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DAY.1:「変なことはしないから、さ」

十月の中旬に差しかかった頃、とある日の深夜一時過ぎ。




 俺はいつものように、ゴミ袋を持ってアパートの階段を下りていた。受験勉強の息抜きがてら、真夜中にゴミ出しをするのが日課だった。今日は可燃物の日だ。




 カラス避けのネットの下にパンパンの袋を放り込んだところで、こちらに近づいてくる人影に気づいた。肩をすぼめ、猫背でよろよろと歩く様は、まるで大学受験に落ちた受験生の帰り道だ。この時間に夜道を歩いている女性といえば、あの人くらいしか思い当たらない。




 シルエットが徐々に明らかになっていく。




 身長は百五十センチ中盤くらいと思われるが、姿勢が悪いせいか近くまで来てもずいぶん小さく見える。肩に掛けたトートバッグはハリと輝きをすっかり失い、くたびれていた。




 やっぱりお隣さんだ。




 名前は知らない。当然、職業も年齢も趣味も知らない。二十代前半くらいだろうと推察しているが、正解がわかることは一生ないだろう。




「こんばんは」




 それでも最低限の挨拶くらいはする。特別、仲良くなりたいとは思っていないが。




「……」




 向こうも俺と同じ気持ちらしく、返事をもらったことは一度もない。都会の人間関係とはなんと希薄なことか。




 俺が一人暮らしを始めて今年で三年目になる。高校入学と同時にこっちに引っ越してきたから、一人の生活にはすっかり慣れた。隣人に無視されたくらいで傷つくことはない。




 すれ違いざま、お隣さんにギロリ、とねめつけられた。




 ……傷つくことはない。




 実家にいた頃だってご近所付き合いは皆無だったし、今もまともに会話をするのは学校とバイト先くらいのものだ。こんなもの、こんなものである。そもそも俺自身、人様に苦言を呈することができるほど、外見の印象が良くないことは自覚している。




 春の身体検査でついに身長は百八十センチ後半に入った。図体がデカイ分、どうしても他人を見下ろす形になってしまうし、笑顔を作ろうとして目を細めた結果、「睨まれた」とか「見下みくだされた」とかネガティブに受け取られたことは一度や二度じゃない。実際、制服を着ていないと、高校生と認識してもらえることは皆無なのだ。




 そんなことはどうでもいい。今の俺にとって最優先事項は、受験勉強に集中すること。偏差値の高い国立大学に受かって、返済不要の奨学金で学業の基盤を得る。学部? そんなのどこでも構わないさ。華のキャンパスライフも興味ない。大学なんて、それなりに良い企業に就職するための通過点に過ぎないのだ。将来の夢なんて抱いたことがない。少なくとも、お隣さんみたいに毎日真夜中まで仕事をするようなブラックな生活だけはごめんだが。




 お隣さんが部屋に入ったのを確認してから、俺もアパートに戻った。 






 翌日、ほぼ同時刻。今度はプラスチックごみを捨てにいった時、再びお隣さんと出くわした。前日よりもさらに背中を丸め、肩からずれ落ちたトートバッグが今にも地面に激突しそうだ。




「お、おつかれさまです」




 お隣さんがばっと顔を上げる。




「ひ」




 思わず悲鳴が漏れた。




 目の下が真っ黒だ。これはメイクではなくクマだろう。唇もカサカサで、せっかくの端正な顔が台無しだ。




 そう、このお姉さんは美人なのである。真珠のような大きな瞳、キリリとした眉、すらっとした鼻、きつく結んだ唇。これで振る舞いさえ温厚であれば、完璧美女なのは間違いない。しかし実際はクールを通り越してもはや絶対零度。俺に好きな異性のタイプはないが、せめて一緒にいて安らげる関係でありたい。




 しばらく睨み合い(といっても俺が一方的に睨まれているだけだったが)が続き、やがてお隣さんはふいと目を逸らした。




「なんなんだよ……?」




 昨日よりも間を空けてから、俺はそそくさと部屋に帰った。






 お隣さんがくたびれた表情をしている原因に、実は心当たりがある。




 毎晩遅くに帰ってくる彼女には、ひとつだけ習慣があった。




 それは恋人との電話だ。




 俺が机で勉強していると、壁のすぐ向こうから声が漏れてくるのだ。会話の詳細までは聞こえないが、眠いとか仕事が疲れたとかおいしいもの食べたいとかが壁越しに届いてくる。そのところどころで登場するのが「ブラウン」という名前だ。




 どうやら外国人の彼氏がいるらしい。遠距離恋愛をつなぐのは、深夜のラブコールというわけだ。




 ところがここ数日、通話の声がまったく耳に入らない。




 理由は明白、きっと二人は別れてしまったのだ。失恋のショックでお隣さんは心身ともに困憊し、忙しさも相まって寝不足になっているのである。




 励ましてあげたいところだが、ただの隣人で赤の他人である俺から何を言われたところで嬉しくもないだろう。親しい人との別離の傷を癒してくれるのは、時間だけだ。




 俺は身をもって、それを体験している。






 さらに翌日、運命の日。




 俺は不燃ごみの入った袋を持ったままサンダルを履く。寝る前に自作の英単語帳をもう一周しようかなどと考えていた。




 がたん、と外で何かが倒れる音がした。自転車やバイクの音にしては鈍いし、そもそもここは二階だ。駐輪場からはだいぶ離れている。




 恐る恐る顔を出す。




 お隣さんが、すぐ横でうつ伏せに倒れていた。




「あ、あの、大丈夫ですか?」




 お隣さんはゆっくり顔を上げる。クマが昨日よりも酷く、視線にも覇気がない。髪が乱れ、ストッキングは破れていた。まさか、帰宅途中で痴漢に遭ったとか。




「……ちょっと疲れちゃって」


「へ?」


「ようやく家に帰れたと思ったら気が抜けて、転んじゃった……」




 俺の差し出した手を握ることなく、両手をコンクリートにつけたまま、こぼすようにつぶやいた。ずいぶんやつれた声だった。しかし目は逸らすことなく、俺をじっと見つめている。




「……キミ、ゴミ捨て終わったらもう寝ちゃう?」




 質問されたことにも驚いたし、その意図もさっぱり読めなかった。




「いえ、もう少しだけ勉強してから……」


「……そう」




 お隣さんは、再び顔を下に向ける。そして意を決したように自力で立ち上がり、俺を真正面から捉えた。




「じゃあ今から一時間後、ウチに来てくれない?」


「え」


「変なことはしないから、さ。頼まれてくれないかな」




 力が抜けているからか、意外と優しい声色だった。狙いはまったく予測不能だが、言葉の通り、裏があるようには見えない。まさか高校生を招いて宅飲みしようというわけでもあるまい。




「わかりました……」


「よろしくね」




 それだけ言って、お隣さんはよろよろと部屋に吸い込まれていった。





 ひょっとして、とんでもない約束をしてしまったのではないか。

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