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(前編)ダイニングバー・ハラワタ~吸血鬼さちこの何でもない日常~

作者: 三原 槙

 ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』が好きだ。言わずと知れた吸血鬼文学の名作。私たちにとってのバイブルといってもいいだろう。中世ルーマニアとイギリスの、陰鬱で薄暗く、湿ったような空気感。月明りだけが頼りの暗い墓所を彷徨う死装束をまとった白い影。棺の中に横たわる美しき不死者。暗闇に浮かび上がる二つの赤い瞳、じわじわと浸食するように忍び寄る吸血鬼の恐怖。

そして、『ドラキュラ』は古典だからこそいっそう魅力的なのである。レンガ造りの城やドレスをまとった貴婦人、たちこめる霧の中にぼんやりと灯るガス灯の明かり。馬車はガラガラと音を立てながら、舗装の悪い道を走る。そしてやっぱり、ドレスを着た貴婦人……。


 ああ……。


 やっぱり吸血鬼って、クラシックなほうがサマになる。


「あーあ、昔は良かったなあ」

 分厚い単行本を閉じながら言うと、

「なーに言ってんの」とカウンターの向こうから、眉毛と髪の毛がないマスターが呆れたような顔で言った。「まだ昔を懐かしがるような歳でもないでしょうが」

「いや、まあね」私は言い、ブラッディ・マリーのグラスに唇をつけた。「確かに百二十八歳なんて吸血鬼社会ではほんの若造だけど、人間社会、百年も経つと結構変わるものじゃない。馬車や人力車なんてもう普通には使わないし、電話から線は消えるし、本は紙じゃなくなるし、服に使われる布はどんどん少なくなるしさあ。コルセットだのパニエだの使うドレスなんてもう誰も着てないんだもん。私もう付いていけない。ドレスが着たいよう」

「着たらいいじゃない。ぜひ着てよー。素敵だよー」

「えー、目立つじゃん。無理無理。ほら見てくださいって看板ぶら下げて歩いてるようなものじゃない。吸血鬼だってばれたら杭打たれちゃう」

「えー、そうかなあ」

「あーあ、オシャレしたいなあ」

「オシャレじゃん」

「今っぽい服を仕方ないから着てるだけー。こんな肩や脚が出た服、私が若い人間の娘だった頃に着てたら猥褻物陳列罪で捕まっちゃう」

「今でも十分若いでしょ」

 ここ、『ダイニングバー・ハラワタ』は、吸血鬼が経営する吸血鬼のためのお店だ。原則店員もお客も吸血鬼ばかり。だから安心して素の自分をさらけ出せるのだ。ここへ来れば昔からの仲間に会えるし、それに新しい出会いもある。前の彼氏(もう灰になっちゃったけど)ともここで出会った。営業時間は午後六時から午前六時まで。このあたりに住む吸血鬼にとってなくてはならない交流の場だ。

「いや、まあね」

 マスター相手に堂々巡りの会話を繰り広げていると、

「お、『ドラキュラ』ですね」

 と突然横から声を掛けられた。

「え……」

 見た目年齢二十代くらいの男性がそこに立っていた。彼はニコリと私に微笑み掛けた。赤い瞳と唇の間からのぞく白い牙が魅力的な、なかなかの美男子だ。一瞬にして頬に熱が入ったのを私は感じた。

「あ、突然すみません。ご迷惑を……」

「いいえ。あ、良かったら一緒に……」

「ありがとうございます」

 美男子はひらりと優雅な仕草でスツールに座り、彼女と同じものを、とマスターに注文した。

「ブラッディ・マリーですか。定番ですよね」

 ともすれば近寄りがたく見える整った顔立ちとは裏腹に、人懐っこい笑顔を見せる。思わずキュンと鳴る胸を手で押さえ、返事をしようとすると、

「そうなんだよねー」とマスターが横から口を挟んできた。「真面目なんだよねー。吸血鬼だからってさあ。さちこちゃ……」

「ウォッホン!」

 私は大きく咳払いをした。え、何? という顔でマスターは目をパチパチさせている。

「真面目なわけじゃないんですよ。ただ好きなんです。ブラッディ・マリーが」

 私は美男子に微笑みながら言った。

「はじめまして。ミーナといいます」

 マスターが美男子に分からないように白目になってみせた。私も美男子に分からないように、黙ってろとマスターに目配せする。

「えっ、ミーナ? 本当に?」

 美男子がぱあっと嬉しそうな顔をした。

「ミーナ・ハーカーだね! ミーナというのは本名?」

「いいえ」私は少しはにかんでみせた。「本当の名前はミナというの。でも友達はみんなミーナと呼ぶから」

 嘘である。友達はみんな私のことを『さちこちゃん』と呼ぶ。私の本当の名前は『西園寺さちこ』だ。

「あなたは? 何ていうお名前?」

 ちょっと小首を傾げながら訊くと、美男子は悪戯っぽい笑みを浮かべ、言った。

「何を隠そう、僕の名前はジョナサンなんだ」

「えー、うそお」

 嘘だろうなと思いながら、私はキャピキャピと言った。

「じゃあジョナサンって呼んでもいい?」

「どうぞ、ミーナ」

 男女の出会いの馬鹿みたいなやり取りを、マスターはグラスを拭きながら聞かない振りをしてくれている。バーのマスターのような仕事をしていたら、きっとこういう場面には星の数ほど出くわすのだろう。

 そう、実際私だって馬鹿みたいだと思っている。けれど前の彼氏が灰になってしまってから、もうひと月ほど。そろそろ新しい彼氏が欲しいのである。このくらいの馬鹿さ加減くらい甘んじて受け入れてやろう。

 ジョナサンはアッシュグレーの髪を指輪がいっぱい付いた指でかき上げた。ブラッディ・マリーをひと口飲み、私を見つめ、微笑む。ガーネットのように綺麗な赤い瞳だ。前の彼氏も赤い瞳が綺麗だったな、と思うと、チクリと胸が痛んだ。最後に見た、日に焼かれる寸前の、恐怖に見開かれた前彼の瞳……。

 でもまあ、灰になってしまったものは仕方がない。

 生きている限り前向きに、だ。

 先週テレビでも言っていたではないか(先週のゲストは確か、若くして起業したIT会社の社長だった)。

「ねえ、今度二人で会おう?」

 少し酔った振りをし、私はジョナサンの瞳を見つめて言った。


 初めてのデートでジョナサンが連れていってくれたのは、彼がよく行くというクラブだった。吸血鬼が経営しているわけでも吸血鬼専門の店でもない、正真正銘人間のための遊び場だ。

「こんなところよく入れたね」

「え? ああ、オーナーが知り合いなんだ」

「ふーん」

 オーナーは吸血鬼に協力的な人間なのだろうか、と私は思った。そういう人間はたまにいる(ただ、『友好的』なだけならいいが、『協力的』である場合、注意が必要だ。ほぼ例外なく何らかの見返りを求めてくるし、身近な人間を餌として吸血鬼に差し出すこともあるので危険なのである)。

 フロアでは、若者たちが音楽に合わせて身体を揺らしている。彼らの身なりに私は目をみはった。何とまあ、無防備に肌を露出していることだろう。服に使われる布の量が減ってきているとはいえ、いくら何でももう少し布を使ったらどうだと言いたくなる。

「飲み物取ってくる」

 そう言ってジョナサンは人混みの中を縫っていった。

 飲み物取ってくる、か。私はクスリと笑った。おもしろい言い方をする。なるほどこれだけ人間がひしめき合っていれば、ひとりやふたり仕留めてくるのはそれほど容易いということか。

 私も今度使ってみようかしら。

 ちょっと飲み物取ってくる──

「はい、お待たせ」

 戻ってきた彼が差し出したものは、しかし若い娘でも青年でもなく、一杯のカクテル──ブラッディ・マリー──だった。

「え?」

 思わず私は目を真ん丸くして彼を見つめた。

「え、ごめん、今日は気分じゃなかった? ブラッディ・マリーだけど……」

 うん、確かにブラッディ・マリーだけど、と私は思った。

「ありがとう……でも、何で?」

 こんなに獲物がいるのに、何故にカクテルなのか?

「好きでしょ?」

 彼は言い、ニコッと笑った。『ちゃんと覚えてるよ』とでも言いたげなドヤ顔だ。どうやら彼は、どうして好みを知っているのかと私が驚いているものと思ったらしい。

 まあ、いいけど、これでも……。

 私は彼からグラスを受け取った。

「ありがとう」

 微笑んで言うと、彼はニコニコと嬉しそうだ。

 この人もしかして天然なのかしら。

 そう思いながらカクテルを啜った、その時、

「あー、ドラキュラさんだ!」

 甲高い声がして、私はもう少しで血しぶきのごとく口からカクテルを吹き出しそうになった。

「違うから! ドラキュラじゃなくてヴァンパイア! ドラキュラってのは人の名前だから!」

 ジョナサンは楽しそうに返事をする。

「えー、どう違うのおー?」

 ケラケラと笑いながら言って、若い娘の二人連れは私たちの側を通り過ぎていった。ジョナサンはニコニコと手を振っている。

「あなたまさか、正体を公表してるの?」

「え? ドラキュラってこと? いやドラキュラじゃない、ヴァンパイアってこと?」

「そうよ!」

「うん、みんな知ってるよ」

 あろうことかジョナサンは笑いながら言うではないか。私はクラリと目眩がするようだった。

「何てことを!」私はジョナサンの両肩を掴んで詰め寄った。「人間に正体が知られたらどういうことになるか分かっているの?」

 人間と吸血鬼の歴史は血塗られた闘いの歴史だ。人間どもはそこに吸血鬼がいると知るや、その吸血鬼がたとえ何も悪いことをしていなくても(まあたいていは食料として人間を頂いているわけなのだが)、十字架と銀の弾丸と木の杭を持って押し寄せ、吸血鬼を根こそぎ亡き者にしようとするものだ。私も何度コミュニティを襲撃されてきたことか。そのたびに家や仲間を失いながら、今までなんとか逃げ延びてきたのだ。近年ではコミュニティで生活することはなくなり、1LDKのアパートに落ち着いているが、それでもいつヴァン・ヘルシングみたいなやつが現れないとも限らない。『ハラワタ』の存在を嗅ぎ付けられでもしたら、また血の歴史が繰り返されることになる。それなのにこのジョナサンときたら、

「大丈夫だよ」

 と言って笑うばかりである。

「みんなおもしろがってくれててさ。ちょっとした人気者なんだよ、これでも」

「ハァ……」

 思わず私はため息をついた。きっと彼は吸血鬼になって日が浅いのだ。陰惨な歴史を知らないから、のんきなことを言っていられるのだ。人間なんていつ牙をむくか分からないというのに。

「そんなことよりさ、踊ろうよ、ミーナ」

 ジョナサンは私の手を引っ張ってゴミゴミと蠢く人間どもの中へ入っていった。


 踊り始めてすぐ、真後ろにいる人と思い切りぶつかった。ジョナサンはというと、自分の世界に入り込んで激しく踊り狂っている。私は後ろを振り返り、「すみません」と頭を下げた。クラブにいる人とかリア充ぽくて何となくコワイので相手の顔はよく見なかった。しかしその相手のほうが、

「おや、これは!」

 と親しげな声を上げたのだった。私はその声に聴き覚えがあった。嫌な予感がしながらも顔を上げてみると、そこにいたのはやはり思ったとおりの人物だった。

「げっ、シーカー伯爵!」


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