ろへ後ろへともぐり込む。ぶすっとしたベースに無理くり張りつかせたつくり笑いは、どこの家の家族写真でもだいたい同じで、子どもたちばかりが前に押し出される。今年もそんな写真が、我が家にも一枚増えただけの正月だった。


 弁天様に金運を願っても願わなくても、私の全財産はといえば、夫が別れるときにくれた二百万ぽっきりだった。預貯金は夫任せで、通帳を見せてもらったわけじゃないけど、ちょうど半分の額だという夫の言葉を信じた。法的な手続きを踏めば、夫になんらかの落ち度を問えて、もっともらえたのか、或いはもらえなかったのかもわからないままに。この額を母がばらしたせいで、ともくんはすっかり、そいつを当てにしている。


 預貯金が砂時計の砂みたいに崩れていくのを見るのが怖くて、ATMからは五千円ずつしか下ろせない。万札を見たくないから。そして買い物メモに書き出した、どうしても買うしかないものを、いくつもの店に分けて、こまごまと買うことで、大きな額が出ていっている現実から目をそらした。スーパーでもテレビでもSNSでも、なんだってそうだけど、私と同じくらい貧しそうな人がぜいたくしているのを見ると、同じ水準の生活を強いたくなる。離婚の愚痴を聞いてくれていた大学時代の友人からの誘いも、三回断ったら来なくなった。ランチに手土産のやり取りに、子ども関係の祝い事。会うたびに金がかかってしょうがなくて、とにかく出費を抑えたかった。


 スマホは、落として割れたタイミングで、中古のガラケーに変えた。初めのうちこそ、人目を忍んでかけていたけど、今となっては希少すぎて、なんらかのよほどの信念をもつ人に違いないと買いかぶられるまでになった。


 そして、ガラケーに変えてから思った。ほんの少し昔までは、人はもう少しぼんやりと物事を認識していたのではあるまいかと。曖昧模糊とした得体のしれないものを訝りながらも、調べるすべもなく通り過ぎ、想像を膨らませ、遠くのものは、かなり時差のある情報をつなぎ合わせて自分なりの形にしていたんじゃなかったか。思い込みも激しかった一方で、インターネットで共有された統一の見解を押しつけられることも、今ほどなかったかもしれない。


 おそらく貧乏ってのは、金をもっていない状態を指すんじゃない。沁みついてしまった、この根性のことを指すのだ。きっと高いものを使えば、自分がそれに見合うだけの価値ある人間になったようで、自尊心は高まるだろう。逆に安ものを使えば、これを使う程度の私でいいやと自暴自棄になって、どこまでも堕ちていく。


 だからって、困窮した者同士、連帯して声をあげたところで、みじめさを分け合える気はしない。つながればつながるほど、みじめったらしさは募るばかりだろう。

 

 なんでもかんでも支援の対象になったことで、みじめな境遇をただ悔やんでばかりもいられなくなった。助けを求めるところまでが、まるで国民の義務のようだ。助けを求めないやつは情報収集を怠っているか、プライドを捨てきれないだけで、支援があるのに、なぜそんなところで甘んじているのか、向上心はないのかとなじられる。助けてって言っていいんだよなんて言っているのはたいてい、自尊感情や自己肯定感が異常に高い連中だ。


 私の苦しみは私だけのものでいい。簡単に一般化なんかしないでほしい。こうやって身を固くして意固地になっているほうが、誰にも優しくされなくて済む安心感があった。優しくなんかされたら、この私だけの苦しさが、もしもとんでもなくありふれたもので、それが明るみに出ようものなら、私は壊れてしまいそうだった。個人の苦しみを構造的な苦しみの次元まで高めて解釈するために行くのが大学だとしたら、院まで行って、こんな考え方しかできない私はなにを学んできたのだろう。ものなんて知れば知るほど、どうしようもない状況が見えてくるだけ。できればなにも知りたくはない。


 それなのに、知りたくもない情報はだいたい向こうからやってくる。なんでも子どもたちの間では、ごみからよみがえったキャラクター同士で対戦するカードゲームが流行っていて、高値で取り引きされているものまであるらしい。そのカードを抜くためだけに開封されたチョコレート菓子が大量に、ともくんちから着払いで送られてくる。全部、母が買い与えたものだ。これが、SDGsブームに乗っかって生まれた菓子だというから笑わせる。


「カードは子どもたちに欠かせないコミュニケーションのツールだからね。子どもたちに地球の持続可能性を学ばせるために考えられたお菓子を粗末にするわけにはいかないでしょ? かと言って、幼児に甘いものを与えすぎるのもよくないし。母さん、このところ、おやつもろくに口にしてないって愚痴ってたしね」


 と、もっともらしい御託を並べるともくんではあったが、母がおやつも食べられないのは、そもそもが甲斐性のない莫迦息子のせいである。なのに、あいつと来たら、こっちがどんなにまっとうな意見を述べたところで、「八百屋でパート勤務をしている姉さんが世の中の平均で、その意見が世間の常識、という理解でいいんですね?」と返せば勝てると思っている。多様性の時代にはもう正論なんてものは存在しないんだろう。


 これが他人ででもあれば、意見が異なれば、波風立たないうちに、闘うことなく立ち去るのが今時の流儀だろう。もしも家族ではなく、友達として出会っていたら、関係を継続したいメンバーは今のところ、我が一族には一人もいない。自由に選べる関係なら、縁を切ってしまいたい人ばかりだ。


 一方では、意見を異にするからって安易に立ち去るから、その結果、意見を同じゅうする、同じ地獄に向かっている連中ばかりが合流して、同じ地獄に堕ちていくんじゃなかろうか、とも思うわけだ。上下左右に揺すぶって、ちょうどいい塩梅の落としどころに落ち着くような作用は、今時の社会にはない。しかも身内は、堕ちた地獄からでも助けを求めてくるから厄介だ。


 いつどこで開封されたのかもわからない、チョコレートに包まれた、噛むとかしゅかしゅする麩菓子みたいな小麦菓子は不衛生で、心底気持ち悪いが、背に腹は代えられない。母と、表面のチョコは溶け、中はしっとりした、いびつな棒状の塊にかじりついたら、急に嗚咽が止まらなくなった。


「泣くほど? そこまで美味しい?」


 母がくっくくっくと笑っている。もはや、しらばっくれているのか、正気でないのかも定かではない。

私だって、流行りの梅の菓子とかグミキャンデーみたいな、腹の足しにはならないけど、のどが痺れるほどの酸味が一日の疲れを癒してくれる菓子を人並みに食べてみたいし、ともくんさえいなければ余裕で食べられるはずだ。チョコにだって、どんな食べ物にだって必ず体に有害な負の要素はあるはずで、なるべくちょっとずつ、いろんな種類を食べることで、一つの毒素ばかりが体に蓄積しないように分散しているわけで。だからこんな一辺倒の摂取の仕方は最悪なんだと思う。


「ほら見て。成長の度合いによって、絵の凝り方が違ってるから、こうやって並べてみると、どれが誰の絵かすぐわかるのよ」


 卓上に、母は孫たちが描いた梨や葡萄の写実画を並べてみせる。支援に対する返礼品なのだというが、私はお礼の一言も、もらったことはない。にっこり笑ってありがとうだけが貧乏人の子どもの唯一の為せる業だというのに、あの四人の子どもらはなにをあげても黙りこくっている。この先も一生、どこへ行ったって、たいしたものはもらい出さないだろう。


「私も食べたいな」


 画用紙からはみ出しそうな大きくて立派な果実は、きっと甘くて美味しかったんだろう。思わずつぶやくと、すかさず母がたしなめる。


「よしなさいよ。向こうは育ち盛りなんだから。八百屋になら、果物なんて売るほどあるんでしょ? つまみ食いでもしてくりゃいいじゃないの」


「ただの希望くらい言わせてよ。だいたい、金の見通しも立たないまま、とめどもなく子どもなんか産んで、自分で選んだ人生でしょ」


「今更それ言って、なんになる? 育てられないなら、殺せとでも? 自分が食べるより、子どもたちが食べるのを想像してるほうが私は楽しいし、ほら、こんな絵で私たちを楽しませてくれるじゃない」


 母は、厚塗りのクレヨンが白い画面のあちこちに飛び火したカオスな絵を、すっかり痩せさらばえて脈の浮いた手で次から次へともち上げては、お人形にでも見立ててか、ツンタカターと踊らせてみせる。


「ほれ」


 どこから取り出したのか、母が放り投げた蜜柑が一玉、不意に飛んできた。口封じのような勢いで。よく見りゃ、七玉ずつ袋詰めにした外国産のなんとかいう蜜柑の端数を店長が私にくれたものだ。


 一時間にも満たない残業だから手当は現物支給で構わないだろうなんて、ふざけたことを言うから、できれば現金でいただきたいと返したら、残業してるのは、そもそもお前がのろすぎるからだろうがと反撃された。こっちは時間を売っているだけで、ノルマの契約なんか結んだ覚えはないと応戦したが、お前、葱を三本束ねるのに、いったい何分かかってんだよとすごまれ、黙るしかなかった。よほど素行の悪いパートを落とすためだけにある形ばかりの人事評価で、私はいつも本部が掲げる野菜加工の目標時間を満たしていなかった。そして裁量は店長の手にあった。


 生半可な抵抗は相手を逆上させ、かえって危険だった。権力者には、弱体化が始まって、全世界が反逆に翻ってから立ち向かうべし、なんてことくらい、世の条理として知っておくべきだった。最低賃金をかけて、こんな攻防を繰り広げなければならない職場など、別に失ったって痛くも痒くもないと思えないのが、もう若くもない証拠だった。誰もが、自分を押し殺すエネルギーを放出することに疲れ果てている。社会とはたぶん、そんな場所だ。

 

 八百屋にいると、これまで自分がいかに使用人口の少ない言語でしゃべってきたか思い知らされる。ここで通用するのは肉体の限りなく近くにある言語、即ち、子どもをも納得させられる言語だ。骨伝導でじかに響かせ、前頭葉の言語中枢さえ経由しないような。


 そんなことを思い起こしながら、実離れの悪い果実を薄皮ごと頬張ると、育ち盛りを過ぎた身には余るほどの糖度が喉元を過ぎていった。


 私ばかり損してるみたいな、この不公平感はどう解消すればいいのか、正直わからない。もちろん、この状況を面白がるほどの余裕は私にはない。だからって、幸せな誰かを破れかぶれに負傷させたとして、ちゃらになった気には、とてもなれないだろう。同じ境遇でも大半の人は前向きに生きているとかいう、知らない誰かとの比較によって更なる我慢を強いるような叱咤も、今の私には響かない。それならばと開き直って、徹底した被害者面を決め込むのも今時はけっこうしんどそうだ。近頃は被害者も、今日までの生きざまも立派なら、攻撃を受けてなお口にする言葉も立派でなけりゃ、世間の同情すら集められない。


 来月から値上がりするものの項目が多すぎて、情報についていけなくなった私はとりあえず、より安い日用品を求めて、隣駅のディスカウントショップまで足を延ばす。しばらく見ないうちに、ごちゃついた店内には、見慣れないけど、そう目新しくもなく、買うまでもない商品が一段と増えていて、目当てのものを見つけ出すのがますます困難になった。色もデザインも、どうだっていい。より安いほうを買う。ただそれだけの買い物には選択肢などない。とはいえ、あまりにも安すぎるものには確固たる理由がある。特売の豚肉をパックから出し、広げたら、折りたたまって見えない死角に純白の脂身がびっしり敷き詰められていた。あのときはたしかに、やられたとは思ったが、あまりにも見事な折りたたまれっぷりに息を呑み、あっぱれとさえ思ってしまった。


 打ちっぱなしの凹凸著しい床に、じかに積まれた段ボール箱。その一番上の箱だけをくり抜いて並べた倉庫みたいな店内では、売り出し中の商品を連呼する声を吹き込んだ景気づけの呼び込みが、壁という壁に反響していて、方角すらわからなくなる。ともくんちに届ける無添加の石鹸三個パックを見つけたものの、一個当たりに換算すると安いのかどうかの判断もつかない。こうして眩惑のうちに買うほうに転ばせるのが店側の戦略なのかもしれなかった。


 ここのところ、とみにしんどくなってきた両親から託された分も合わせて、今月に入って何度目になるのかもわからない、食材や日用品の詰まった段ボールの箱をゴム紐で自転車の荷台にくくりつけ、ともくんちに届ける。今月に入って、もう何度聞くのかもわからない不愛想なありがとう。それだけを残して、ドアの向こうに消えていこうとするともくんの背に、私はたまらず叫んだ。


「ねえ、正直もうしんどいんだけど」


「え? なにが?」


「それ。差し入れよ。いつまで続くのかなと思って」


 ともくんが抱えた段ボール箱をあごでしゃくると、ともくんは信じられないとでもいうように、わざとらしく肩をすくめてみせた。


「嘘でしょ? てっきり、姉さんの生き甲斐かと思ってたから。そんなに苦しいんだったら、さっさと言ってくれたらいいのに」


「生き甲斐って……。仮にそう思ってたんだとしてもよ。そうじゃなかったんだってわかった時点で謝って、っていうか労って、今まで助かったって感謝してほしいのよ、せめて」


「なにそれ。急にキレたかと思ったら、今度は謝罪と感謝の強要? 勘弁してよ。二百万も貯金があるって母さんが言うから。そんなんだってわかってたら、初めっから、姉さんの援助なんて断ってたよ。そんなの重すぎて、もらってくれって頼まれたって、断ってたよ」


「そうは言っても、私はすでに、たくさんたくさんあげたのよ。お菓子も日用品も。たまにだけど絵本もおもちゃも、洋服だってあげたよね? そうしなきゃっていう、母さんからの無言の圧力に背中を押されて。それは事実でしょ? それはもう取り返しがつかないことでしょ? そのお金と時間と労力を返してとは言わない。ただ、そのことに関しての言葉が欲しいの。気持ちが欲しいのよ。普通、みんなそうするでしょ? それが人間ってもんでしょ?」


「普通とか、みんなとか、姉さんの話はいつでもぼやっとしてるけど、それってどうせ、八百屋にいる何人かのことだろ? 言っとくけど、そんなの全然、世間の平均じゃないからね。だいたい、方程式じゃあるまいし、みんなが同じような筋道で考えてたら気色が悪いよ」


「世間では、それを常識って呼ぶの」


「常識が知りたくなったら、姉さんにじゃなくて、AIにでも聞くよ。もちろん、正解だけ知ってたって、しょうがないことくらいは知ってるよ。情報を集めて、本当に楽しいのは、そこから先で、なのに想像を巡らすってことが彼ら全然できてなくて。だからAIなんか、なんの脅威でもないね。これからはAIで代用可能な姉さんみたいな人間じゃなくて、僕みたいな人間の意見が求められていくんだと思うよ」


「そうかな? ともくんよりは私のほうが地頭はいいと思うんだけど」


 私も負けてはいられなかった。


「高専卒の僕はたしかに姉さんほどの学歴はないかもしれないけど、姉さんはただ、脳の出力の在り方が受験に向いてたってだけの話だろ? ふつふつと湧いてくる情動に単純な感情の名前をすぐつけちゃうところも、なんだか短絡的で幼稚で、お受験向きっていうか。情動は情動のまましばらく転がして、情動として味わうところに、文学だって生まれてきたわけで。とにかく、なんかおくれなんて僕からは姉さんに一言も頼んでいないんだし、そっちが子どもが好きかなんかで、勝手にくれてきたわけだからさ」


「だからって、私が今まであげたものは、あなたたち家族の役に立った。それは事実でしょ? そのことには感謝してよ。それを、そっちが勝手になんて言うのは、ヒモかヤクザくらいのもんでしょ? それを言っちゃ、人間おしまいよ」


「そもそも、姉さんの原資は元夫が汗水垂らして稼いだ金だろ? 氷河期世代に生まれたことにかこつけて、姉さん、初めから就職する気なんて、さらさらなかったじゃないか。心理学だかなんだか、お遊びみたいな学科に入って、目をつけた彼氏を見張るみたいに一緒に院まで進んで、お相手が心理学とは縁もゆかりもない平凡な一般企業に就職するのを見届けて、自分は働きにも出ないで、ちゃっかり結婚して。そのくせ、夫が望む子どもを産もうともしないで、どこまで楽して生きようとしてんだよ。僕は、姉さんが無責任に放り出して逃げた親からの期待を一身に背負わされて、姉さんが放り出して逃げ出したまともな人生を一心に歩んできたんだ」


 それは、親の愛情を全部、私からかっさらっていったと思っていたともくんから初めて聞かされる見解だった。私のあずかり知らぬところで進行していた、もう一つのパラレルワールドだった。過去とはつまり、真偽のほども怪しげな、あやふやな人々の記憶や見解を寄せ集めただけの集合体なのだ。自分の過去さえも、埋まらない隙間は人の記憶で埋めたりするのだから、過去なんて、その気になればいくらでも書き換えられて、それは決して歴史の改ざんとかいって非難される類のものでもなくて、過去なんて人の数以上に存在するにも拘らず、人は神の視点から見た唯一絶対の過去を歴史の中から探したがる。ともくんも、そしておそらく私も。


「ともくん、親のために生きるなんて間違ってる」


「綺麗事を言えばね。でも現実は、孫がいなかったら、あの年寄りたち、なんの生きる喜びも見いだせなくて、今頃、生ける屍だったと思うよ」


「それなりに、呑気にやってたと思うけどね。私だって、今更そんなふうに責められても、そんなふうに生きてくれって、ともくんに頼んだ覚えないし」


「なんだよそれ。僕とまったく同じこと言ってるじゃないか。言っとくけど、逃げ得とかないからな。そうやって元夫からせしめた金を子育てに苦戦している家庭に回したって、バチは当たらないだろ? やっぱり人って、積み残してきたことをやらされんだよ。姉さんだって、普通に生きてたら、人に喜んでもらえることなんてないだろ? こっちは、子どもに喜んでもらえるチャンスを与えてやってんだから。まったく、働き蟻ですら、自分と同じ遺伝情報を少しでも残すために、女王蟻が生んだ姉妹蟻をせっせと育てるっていうのによ」


「いや蟻って、ちょっと待ってよ。いったい私がなにを積み残したっていうわけ? 子どもを産まなかったのも、働いてこなかったのも、自分の金をどう使うかも全部、個人が決めていいことでしょ? なんで責められなきゃいけないの? 別に、誰にも迷惑かけてないじゃない。もしかして、うらやましいだけ? 女が全員、社会進出して働きたいってわけでもないのよ。必要に応じて、なんもしない生き方のどこが悪なの? 現に今は、必要に迫られて働いてるし。じゃあ、ともくんはなに? 苦労を買ってでもするために子育てしてんの? 親のため? 国のため? そもそも、ここは蟻王国じゃないし、きょうだいの子育てを支援する義務なんて、どこにも定められてないのに、私はご厚意でやってんだからね。そこんとこ履き違えないでほしいんだけど」


「そら、化けの皮が剥がれた。いかにもフリーライダーが言いそうな、怖ろしく身勝手な考え方だよ。そのくせ、いつも薄味の愛情が粘っこいんだよ。だから男が逃げてくんだよ。そんなに損がいやなら、一人の世界で閉じて完結してろよ。僕はいったい、姉さんのなにを満たすために感謝させられてんだよ。よく考えてもみてよ。今このタイミングで感謝されて、うれしいか? ちょっとは想像してよ。口々に自己主張ばかりしてくる、自分のことしか考えてない幼児のお世話が、どれだけ重労働か。そしたら感謝しろなんて、口が裂けても言えないだろうよ」


「そんなの、親にとっては喜ばしい、自我が芽生えた成長の証でしょ? そうやって、わかり合おうともしないのは、あなたたち子育て世代のほうでしょ? 子育てしてる連中は、半径何キロかのママ友の世界しか見えてないでしょ? 子がいないからこそ見えるものだってあるんだから。社会を俯瞰で見るっていうの? 子がいないからこそ、いい意味で無責任に言えるっていうか。そういう意見も聞きなさいよ。大事にしなよ。子育て世代に理解がないとか、ひがんでないでさ」


「僕一人しか知らないくせして、僕一人を例にして、子育て世代全体を語るのはやめろよ。姉さんのは俯瞰的っていうよりは、身の丈にも合ってない上から目線っていうか、自分の人生さえ他人事みたいに地に足つけて生きてないっていうか。そりゃあ、子育て中の僕らはいつだって、子どもがやらかすくだらないことに巻き込まれて、汲々として、でも生きてる確かな感触はあるからね。人は一度きりの人生しか生きられないんだから、僕は子どもがいる人生しか生きられないんだから、姉さんの子どもがいない人生なんか知らないよ。子どもがいない人に気を遣ってしゃべるだけの余裕もないんだ。姉さん、ホメオスタシスわかる? ホメオスタシス知ってるかな? お遊びみたいな心理学科出の姉さんには理解できるかわからないけど、人間には体温とか一定に保つ恒常性が備わってて、本来、現状維持が正常なの。今の今をどうするか、現状維持でいっぱいいっぱいなわけ。俯瞰的な視点からの意識高いアドバイスとか別に要らないから。だったら、今喰えるものをもっとくれよ。姉さんがちびちびくれる、子ども騙しの微々たる駄菓子は、悪いけど一日分のおやつにもなってないんだわ。うちの真ん中に一日座って、見てりゃいいさ。子どもたちがどれだけ喰らうかわかるから」


「そんなわけないでしょ。段ボール箱いっぱいお菓子を詰めて、自転車で何往復したと思ってんのよ」

「いやいや、だから、はっきり言って、なんもしてくれてないのと一緒くらいの量なんだってば。偉そうに、うちの家族に口出しして支配できるほどのこと、してもらってないよ。姉さんからもらった駄菓子は、そこにあるから使っただけ。なけりゃ使わないで済ます。そんな程度のもんさ」


 その程度に思われていたのなら、こんなお役目、とっとと下りればよかった。素朴な菓子だけど、駄菓子ではなかった。化学調味料の粉をたっぷりまぶした塩辛い駄菓子とは一線を画していた。そういう、ちょっといい感じの菓子は意外と高くて、できるだけシンプルで、子どもの体に悪くなさそうな菓子を求めて、いくつものスーパーをはしごして、安売りワゴンをほじくり返した。あの日々に、そんな価値しかなかったとしたら、私の過去が全部霧になって、今在る私まで消えてしまいそうだった。


「そこまで言われちゃ、さすがの私も、なにをあげる気力もなくなった。これからは気持ちだけ応援しとくから」


「ちょっと待ってよ。目の前に腹すかせた子がいて、気持ちがあるなら、ものをあげることで気持ちを示すでしょうよ。なんもくれない姉さんとなんか話すこともないよ。気持ちだけの応援とか別にいらんわ」

勢いづいたともくんは半笑いだ。あんな子じゃなかった。少なくとも生まれたときは。誰だってそうか。じゃあ、人生狂い始めたのはいつから? 物心つくかつかないかのとき、ともくんの左利きを両親が無理やり矯正したときから? いや冗談抜きで、もしかしたら本当に、あそこからなにかが狂い始めたのかもしれない。僕の人生返せなんて言い始めても厄介だから、ともくんには言わずにここまで来たけれど。


「あとになって、ついカッとなって思ってもないこと口走ったって、あのときはどうかしてたって謝ったって、もう遅いからね。どうかしてたときに出るのが本音で、どうかしてないときに包み隠せるのが本音なんだからね」


「ややこしくて、よくわからんわ」


 ともくんは、ものをくれなくなった姉にはすっかり興味を失って、こっちを見向きもしなくなった。

それからずっと死ね死ね死ねと、気がついたら、私はつぶやき続けていた。


「頭の中、死ねしかなくなって。そうやって、どっかに詰まったなにかをいったん下ろさないことには、息もできなくて。ほら、指をしょっちゅう鳴らす人が、鳴らしてないと指が詰まった感じがするのか、具合悪そうにしてる、あの感じ」


 八百屋の休憩室で、私と入れ替わりの早番の友にそう話すと、ようやく今ここにいる私が生身の私に戻ってきた。受験のときにしか出力がうまくいかなかった私が今、なにかを出力できている唯一の相手。伴侶にだって、こうはいかなかった。一緒に暮らしづらくなるから、互いの内面なんて、明かしたこともなかった。


「もっと言うと、目もおかしいかも。天気予報を見てても、県の形が想像上の生き物に見えてきて」


「リアス式海岸とかがやばいの?」


「どうだろう? たとえば、大分県は火のついた自分の尾っぽに慌てるケンタウロスだし、神奈川県も猫的な伸びこそしてるけど、たぶん子獅子だと思うし、石川県はすごい不平を言いながら噛みついてくるでしょ? 山形県はモアイみたいのが私に話しかけてくる」


「ケンタウロスにモアイね」


 笑ったときに目立つ、犬歯だったかどこだったかの、この人らしい特徴ある歯の形が見えると、いつも安心した。そうそう、この形、これだこれだ。これがこの人だよって。そして今日の太いボーダーは、この間の細いボーダーよりよく似合っていた。おそらく私は、この人の見た目がなにより好きなのだと思う。誰からも嫌われることのない人のよさはさることながら、それを差し置いてなお。この歳にして、見た目で人を好くなんて、軽薄で恥ずべきことなのかもしれないけど、そうなのだから、しょうがない。


「死ねぐらい普通じゃね? 本人のいないところで、いくら言ったって聞こえるわけじゃあるまいし。俺なんか、親父に朝から晩まで、そう思ってたけどね」


 そう言うと友はロッカーの奥に手を突っ込んで、なにやら取り出した。金目のものは必ず抜き取られるから入れないようにと、きつく言われているロッカーから。


「ねえ、その弟がいつ死ぬか、占ってあげようか。たまに母親のスナックで、タロット占いやらせてもらってんの。親父から半殺しの目に遭わされてる俺を置いて家を出た慰謝料の代わりにだって。それにしちゃ微々たる額にしかならなくて、ふざけんなって話だけどね」


 タロット占いは、コックリさんのような霊をおびき寄せてしまうからよしたほうがいいと、誰かに聞いたことがあって、なんとなく避けてきた。でも今は、そんな霊の力を借りてでも、あいつには死んでほしかった。


 トランプより大判で縦長の使い込まれたカードを切ってはめくり、めくっては並べ、現れた華やかで宗教画的で思わせぶりな人物や事象の絵柄の意味するところを友は読み解いていく。


「家族と言い争って、かっとなって車で家を飛び出すみたい」


「あいつなら、いかにもやりそう」


「我を失って、あおり運転の果てに、自分の命の危険も顧みず、相手の車にぶつけまくって、でも死なない」


「なんだ。死なないのかよ」


 ちょっとだけ、うっかり安堵してしまった私の顔をちらりとのぞき見て、友はすぐさま打ち消した。


「でもね、それで終わりじゃないよ。何年後かはわからないけど、あまりのわかり合えなさに、自分の子どもに刺されるみたい」


「子どもは男? 女?」


「タロットに聞いてみようか?」


 冷たくて太い、どす黒い柱みたいなものが、私の体の真ん中を貫きながら落ちていくのを感じた。そして不覚にも、自分がそこまでは望んでいなかったことに気づいてしまった。


「いや、いいや。だって、タロットで、そんなに細かくわかるわけないもん。今言ったのって全部、私を励ますための創作でしょ? 嘘は嫌い。たとえ人をうれしがらせる嘘でも。そこに嘘があると、事実が見えづらくなって、事態がややこしくなって、お互い消耗するから。だいたい、たまたま出ただけの、このシンプルなカードに、複雑にこじれた私のなにを表せるっていうのよ」


「それ言い出したら、あんた。カードは正直よ。あとは信じるか、信じないかだけ。大人なんだから、目に見えないものも信じられるようになろうよ。俺は、無添加化粧品のパッケージみたいな、いかにも正しそうな透き通った声で歌う女と、最後だけ、こじつけで希望をもたせて終わる小説が大っ嫌いなの。だって無責任でしょ? なんの救いもない、やりきれない観衆を見放さずに、その気持ちに最後まで寄り添おうよって思うわけ」


 とはいえ、死を漠然と願うことと、死にざまをありありと思い描くことは、あまりにも乖離していた。友は、私がカードを読めないのをいいことに、私を試しているようにも思えた。


「弱者って、言葉でうまく伝えさせてもらえない人間のことだって俺は思ってるんだ。犯罪者もそうだと俺は思ってる。人を助けるってことは即ち、罪を犯すはずだった人を犯さなくて済むようにすること。そういうのをタロット使って、やりたくって。目の前で正しい意見がまかり通っていくたびに、正しくない側の人間のことばかり思ってしまって、なんかずっと苦しいんだよ。正解はわかったとしても、その上で、俺は正しくないとされる人間の味方でありたいんだ。そいつを正当化するって意味じゃなく」


「わかる。あんたは、そういう人だもんね。だけど、駄目なことは駄目にしなきゃ。粗暴な人間の主観がまかり通ったんじゃ、なんだって有りになる」


「でもさ、そういう理解されなさを抱えてるやつって、どこか優しいんだよ」


「そうやって私たち、癇癪もちの家族の餌食になってきたんでしょ?」


「人が犯罪者にならない方法、知ってる? 自分の尊厳が守られる場所に身を置くこと。それに尽きる。結局、踏みにじられたやつが、人のことも踏みにじるんだ。俺みたいに」


「イキっても無駄。あんたは、そんなことしない。人間の一番大事なところが破壊されてないもん。私よりずっと、今より幸せになれそうな気がする」


「なんなら、タロット教えてあげよっか。俺の母親のスナックで一緒にやるかい?」


「たしか、あんたの母親も癇癪もちだったでしょ? 遠慮しとく」


「まあ、人の本心なんて、どうせわからないものだからさ、相手がどんなつもりで言ったのか、ひと通り邪推したら、その中から一番悪意のないやつを選ぶように俺はしてる」


「あんたはご立派だよ」


 手を差しのべられると、払いのけたくなる。どんな明るい場所まで連れて行かれてしまうのかって、想像しただけで、私にはまぶしすぎるから。それに、たいていの人は私より情が薄くて、例えば私がともくんにしてあげてるよりは、たいしたことをしてくれなくて、私ならここまではするのにって、いつもがっかりさせられるから。金を生み出すことに費やす時間ばかりが優先されるようになって、誰もただで話を聞いたり、美味しいものをつくって振る舞ってくれたり、なんの役に立つかもわからない本を読んだりしなくなった。金にもならない、誰に見せるためでもないことをするのは最高の贅沢になった。


 かと思ったら、便利に退屈した人々でキャンプ場は溢れ、余裕のある層にとって、不便は金を払ってでも買うアクティビティになった。そのくせ、まだ埋まっていない便利の隙間を追求した、こまごまとしたサービスが次々とできては消えていく、このちぐはぐさ。


 そもそも、人間は同じ地平にいる人間になんか手を差しのべてはならないのだ。自分よりも下の人間を支援しなければならない。そうでなきゃ、支援されている以上、支援している私以上の努力をするようにと相手に求めてしまうから。


 それに、下手に手なんか差しのべられたら、このまま卑屈じゃいられなくなる。そんなの私じゃない。負の感情がこの先、増幅していくのも怖いけど、そういう感情すべてをポジティブに成仏させられなくても、うっすらキープくらいなら別にいいんじゃないかとも思う。


 加工されるのを待つ、うずたかく積まれた野菜の段ボール箱を目の前にしても、仕事に身なんか入らなかった。弟が死ぬ日より、あんたの気持ちをタロットで私に見せてよ、とでも言えばよかったんだろうか。ちっくしょう、こんなに空が青すぎるなんてずるいよ、とかなんとかくだらないことを思いながら、むず痒くなるような、もう一生ないと思っていた、あの感覚が急に来て、あの頃のテンションに到達して、恋が起動するところまではさすがにいかない未遂の低空飛行に終わったけど、危ないったらありゃしなかった。


 なんの加工をしたのかも、いっこうに記憶にないまま、この日の作業は終わって、明日来たら、まずやらなきゃならないことを全部メモに書き出してから、八百屋を出た。ずっと覚えておくことで脳にかかる負荷を少しでも減らすための、私の習慣だった。


 八百屋のパートの面接は、ごく簡単なものだった。


「母が、ここのスーパーの魚屋で午前中だけ魚をさばいていたんです。体がしんどすぎて、つい先週、辞めたばかりですけど。実は、私の実家も八百屋でした。ここのスーパーができて潰れましたけど」


 履歴書の、地元では一目置かれる国立大の名前にちらっと目をやって、なんでまた、うちなんかで働きたいのと訝る店長に、私はそう答えた。


「マジで? 毒とか変なもん入れないでくれよ。うちだって、知ってるだろうけど、隣駅にショッピングモールが建って、中にでっかい八百屋が入ってさ、あり得ない時給でパートを募集するもんだから、客もパートも全部もってかれちゃって。静かだろ? このありさまだよ。まあ、八百屋の子なら、ひと通りのことはわかるだろうから、明日から来てよ」


 でも実際は、なんでもかんでも煤けて破けたざるに盛るだけの実家の八百屋とは全然勝手が違った。さすがスーパーに入っている八百屋は、大蒜だって蓮根だって椎茸だって、なんだって袋に詰めて、緑のテープをセットしたバックシーラーでがちゃんこと留めるし、フィルムで巻いた白菜は端を熱で圧着しなきゃならないし、西瓜はブロック状、アンデスメロンはフラワー状にカットして透明のカップにいちいち収め、かちっと音がするまで蓋を閉める。それでも閉まったか自信のない私は、こっそりテープで二カ所補強する。従って、時間がかかって仕方がなく、ただでさえ不器用でのんびり屋の私は、まったく使いものにならなかった。よくよく考えてみると、家の八百屋も、まともに手伝ったことはなかった。


「親の仇討ちか? やっぱり、うちの八百屋を潰しに来たんだな」


 店長にそう言われても、気の利いた返す言葉も見つからなかった。それでもどうにか半年後には白菜と西瓜だけは人並みのペースで加工できるようになって、正社員にならないかと声をかけられたこともあったけど、生意気にも断った。あくまでも、ここは腰かけだと思いたかった。私の人生、ここで確定して、こんな生活がずっと続いていくことには耐えられそうもなかった。似合わない服をあえて着ているんだと言い張れなくなったら、服がなじんでしまったら、おしまいだった。決して八百屋だからってわけじゃなく、たぶんどんな仕事でも。そのくせ、今の境遇も住まいも家族もすべてがかりそめのようで、いつかは本体になりたかった。


 店長はいい。二十代にして地元に家を建て、ローンと家族のために当たり前のように働いて、「だってそれ以外、生きる意味ってなにかある?」って疑おうともせず、最大の娯楽はいまだにテレビのバラエティ。賞味期限切れの食品を捨て値で売ってるスーパーだって、子だくさん家族のレシピだって、使えるものはなんだって使う。万引犯にも容赦がなくて、果物ばかり盗む激痩せの女を、食べては吐いてるんじゃないかって私が心配したら、屑の事情など知るかよと、ばっさり斬り捨てられた。生きる力って、こういうことを言うのだろう。ともくんにも、この潔い諦めと、シンプルなたくましさを見習って欲しかった。

店長にしてみれば、自分と同じいい歳をして、まだなにも手にもしていなくて、そのくせ、これからなにかやれるような気でいて、恰好ばかりつけている私のほうが不可解だろう。というか、興味もないだろう。そのくせ勤勉に、明日もしっかり働く気満々で、予定なんかメモしたりして、ださいこと極まりない。


 だけどそうやって、せっかくメモまでして、全部吐き出して、場所を空けた脳の隙間も、ともくん一家の厄介事ですぐいっぱいになる。


 さっき呑み込んでしまった、どす黒い呪いの柱は私の周りで渦を巻き始め、私の足元を掬い始めた。「死ね」は私を巻き込みながら、いつしか「死にたい」気持ちを連れてきて、再び「死ね」へと変換されていく。だから社会は死にたい人も誰かを殺したい人も、ほっといちゃ駄目なのだ。死にたいと殺したいは、ときにぴったり張りついた裏表で、同時に防がないと、死ぬ人の数はどんどん増えていく。


 死ぬと殺す、どちらの方向にも暴走しないで済むのは唯一、自分の中の魔物の正体に気づけたやつだけで、飼い馴らせるなら、魔物はいたって構わない。どこから来た何者なのか、由来さえ知っていれば。

 八百屋を出て、景気づけなのか中毒なのか、なんなのか、パチンコ屋の前に停まった七が三つ並んだナンバーの車の横を通り過ぎる。開け放たれた窓からは、スマホに向かって大きな声で、やけにでかい額の話をしている男の声が聞こえてくる。景品交換所から出てきた、力のない目をした男と女は千円札を引っ張り合い、金の配分を巡って揉めている。その様子を、情念のこもった女のうなるような歌声を大音量で流すケバブ屋のトルコ人が、向かいから静かに眺めていた。四分の三以上の商店がシャッターを閉ざしきり、奥で年寄りが息をひそめて暮らしている、住宅街へと還りつつある商店街を抜け、弁天池まで自転車を走らせる。


 しばらくほとぼりを冷ましていようと、弁天池のほとりのベンチに腰を下ろすと、吸い込まれて気を失っているうちに細断され、素材の一部となって、自然に還されてしまいそうなほど青々とした新緑がまぶしすぎた。などと思う間もないほど唐突に、目の前のけっこう大ぶりな桜の枝が前触れもなく池に落ちた。ゆうべは風が少し強かったから、きつめに揺さぶられたのか、或いは腐りかけてでもいたのか。木自身も気づかない亀裂が、気づいたところでどうしようもない亀裂が、じわじわと入り続けていたのだろう。その音は小学校の遠足で訪れた水族館で、どこか具合でも悪そうに、一頭だけ異常に低くしかジャンプできないイルカが水に落ちたときの音を思い起こさせた。


 それにしたって、樹々のこの無条件の受容と来たら、どうしたことか。なにも言わずにいてくれる。ただそれだけが、ありがたい。その沈黙の中にあっては、人はただ通りゆく少し大きめの一頭の獣に過ぎない。なのに、人間と来たら言う。言わずにはおれない。たいがいの場合、言わなくてもいいことを。地球の歴史のほんの束の間のさばっていただけの、この獣らが滅びれば、占拠されていた無機質な場所は緑に呑まれ、あっという間にその他の獣たちのパラダイスに戻るだろう。人間じみた次の獣が現れるまでは。

獣は獣らしく、しょぼくれて下でも向いて歩いてりゃあ、黙って道を譲ってもらえるものを、妙に自分色の存在感なんか出すから、繁殖期の鴉の餌食になったのだろう。真夏の影よりも暗黒な飛翔体が私めがけて滑空してきた。


 筋肉の動きまで伝わってくる力強い羽ばたきの音とともに、全身全霊の殺意でもって、いち生物の総悪意が自分に向けられる恐怖は、自分に照準を合わせたロックオンがもう二度と解除されないんだと悟ったときの絶望、即ち、殺される一瞬前の気持ちに似ている。あるはずの感情を読ませないように進化させてきた彼らのまなざしも、揺るぎない殺意を抱く人のそれに近い気がした。


 法廷画家の絵でしか見たことはないが、法廷でなお歩んできた人生のみじめさを晒される、あの人々の目はきっとこんなだ。あくまでも商売道具として、転がり落ちた彼らの目線になってみせる、地位も名誉もある犯罪心理学の先生方とは違って、今の私なんかはもうマインドごと、あっちサイドの人間なんだと思う。


 そうは言ったって、路上で客死した、あらゆる生き物の屍に宿る未知のウイルスが、やつらのくちばしを介して脳内に侵入するんじゃないかと思うと気が気じゃなくて、おいそれとは突かれたくなかった。かぶりを左右に激しく振りながら、全力で駆けた。遠くに人影は見えど、鴉に追われる女を助けてくれるほど奇特な者はいない。弟の支援に溺れる女に誰も気づきもしないのと同じように。たしかに、どっちもたいしたことじゃない。今すぐ死ぬわけじゃないし。私にとって、人は、なにかのために動いてくれる存在じゃない。人は、日常の彩りですらない。日常の背景でしかない。


 そして、どちらが勝者かもわからない格闘の跡には、これからの私の人生を暗示する道標のように真っ黒な羽根が点々と落ちていた。


 許さない。顔も見たくない。前なんか向かない。顔も上げない。一生忘れない。割に合わない。満たされない。あてどない。身の置きどころもない。見る影もなく、合わせる顔もない。


 心にもないポジティブな言葉なんか言ってなるものか。気持ちのいい緑陰にへたり込んで、思いつく限りの否定語を吐き出すと、後ろ向きな言葉のシャワーが、ろくでもない私の現状を優しく包んで、ありのままの私を抱きしめてくれた。死にたさが鬱蒼と漂う、このぬかるみみたいな膜をまとって生きるほうが私は楽だった。きらきらした裸を晒して生きている人たちは、なんだか大変そうで、うらやましくもなかった。もちろん、なにかを願うことも、ときには大事なんだと思う。生きる力になるから。だけど、それが叶わなかったとき、そいつはそのまま死ぬ力にもなりそうで怖かった。


 いつもは通り過ぎる小さな祠に、今日は手を合わせたくなった。どなた様が祀られているのかも存じ上げぬままに。薄暗がりに目を凝らせば、絢爛豪華な台座に鎮座した鏡が、今のお前など映す価値もなしと言わんばかりに歪曲した私を映し出し、曇ってみせる。その御前には、花瓶代わりのワンカップの丈に合わせるように短く切りそろえられた赤と紫と白の花が手向けられ、砂ぼこりにざらついた小皿に投げ込まれた数枚の小銭と未開封のグミキャンデーが供えられていた。そして足元には、鴉の仕業か人のなせる業か、ミルキーの包み紙がカラフルに散らばって、お供えものを食べるという初めての選択肢を私に提示してみせた。


 グミキャンデーはパッケージの写真を見る限り、平べったい短めのパスタをひねったような形状に、なにやら酸っぱそうな粉がまぶされている。どんな味なのか想像しただけで、柑橘系の酸味が脳内にほとばしり、生唾を分泌させ、私の理性を狂わせた。お供えものってたしか、もともとは腹をすかした旅人への心遣いでもあったようなと、あやふやな記憶が都合よく湧いてくる。いや、でもそれはさすがに、いくらなんでも畏れ多い。あとずさっては前進し、手を伸ばしかけてはまた下ろす私の背に、かくしゃくとした婦人の声が飛んできた。


「感心ね。お供えもの?」


 振り返ると、ちょうど母くらいだろうか、品のいいお香を思わせる、粉っぽい香りをまとった女が、竹帚を杖代わりに立っていた。


「誰か、食べ散らかしてたから。気の毒に思って」


 彼女がいつから私を見ていたのかと思うと、本当はどんなつもりで声をかけたのかと思うと、いたたまれなくて、やる瀬なくて、立つ瀬もなくて、申し開きのしようもなくて、一礼をして立ち去った。否定語は肯定的な状態を否定する言葉なんかじゃない。否定的な状態を肯定してくれる魔法の言葉。だから弱ってるときにこそ濫発したい。樹々だって地中深くでは、しのぎを削る、えげつない水利権争いを繰り広げているのかもしれないし、本当のところは、涼しげなそよぎを見ているだけでは計り知れない。


 ともくんに謝ってほしいと願う心のどこかで、謝ってくれるなとも思っている自分がいた。なぜなら純粋に金が惜しいから。自分は、ともくん一家にものをあげることで自分の存在価値を確かめる、そういう依存症なんじゃないかと思っていたけど、そうじゃなかった。だって現に、こうしてちゃんと金が惜しいんだから。


 成長とともに、底なしに膨らんでいく子どもの胃袋に、あるとき怖くなった。例えば妻が働くとか、なんらかの抜本的なテコ入れをしない限り、際限がないんじゃないかと気がついた。ところが少しでも、そんな話をもち出せば、ともくんは、妻のように子どもが好きで、心に余裕のある人が、子どもたちの一番可愛い時期を一緒に過ごす家庭保育を選んでなにが悪いのかと、烈火のごとく怒り狂う。せめて子どもたちには、癇癪を起こせば結果的に損をすることを集団保育の中で一刻も早く学んでほしいと思わないでもないが、別に家庭保育が悪いとか言ってるわけじゃない。暮らしていけるだけの金さえあるならば。


 フードバンクとか子ども食堂とか、ものものしい名前をつけないでも、家でもて余している食べものの一つでも、子どもがいる近所の家にもち寄れたらいいのにと思わなくもないが、こんな中途半端な田舎でも、安全な媒体を介さずしては他人と関われない。そんな時代なんだろう。


 帰ってきた私から、ともくんとの喧嘩の顛末を聞いた母は、ともくんったら、すっかり男らしくなってと、とても四十の男に向けたものとは思えない賛辞を述べ、目を細めていたが、私がそんなに負担に感じていたのなら、物資の支援員をもう降りてもよいと任を解いてくれた。


 家族奴隷から解放された私を待ち受けているのは、これからは一切の損がなくなり、得が生じるだけの人生。そう考えただけで全身の力が抜け、眠くてしょうがなくなった。関係って、終わるとわかった途端に、いいこともあったように思えてくるから不思議だ。終末論がどんなに不発に終わっても、また性懲りもなく何度でもよみがえり、勃興するのも頷ける。終わりが見えたほうが頑張れる人がいるからだ。


 だからって、もう二度と、ともくんちの飢えた子どもたちを想像したりはしない。そのことを、私が今死ぬわけにはいかない理由になんか絶対しない。ともくんの一家が死のうが生きようが、私の知ったことか。記憶を抑圧するのに、どれだけのエネルギーが必要だとしても、滅多に笑わない花菜ちゃんの笑い顔の記憶は今日を限りに封印する。血と思想によって狂暴さを継承する子らとの縁など、早いうちに断ち切ったほうがいいに決まっている。その代わり、すべてを赦す。赦すことは即ち、背負わされた恨みの重荷を下ろすことだ。


 多くを手放すと、これまで無きもののように葬られてきた欲望が、まずはこみ上げてきた。急に、流行りのチュールスカートなんぞが欲しくなったのだ。スカートなんて、ここ何年も穿いていなくて、穿いている自分すら想像できなくなっていただけに、戸惑った。しかも一段とハードルの高い、丸っきり馴染みのない素材感のものだ。


 翌日の給料日、隣駅の大きな八百屋が入るショッピングモールで三割引きになっていた、気恥ずかしいばかりの薄紅をしたスカートを思いきって買った。衣服だって、破れなければ永遠に着られるってものでもない。時代に形が合わなくなるし、古くなった繊維は、着た歳月の分だけ繁殖した雑菌が幾層にも折り重なったフローラのような異臭を含み始める。


 勢いに任せて、八百屋で着るTシャツまで買ってしまってもよかったのかもしれない。時間が経つほどに放ち始める、久しぶりにずぶ濡れで帰ってきたはぐれ犬のように香ばしい臭いが気になってしょうがなくて、朝早くから開いているドラッグストアで、見本と貼られたオーデコロンを服の中に撒けるだけ撒いて出勤していた。


「なにこれ? いい匂い」


 友がそう言ってからは、同じプルメリアの香りのを振り撒き続けた。ついに見本を使いきったときには半狂乱になって、一番近い匂いを探した。いつも通りじゃない振る舞いは、いつも通りを知らない人の目にもなぜか奇異に映るらしく、警備員にしつこくマークされた。万引きでもあるまいに失敬だとも思ったが、いくら無償のものでも、買う気もないのに毎日使い続ければ、さすがに万引きと変わりがないのかもしれず、この機会に一本くらい、お気に入りの香りをもっておくのも悪くないと思った。


 スカートを買ったら、今度はこれを穿いて、友を食事に誘いたいという更なる欲が湧いてきた。夜になると間接照明が、椅子とテーブルの素朴な木の肌合いを際立たせ、天井から吊るされたドライフラワーのシルエットをくすんだ琥珀色の漆喰の壁に、いちいちぼんやり浮かび上がらせる、そんなビストロに。夫がいたときなら、ぎりぎり行けたんじゃないかと、八百屋の帰り道、いつも見ていた。


 それはまるで、洗いざらして硬化したタオルの山の中に、まだうっすら毛羽の立ったタオルを見つけて、顔をうずめて頬ずりするような、そんな感覚だった。私にもまだ、こんな気分が残されていたのだ。これを淡い恋心とでも、どうしても呼んでしまいたいやつがいるのなら呼んでしまえばいいじゃないかと、照れ隠しに、わざと投げやりに言ってみたくなる。そんな気分だった。


 それは人生を上昇に転ずるには申し分のない陽気の一日で、背中に季節はずれの天道虫をくっつけて歩いている人を通りでやたらと見かけることさえも、おかしくて仕方がなかった。


 無責任にちょっかいを出して、向こうが夢中になった頃合いに、こっちが飽きてしまったらどうしようとか、その前に、結婚するにはなんの支障もない身軽な女ほど、男には重いかもしれないとか、遠い過去にも頭を悩ませたことがあるような、たわいもない心配事が胸に去来した。


 そんな夢見心地も、その晩、ともくんから我が家にもたらされた報せによって一瞬で打ち砕かれた。ともくんの妻が五人目を懐妊したというのだ。妻がしばらく姿を見せないので、もしやとは思っていたが、まさかとも思いたかった。二人目のときも、三人目のときも、四人目のときも、そうだった。妻は、天岩戸にお隠れになった天照のように身を隠しては、はち切れそうなお腹を抱え、どこかすまなさそうに再び姿を現した。


 そんな彼女のこわばった心を解きほぐすように、私たち家族が代わるがわる笑いかけ、口々に祝福の言葉を投げかけると、彼女はようやく安心して、子どもたちの成長ぶりを記録した動画を送ってきた。一人目のときは、人間ってこういう段階を踏んで成長するものかと目を見張った私も、二人目、三人目となるともの珍しさも薄れ、返事に窮したり、返事に心がこもらなかったりして、感想もワンパターンに陥った。


「今度、弟が生まれるの。ごはん足りるかな?」


 母によれば、憐れな三歳児は、近々迎える弟との対面より飢餓の心配をしているらしい。


 ともくんの妻は、ここから更に何年か働けない期間が更新される。自我が芽生え、癇癪を起こす前の乳児とまた一から幸せな時間を過ごし、こちらのコミュ力が試されるような、制御不能の幼児に育った途端に、うんざりしたように興味を失い、夫の手に委ねるのだろう。そして私の両親は、五人に増えた孫たちの胃袋を支える食糧を、我が身を削ってでも運び続けるのだろう。


 弁天様が新年の私の願いを聞き届けくれたのだとすれば、いっそう困窮を極めていく耐乏生活がともくんへの報いで、だとすれば、子どもが存在する意味ってなんなのか、わからなくなる。損か得かが支配する世界では、子は金を稼ぎ、出世を望む親の足手まといにすぎない。子は親の所有物じゃないから、家業手伝いのただ働きはもちろん、老後の面倒も期待してはいけない。それをも凌ぐ目には見えない価値を求めて、子をもうけている高尚な人がどれほどいるのかは疑わしい。子がいると、なんとなくにぎやかで幸せそう。その程度の想像力で子をもうけ、後悔している夫婦がほとんどなんじゃなかろうか。


 私だって、子のいない人生を賭けて闘わなかったわけじゃない。ベッドの上で腰をひねり、股を閉じ、私の中に己の子胤を置こうとする夫に全身で抗った。夫の癇癪の血を、或いは私の中に潜む、雄が生まれたときにだけ発現する癇癪の血を恐れたのかもしれない。三度目のデートで「小動物みたいに可愛いね」と言われたとき、私を愛玩動物くらいにしか思わない夫の本性を見抜いておくべきだった。ベッドの上を転げ、逃げ惑いながら、私は笑っていたかもしれない。ちょっとでもみじめに見えないために、共犯関係のように装ってしまう被害者が浮かべる薄笑いのような笑顔で。


 生理が遅れて、一度だけ婦人科を訪れたとき、生殖補助医療の助成にまつわるお知らせと、医療行為の成果を年齢ごとに示した妊娠率のグラフに埋め尽くされた壁に面喰らった。そこは病院というよりは、さながら精子と卵子を取り扱うラボじみていて、自分がいかに非生産的な存在であるかを、これでもかと突きつけられた。

 

 それにしたって、ともくんは、どうしたことか。女の子さえ授かれば、打ち止めかと思っていた。ともくんに言いたいこと、聞きたいことで頭の中は溢れかえっているのに、生命の神秘の前に、生まれ出づる生命の重さの前に、両親はまたもやひざまずかされ、すべての言葉を呑み込まされてしまうのだろう。その前に私を、終わることのない苦役から放免してくれた弁天様に感謝して、私はこの家を見捨てようと思う。


 こんなどうしようもないなりゆきを友に話してしまえば、例えば私をどこか遠くの新天地へ連れ出してくれるみたいな、なにかしらの展開が訪れるんじゃないかと、自分で直視するのも憚られるほど都合のいい期待も、心のどこかにはあった。


「どれどれ」


 永らく我が家で目にした覚えがない真新しい衣服に興味津々の母に促され、洗ったら破けてしまいそうなほど繊細なレースの向こうに薄紅のスカート本体が透けて見えるチュールスカートを穿いて、年甲斐もなく回ってみせる。


「そう言えば、そんなようなスカート、一階のショーウィンドウにずらっと並んでるのを見た気がする」


 隣駅のショッピングモールに入るスーパーの鮮魚部で、午前中だけ魚をさばいている母が言う。そんな母と娘を、その気になれば、いつだって、この家のしがらみから逃げ出せる娘を、父は羨望のまなざしで見ていた。


 なんだ、ともくんが可愛いのは母だけなんだ。そう思うと、えも言われぬうれしさがこみ上げてきた。


「父さん、ごめんね。なんか私だけ。人の心をサンドバッグ代わりに殴りつけといて、親兄弟からの援助ありきでのうのうと暮らしてる、あの男の一家への上納金を差し引いた金で生活するのが心底馬鹿らしくなったんだ」


「そら、わかるよ」


 父は嘆息混じりに頷いた。


「あいつは、肥大化した小学生みたいな自尊心をいつまでもぶら下げて、あいつにしか理解できない正義のためなら、一家で飢え死にすることも辞さないような、守るべきものを完全に履き違えた、そういう男なんだよ。今更、なにも期待しないでやってくれ。だけど、あいつはあいつなりに、あれでも頑張ってんだよ」


「そこまで解っていて……」


 親の愛とは深いものだ。


 とにかく明日、私は友を食事に誘おうと思う。夜なら、それ以上もあり得るんじゃないかと、湯舟で臍を洗う。臍に溜まった湯が永年こらえてきた涙のようにこぼれ落ち、臍は泣き腫らしたまぶたのように真っ赤に腫れ上がった。


 翌日、友とは夕方の同じ時間上がりだった。


 いつもなら、同じ時間に上がるときは、追い抜きざまに背中を思いきり叩いてきて、この歳になると心臓への負荷が洒落にならないからやめてくれないかと、いくら頼んでも聞き入れてくれない友が、この日ばかりはしおらしかった。


「弟のお世話係、ついに、お役御免になりました。そのお祝いと、この間のタロットのお礼を兼ねて、今夜はご馳走させてほしいんだけど」


 友が休憩室兼ロッカールームから出てきたところで、意外に広い背中を叩くと、彼はびくんと体を震わせた。


「せっかくだけど、ごめんなさい。実は、半年前から、彼女と住んでて、近々っていうか来月、籍を入れるんだよね」


 友は言葉を慎重に選びながら、歯切れ悪くそこまで言うと、すまなさそうに私を盗み見た。


 昔、ともくんと見ていた戦隊ヒーローもので悪の組織に警官まで殺されたときの、この世に秩序が存在しなくなった瞬間の絶望を思い出した。ここから先は、いくら時間を進めたところで、なにもいいことがないのは明白だった。だったら、いっそ、ちょっと前のいいところで時間ごと凝結させてしまいたい。そんなヒステリックで投げやりな思考停止が、私の脳を痺れさせた。


 私はこれまで用心深く生きてきたつもりだった。高いところでなにかに見とれて、手すりかなにかからうっかり手を離し、「しまった」と言い残して死ぬような最期にだけはしたくなかったから。いかにも、そんな死に方をしそうな気がしていて、そんな死に方を想像すると懐かしいような気さえして、もしかすると前世で、そんな死に方をしたのかもしれないとさえ思っていた。


 それなのに今日はどうしたことか、復活したプルメリアの香りと薄紅のスカート越しの下心があまりにも明け透けで、迂闊なこと極まりなかった。


「そんな気持ちにさせて、なんかごめん。私、ろくな服もってないし、式に招待なんて気を遣わなくていいからね」


「式は、身内とごく親しい人だけ呼ぼうと思ってて。ここ辞めて、さすがに、ちゃんと就職しようと思ってさ」


 私は、今ここに、これくらいの貧しさにとどまっていられるのなら、ずっといてもいいとさえ思っていた。預貯金の残高はいつしか百五十万を切り、着々と減り続け、現状維持できる貧しさなんて、どこにもないことはわかっていた。たいていは堕ち続ける。好きな時点にとどまっていられるなら、罪を犯すまで追い詰められる人なんて、この世からいなくなるだろう。


「結婚するなら、新しい連絡先とかは聞かないほうがいいね」


「そう、かな。うん、そうだね」


 同じ巣で暮らす動物くらいの親密さで想っていただけなのに。こんな関係でも、男女であるだけで、結婚を境に簡単に引き裂かれ、打ち砕かれる。たしかに私たちは恋人未満ではあったかもしれないけど友達以上だったし、とでも胸を張って言えそうなエピソードが一つくらいはなかったかと、記憶をたどった。

あれはたしか半年くらい前、幹線道路沿いのファミレスで、割引クーポンを使えば半額になるおかずと生ビールだけを頼んで乾杯したけど全然食い足りなくて、隣のテーブルに次の料理を運んでくるのが猫型の配膳ロボットか、従業員かの賭けをして、負けたほうが奢るという、完全自動化過渡期の店ならではの遊びに興じたことがあった。


 そのちょっとあとには、むせ返らんばかりの湿気の臭いが充満した、天井ばかりが高い穀物倉庫みたいな古物屋で、三ピース足りなくて永遠に終わらない子ども用のパズルとか、なんの大会で誰がもらったのかもわからないトロフィーとか、どこのなんという踊りかもわからない踊りを踊る頬かむりした女の人形とか、できるだけ役に立たないものを見つけては交互にプレゼンして、冷やかしたりもした。あのときはついやりすぎて、たしか奥から出てきた店の親父が露骨に掃除機をかけ始めたんだった。


 思い出したのはその二つくらいで、いずれも友達以上と言えるほどのエピソードではなかった。


「子どもでもできたら、お金かかるよ。稼がなきゃ」


「子ども第一の人生もいいかも。自分のこと、見なくて済むから」


「なわけないでしょ。子どもを通して、自分と向き合わされっぱなしだと思うよ、たぶん」


 年下には、気易く諭させてくれる気楽さがあっていい。歳のいった男だと、こうはいかない。こっちが一言発しただけで、勝手に先回りして結論を言い当てたがる。そして世代論がなによりの好物だ。抗うのも億劫だから、彼らのご期待に沿うように、憐れな氷河期世代を演じてみせる。何十社も受けたけど、一次面接すら通らず、非正規に甘んじてきたロスジェネを。それで話が円滑に進むなら、本当の自分など知ってもらわなくても構わない。


 気がつけば年下なんて、アイドルの団扇を手に声援を送るファンくらいの立場でしか想わせてもらえない年齢になっていて、自分でも驚く。年下への実交渉が許されるのは鍛え抜かれた腹筋をもつ女優だけで、それでさえ世間からは痛がられる。なにか尊敬に値する一芸でもあれば、年下からも一目置かれようが、私にはそれすらなかった。


 友のいなくなった休憩室で、冷たい麦茶を一気飲みし、工場扇の強風を浴びた。栄養状態でもよくないのか、オレンジの羽根が巻き起こす旋風に、いちいち抜け毛が舞い落ちる。腹の底から冷やせば、ばてるってわかっているのに、悪い習慣ほど気持ちがよくてやめられない。さっきまでマイボトルを満たしていた、水道水で薄めて水増しした麦茶は早くも底を突きかけている。


「休憩終わりっすよ。店長が早く来いって」


 ドアが開き、毛先をつんつんにとがらせたスパイキーヘアがのぞいた。友が辞めたその日に入ってきた彼は、見た目は悪くないのだけど、似ている芸能人の例えがいちいち微妙にうまくない。だからと言って、こっちもすぐには正解が浮かばず、気持ちの悪い思いばかりさせてくれる。


 折りたたみ椅子から、やおら立ち上がると、遠足帰りの小学生みたいにたすき掛けにしたステンレスのボトルが腰骨に当たり、からっぽとからっぽが共鳴して、水琴窟のような澄んだ音を立てた。


 店長が早めに休憩に行けなんて言うから、一九八円ののり弁にも、二一八円のソース焼きそばにも、まだ二割引きのシールが貼られていなくて、結局どれにもありつけなかった。なにかの値上げが発表されるたびに、じりじりとせり上がっていく弁当の上げ底を下から指で撫で、確かめては溜息が漏れた。そんな弁当でも、なけりゃないで、私の生命を維持してくれていたことに今更気づく。やむを得ず、見切られたパンのワゴンを掘り漁ったが、出てきたのはあんパンばかりで、二つも食べると、さすがに胸が焼けた。


 売れ残った蓮根だって、アスパラガスだって、断面を薄く切り落とせば、今日入ってきた野菜を装える。当然ながら、子どもの頃に、削りたての鉛筆の炭素の匂いを嗅いだときのときめきは、どう頑張ったって超えてこない。友との思い出も、切り落としてしまえば、私は何度でも甦れる。現に、なんて名前だったのかも、もう忘れそうになっている。もっとも私の場合は、存在を強く想いすぎるあまり、名前のほうが薄れて、なんだったのか思い出せなくなる、なんてこともよくあるのではあるが。


 明日は店長が休みの日だ。この日を私たちは安息日と呼んで、くたびれた野菜のあっちを削り、こっちを落として、新しげな断面をでっち上げ、客を欺く、誰も報われない姑息な加工作業をいったんお休みにする。古びた野菜を捨てまくり、試食と称して、みずみずしい果実にかぶりつくのだ。


 そんなことはつゆほども知らぬ店長に、ちょっとだけ早めに見切ってもらった野菜を、そこらへんに転がっていた段ボール箱に詰め込むと、自転車の荷台にゴム紐でくくりつけた。サドルにまたがり、地面を蹴ったところでガラケーが鳴った。母からだ。


「まだ間に合うなら、途中で絆創膏とキッチンペーパーも買っていってあげて」


「了解。トイレットペーパーは?」


「あると助かるとは思うけど、アクアマリンとグリーンフローラルの香りは避けてね」


「わかってるって」


 自転車を停め、縁石に片足を乗っけて話し続ける私を、黄色いスクールバスが大きく迂回しながら追い抜いていった。後ろに日除けのたれがついた、そろいの水色の帽子をかぶった園児たちが、こっちを見ている。みな同じに見えて、人生のスタート地点から、与えられ、手にしているものは全然違っているんだろう。


 ダンプの往来が激しい日照り続きの路面は乾ききって、舞い上がる土ぼこりがひどい。ともくんちに続く、しつこいのぼり坂は、立ちっぱなしのあとのふくらはぎには堪える。それでも私は運ぶことを選んだ。ただただ、自分の気が済むために。このまま身を硬くしていれば、こんなどうしようもない日々でも、高度制限ぎりぎりの低空飛行で、死ぬ日まで、どうにかやり過ごせるんじゃないかと、状況は少しもよくなっていないのに楽観視している私がいる。


 そう言えば、働き蟻のうち働かない蟻は、行列からはみ出てぷらぷらしているうちに、新しいルートを見つけることもあるらしい。いつか、ともくんにも教えてあげようと思う。あんなに生活が苦しいのに、ともくんに五人も子どもがいる理由はいまだに聞けていないけど、少なくとも、花菜ちゃんが餓死する夢だけは、おかげで見なくなった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ