第二話「Chain breaker」④
変身ヒロイン百合アクション、第二話ラスト。
アキラは気づいた。音そのものは何なのか判らない…強いて言うなら手の平や靴底で硬い物を叩く音だろうか…だが、音のテンポというかリズムというか、それは動物のそれに近い。特に幼い頃にドッグランで聞いた、中型犬が走る足音のリズムにそっくりだった。その音が天井から聞こえ、しかも近づいてくる―――
「おぁあああッ!!」
叫び声に気付いて見上げると、天井に張り付き犬のように四つん這いで駆けるブライドの姿が薄暗い照明の中に浮かんだ。直後にブライドは天井から離れて宙返りで飛び降り、両膝をアキラの額に叩きつけた。吹っ飛んで地面に倒れたアキラの襟首をブライドが掴み、壁に押しつけてもう片方の手で首を掴む。常人を遥かに超える握力で喉を絞つけられ、アキラの呼吸が止まる。その顔面を狙ってブライドが拳を突き出す。首を曲げてどうにか避けた拳は、耳をかすめて背後のコンクリートの壁にめり込んだ。その手からわずかに金属音が聞こえた。薄明りに照らされ、ブライドが手に持つ武器が見えた。昨日街中で襲撃を受けた時にも見た、両端に金属の重りを付けられた鎖だった。服装はサフィールらとおよそ同じだが、布地の色は薄紫色だ。
「やっぱりあなた、ブライド…」
「よこせ! よこせェ!!」
「なに!?」
薄紫のブライドが顔を近づけて凄む。その目は蛍光灯の逆行の中でもギラギラと光っていた。明日も知れぬほどに追い詰められた者が見せる、手負いの獣のような危険な目だ。その目は端的に彼女の心境を現していた。
「お前のジュエル! よこせ! よこせ! よこせェェ! よこせぇぇぇェェェ!」
「ジュエル…!」
アンベリアよりも切羽詰まった怒声。わめき声と言っても良いほどに言葉が濁り、聞き取ることはかろうじて可能な程度だった。変身しようとしていたアキラは逡巡する。自分の青いジュエルを…引いては他のブライドのジュエル全てを手に入れることで、恐らく彼女は願いを叶えようとしている。あるいは、それが叶うという希望をつなぎとめようとしている。そして、その体には濁ったもやのようなものがまとわりついていた。胸のジュエルにたまりこんだ濁りが猛烈な勢いで外に噴き出ている。
「…やっぱり、この黒いやつか!」
アキラは渾身の力でブライドを押しのけた。息を吸い込んで呼吸を整えようとするが、その首に今度は鎖が巻きついた。見た所長さは10メートル近くあり、なるほど歩道の端から端まで余裕で届くだろう。射程距離は限られるが分銅での狙い撃ちは正確、今のように捕縛にも使える。指に巻きつけたり分銅を握りこんだりすれば拳の破壊力を強化し、半分か四分の一に折って振り回せば鈍器の破壊力を発揮する。そして先ほどの使い方からするに、目の前のブライドはこの武器の使い方を理解している。
アキラは内ポケットからジュエルを出し、強く握った。指の間から青い閃光が漏れ、薄暗い地下道を一瞬だけ鮮やかに照らす。
「エンゲージ! 『プリマ・サフィール』ッ!!」
叫び、光りに包まれたアキラの全身が瞬時に消える。薄紫のブライドは鎖を手元に引き戻して攻撃に備えようとするが、その動作のうちに目の前の空間に門が現れ、そこから飛び出したサフィールがガントレットに包まれた右手の手刀を振り下ろす。ブライドは両手で鎖を左右に伸ばし、ピンと張って手刀を防いだ。手甲と鎖が激突する金属音が地下道に響く。ブライドの前蹴りをサフィールは飛びのいて回避し、両手を顔の近くに構えた。
「プル、あの子は何のブライド!?」
《あの子はプリマ・スピルナス。あの武器の使い方を結構知ってるみたいプル》
「うん」
対峙したブライド…プリマ・スピルナスは四つ折りにした鎖を両手で持ち、片側の端を右手に巻き付け振り回したときに外れてしまわないようにして構えている。両者はじりじりと地下道の奥へと進む。もう少し進めば殆ど視界が効かないほどの暗闇になる。『デュエルブライド』の視力が闇の中でどれほど働くかがつかめず、至近距離での格闘戦しかできないサフィールが近付くには、なるべく明るい視界で相手の行動を目視し続ける必要がある。これ以上は下がれない。
意を決したサフィールは一歩踏み出し、接近を試みる。だが瞬時にそれを察し、スピルナスは地面を鎖で叩いた。踏み出した足を止めたサフィールを、今度は袈裟懸けに斬るように立て続けに振り下ろす。サフィールは鎖を腕で防ぐが、防いだ場所から巻き付くように折れ曲がった鎖が強烈に背中を打つ。皮膚が裂けたかと思うような痛みだった。
(まずい、ただ防ぐだけじゃ防ぎきれない…!)
《あの鎖の動きを抑えないとダメだプル!》
「だよね!」
手から叩き落すにも掴んで奪い取るにも、ある程度近付くしかない。多少の無茶は自覚しつつ、振り回される鎖を両腕で防ぎながらサフィールは接近した。が、今度はスピルナスの拳が防御する左腕を強打した。腕力はサフィールの方が上のようだが、鎖をメリケンサックのように拳に巻き付けてあるため、手甲の上からでも重い衝撃がある。防御した腕に気を取られた一瞬、前蹴りを叩き込まれた。わずかに後退すると、スピルナスの方も後ろに跳んでサフィールから距離を取る。直後、分銅がサフィールの右肩を直撃した。肩当てで守られたため骨は砕けなかったが、それでも痛む。薄暗い地下道では飛び道具が視認や回避がしづらく、正確に自転車のクランクに当てたスピルナスの技量を考えれば、直撃され本当に骨まで砕ける可能性が充分にある。
改めて、スピルナスが自身の闘い方を心得ていることを理解した。サフィール自身、そしてアンベリアもそうだが、恐らくブライドに変身することで一時的に戦闘技能が身に付くのだろう。だが戦い方の冷静さに反し、スピルナスの表情は凶暴なままだった。食いしばった歯からはうなり声と荒い息が漏れ、血走った眼が吊り上がっている。ジュエルの中の黒い濁りが憎悪を極限まで高めているのだろう。無関係の人間に手を出すより先に、彼女自身の脳がこの憎悪に耐えられず異常を起こしそうだ。
スピルナスがもう一度鎖を垂直に振り、叩きつけようとする。サフィールはそれを避けて彼女のすぐ横まで前転で跳び込み、真横からの蹴りで足首を払う。転倒しかけたスピルナスに肩から当たり、壁にたたきつけた。その一瞬で接近し、スピルナスの手に巻きつけられた鎖を叩き落そうとする。だがその前に首に鎖を巻き付けられ、引き寄せられた。眉間のあたりに硬いものがぶつかり、視界に火花が散る―――どうやら頭突きをくらったようだ。鼻や目に当たらなかったのは幸いか。そう思った直後、左目の上に硬い衝撃とすさまじい熱が生まれた。
「ぐぅあっ!!」
目の上を押さえて思わず交代した。失明したわけではないようだが、触れた手の平には生ぬるい液体と硬く膨らんだ皮膚の感触がある。鎖を巻いた拳で殴られて血が流れ、腫れあがっているようだ。再び鎖を引かれて引き寄せられると、今度は腹に重い蹴りが直撃した。吹き飛ばされ、背中から反対側の壁に叩きつけられた。肺から息が漏れ、一瞬呼吸が止まる。さらに右の腕、浄化の光『ピュリファイア・フラッシュ』を出す方の腕の肘に鎖を巻き付けられ、両手で押さえつけられた。大きなガントレットを装備していることで、浄化の光のことは知らなくともすぐに強力な攻撃を出す部位だと理解したのだろう。
薄暗い上に視界が半分、遠近感の欠落。更には自身の戦い方をよく知るブライドが相手。人目を避けるためとはいえ、この場所に飛び込んだことは迂闊だったのかもしれない。
「ぅぅぅぁあああっっ!!」
喉を引き裂くような叫びと共に、スピルナスがサフィールの右腕を折ろうと膝で蹴り上げる。一回、二回、三回、四回…蹴り上げられるたびにサフィールの口から悲鳴が漏れる。しかし利き腕を痛めつけられながら、その行動がスピルナスの精神状態を表していることをサフィールは直感した。宝石さえ奪えばいいはずなのに、こうやって強力な武器とわかる部位を破壊しなければ、自身の安全を確証できないのだ。自身の願いからくるジュエルへの渇望と、五体無事なまま逃がしてジュエルを奪い返される恐怖に支配されている。昨日街中でアキラを狙ったのもそうだ。立証が困難な状況で殺害し、捕まらないよう安全に事を進めようとしている。一見冷静な行動だが、むしろそのことに固執さえしているようにも見える。
そして、実際サフィールの右腕の破壊に気を取られたことで彼女には隙ができた。サフィールは無事な左手でがら空きのスピルナスの肩を掴む。虚を突かれたスピルナスは動きを止め、膝を上げかかった不安定な姿勢で固まってしまった。その隙に右腕も振りほどき、スピルナスの腰のあたりを掴むと両腕で高く持ち上げた。
「ごめん、ちょっと痛いけど! 我慢して!!」
「うっ…ぁあああっ!!」
持ち上げたスピルナスを、サフィールは背中側からコンクリートの地面にたたきつけた。その膂力にコンクリートがひび割れ地下道が振動する。その一方で右腕に巻きつけられたチェーンを掴み、スピルナスの上半身を引き寄せて後頭部が地面に直撃することを避けるのは忘れなかった。手加減したとはいえ、サフィールは強い腕力を持っている。今度はスピルナスの方が息を詰まらせる番だった。
サフィールは鎖を首からほどき、スピルナスの手から奪い取って足元に投げ捨てた。どうにか呼吸を整えたスピルナスは再び鎖を手に取ろうとするが、すぐそばで見下ろすサフィールと視線を合わせると、その表情は一気に恐怖に支配された。武器を奪われ、素手ではかなわないと本能的に悟っているようだ。
「や、やだ…やだ、やめろ、来るな!! 来るな!!」
「逃げなくていい。あなたの宝石をキレイにするだけだから」
「来るな! 嫌だ!! わたしの宝石は渡さないぞ!!」
はいずって逃げようとしつつ胸のジュエルをかばおうと手をかざすが、そのせいで却ってその場から動くことをやめてしまっていた。サフィールはしゃがみ込み、スピルナスの肩に両手を置いて説得を試みる。
「よく聞いて。あなたの宝石は何かに呪われた状態になってる。あたしがそれを浄めるから、だから…」
「うるさい!!」
しかし、半ば恐慌状態のスピルナスはサフィールの顔面に拳を叩き込んだ。口の中が切れてしまい、唇から血がこぼれる。サフィールがそれに気を取られている間、スピルナスは再び鎖を手に取って立ち上がった。しかし、その脚は痛みか恐怖のためか震えてしまっている。にもかかわらず彼女は鎖をもう一度構えた。四つに折り、またもこん棒のように振るう気でいるようだ。重量と硬度と柔軟性を持つ鎖は、直撃すればアキラの顔面を引き裂き粉砕するだろう。
「お前の宝石…もらってから、私は残りの奴も全部貰うんだ…それで、願いをかなえるんだ…!」
残るブライドの数も判らず、荒唐無稽とすら言える計画を本気で話している。その表情は既に正気の物ではなかった。もはや見ていられず、説得も無駄と理解したサフィールもまた拳を構える。スピルナスはじりじりと近寄り、折った鎖の端を両手で握って振りかぶった。
「ぇぇぇあああああああ―――!!!」
絶叫と共に駆け出し、鎖を振り下ろす。同時にサフィールの胸の宝石、そして右手のガントレットが鮮烈な青い輝きを放つ。
《アキラ…!》
「うん…!」
振り下ろす鎖を左手で受け、掴んで動きを封じる。手の平に直撃を受けて皮膚が裂けるが構いはしなかった。吹き出た血で滑らないように腕で巻き取り、思い切り引き寄せる。もう何もできないと悟ったか、スピルナスの顔からは恐怖も焦りも消えて呆然と目を見開いていた。
「ひ……」
「―――ピュリファイア・フラッシュ!!!」
浄めの光をまとう拳がスピルナスの胸の宝石を直撃し、光は宝石を貫いた。周囲が強烈な閃光に照らされる中、スピルナスの背から黒い霧が吹きだして悪魔のような顔を形作ると、断末魔の叫びのような音とともに消え去った。光が収まると地下道は元の薄暗がりに戻り、切れかかった蛍光灯の光の中にスピルナスの顔が浮かぶ。憎悪と恐怖が消え去った、先ほどまでと比べてだいぶ安らかな表情だった。気を失って両目を閉ざした彼女は膝を突き、前のめりにサフィールに倒れ掛かった。慌ててサフィールはスピルナスの体を支え、顔の表情と呼吸があることを確認すると、安堵のため息をついて座り込んだ。
「はぁ~~~…すごく疲れた」
《お疲れ様プル…手は大丈夫プル?》
「正直めっちゃ痛い…痛っ、あいたたた痛い! 痛いよ! 痛いってわかったら痛い! あっ、血ぃ付いちゃったりしてないかな…大丈夫かな」
気が抜けたためか余計に痛みを感じたが、それよりも倒れこむ体を支えた時にスピルナスの体に血が付いたのではないか…と確認したが、特にそれらしい形跡はない。鎖を受け止めて裂けた左の手の平を改めて見ると、薄暗がりの中でもかなり大きな傷で、血も大量に流れているのが見て取れた。こんな手で顔面にでも触れてしまったら大変なことになってしまう。腰のリボンをほどき、グルグルに左手を縛って止血する。応急処置を終えると、痛みをこらえつつスピルナスの体を担ぎ上げ、元来た道を戻って地下道の入り口まで来た。
入り口近くまで来たところで、ひょこっと顔を出して周囲を見回し、無人であることを確認すると、スピルナスをよっこらせと肩に担ぎ上げ、急いで歩道を横切ってビルとビルの間にもぐりこむ。まだ日の出ている時間に、青と薄紫の髪でコスプレのような衣装を着た女子高生が二人、片方が片方を米俵かカナディアンバックブリーカーのように担ぎ上げて駆け抜ける姿など、さぞ衆目の目には珍妙な光景に映るに違いない…などと考えつつ、とりあえず目立たない程度に奥まったあたり、地面やビルの外壁がそんなに汚れていない所にスピルナスを座らせた。
改めて、スピルナスの顔を見る。
「…こうやって見ると、やっぱり普通の子だよね……」
《うん…あの黒いモヤモヤのせいだとしても、何がこの子をあんなにさせたのかな…》
「…ん?」
サフィールはスピルナスの右手を包む長い手袋に気付いた。変身前や戦闘中は判らなかったが、左手の方が素手に手甲をまとっているのに対し、右腕は肘までが長手袋に包まれ、不自然な程に脱力している。片手だけ手袋というファッションだとしても、この姿になってまで身に着けるものだろうか。そう考えていると、スピルナスの睫毛が震え、ゆっくりと瞼を開いた。そして数度まばたきをすると、左手で体のいたるところにふれ、黒い濁りがすっかり抜けた胸のジュエルを見た。その表情が見る見るうちにゆがみ、悔し気に歯を食いしばる。
「そんな…そんな……」
「あ…あの」
手を差し伸べようとしたサフィールを、スピルナスが怒りに涙をためた目でキッとにらみつける。その瞬間にサフィールは悟った。この子は、やはりジュエルを集めて願いをかなえようとして、叶わずに終わったのだ。手を止めたサフィールの前で、スピルナスは右手の手甲と手袋を外し、サフィールに見せた。
肘の近くから指先まで傷跡だらけで皮膚が醜く変色し、指は中途半端に曲がったまま硬直してしまっていた。愕然としたサフィールから目を逸らし、ボロボロの右腕を左手でつかみながら言う。
「…事故でつぶされたのよ、この腕は」
「でも、じゃあさっきまで本を読んだり、鎖を振り回してたのは…」
「……この宝石と契約した時、宝石を持っている間は動かしてくれると、そして宝石を全部集めたら治してくれると、神様とやらが約束してくれた。そして実際動かしてくれてたわ、私の思うとおりに! 今あんたが変な光を叩き込むまではね!!」
ぐさり、と怨嗟と絶望の言葉がサフィールの胸に突き刺さった。
「何回リハビリしても動かせなかった。ずっと描いてた漫画も二度と書けないと言われた。そんなときに神様は希望をくれたのよ」
彼女の恨みの言葉を聞くたび、サフィールの顔から血の気が引いていく。取り返しのつかないことをしてしまった―――善意に胡坐をかいた行為で、一人の人間の一生を破壊してしまった。重い罪悪感と後悔が、サフィールの胸の内から謝罪の言葉も奪ってしまう。手が震えて体中から急速に力が抜け、サフィールはその場に座り込んだ。
「神様とやらの力は抜けてしまったわ。二度と動かせないでしょうね」
「………あ…あたし…………あたし……」
「フン」
スピルナスは左手でサフィールを突き飛ばした。その瞬間にサフィールの左手に巻かれたリボンが赤い血に濡れているのを見て、自らの鎖が傷つけたのを思い出したのか、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。そしてその場から立ち去ろうとするが、その時。
《ちょ、ちょっと待ってプル!》
サフィールの胸の宝石から小さな光の玉が飛び出し、スピルナスの目の前に浮遊して仔犬の姿を形作った。サフィールはアキラの姿に戻るが、まだその場に座り込んでいる。
「何、この犬」
「ボクはアキラのジュエルの精霊のプル。ボクの話を聞いてほしいプル」
一方のスピルナスはプルの出現にさすがに驚き一瞬目を丸くしたが、すぐに追い払おうとした。その左手をプルは両手で握る。
「…もしかしたら、少しずつだけどキミの手が治せるかもしれないプル」
「は?」
追い払われる前に、プルはスピルナスの胸の宝石を丸い手で軽く叩いた。するとスピルナスの宝石から小さな光の玉が飛び出し、目の前で一瞬のうちに生き物の姿になった。体毛はすみれ色、体格はあんパンのように丸く両手に収まる程度のサイズ。幅広いくちばし、平たく短いしっぽ、そしてミトンのような手が見て取れる。くちばしから鳥類にも見えたが、明確に手足があることから全く別の生き物だと判った。
「…カモノハシ?」
スピルナスがつぶやく。本物のカモノハシと比べてだいぶ丸くなっているが、特徴は当てはまる。カモノハシの精霊は手を上げ、スピルナスに出会えたことを喜ぶようにその肩にしがみついた。
「パオ!」
「…」
「パオパオ」
「………何よ、これ」
「パオ?」
だがカモノハシ精霊を迎えたのは失望の言葉と蔑みの目だった。しかし精霊自身はその意味をよく判っていないのか、首を傾げて丸い瞳でスピルナスを見上げている。スピルナスは吐き捨てるように言った。
「何かと思えばこんな知能指数の低い、言葉も話せない動物を…あんたたち、どこまで私をバカにして…」
「ち、ちがうプル…これは、その…」
「パオ!」
プルが弁解しようとすると、カモノハシ精霊は目ざとくスピルナスの右手に気付いて、肩から離れふよふよ浮遊して動かぬ手に触れた。そしてわずかにためらい、意を決したように全力で右手にしがみついた。全力と言っても、せいぜいが小さな動物のそれなので、大人が少し力を込めた程度の膂力しか無い。スピルナスが叩き落そうとしたその時―――精霊の体が、そしてスピルナスの右手が、淡いすみれ色に輝きだした。同時に、何かに気付いたスピルナスの両目が驚愕に見開かれた。座り込んでいたアキラもその光景に気付き、立ち上がってプルのそばまで歩み寄ると、見入られたように輝く精霊とスピルナスの右手を見つめる。
「プル、これは…?」
「精霊は色々なことができるプル。この子の場合、多分…傷ついた神経を治す力を持ってるプル」
光が収まると、精霊がスピルナスの右手から離れ、疲れたのか眠たげな表情でスピルナスの肩まで戻った。その瞬間にスピルナスの装束は消え、元の私服と髪色に戻る。―――プルの言葉を聞いていたのかどうか。スピルナスは左手で麻痺しているはずの右腕に触れ、すぐに指先を離した。そして…そして、動かないはずの右腕の肘から先をゆっくり少しずつ上げ、手首も動かして手の平を上向かせようとする。錆びた機械のような音が聞こえてきそうな程、ごくわずかしか動かなかった。だが、動いた。
「う、ご…く……」
呆然と、スピルナスの少女がつぶやいた。精霊はその肩で今にも眠りそうに目をこすりつつ、少女に頬ずりする。次第に少女の顔が驚きと喜びに染まっていく。それはアキラも同じだった。
「うごく…動く! 少しだけど、今動かせた!」
「パオ…むにゃ」
「私の手、少しだけど動かせたのよ! あんたすごいじゃない!!」
肩にとまった精霊を撫で、少女自身も頬ずりし返した。あっという間に喜色満面の表情になり、目からは喜びの涙まであふれていた。精霊の方も眠たげながら、その顔はやや自慢げだ。
と、少女はアキラの顔を見た。そして先ほど言い放ったことを思い出してか、目を逸らしてごにょごにょとつぶやく。
「あ、あー…その…… さっきの言葉、取り消すわ。その」
「……」
「こ、この子がでてきてくれたのは…あんたが宝石を…その……と、とにかく」
「あっはい」
「こういうときは、あ、ありがとう…でいいのかしら」
それだけ言うと、少女はアキラから目を逸らし、鼻息も荒く張り切りだした。
「よぉし…しっかりリハビリして、たとえ時間がかかっても漫画は再開してやるわよ。あんたも手伝いなさい!」
「パオ~」
「それじゃ………え、ど、ど、何、どうしたの!?」
「どうしたプル?…あ、アキラ!?」
ふとアキラの方を振り向いた少女とプルが、ギョッとして目を見開く。アキラは自分に何が起こったのかわからず、はぇ、と間抜けな声を出して何度かまばたきした。
目頭が熱く、視界が濡れた窓のようににじむ。頬を何かが流れていく。何が起こったのかと自分の頬に触れた。―――涙が流れていた。泣いていることを自覚した直後、その理由もすぐに分かった。
少女の先ほどの言葉…「ありがとう」が、そして希望を取り戻した彼女の明るい表情が、心にのしかかっていた不安を、ほんのわずかな時間ですべて消し飛ばしたのだ。気づいた瞬間に喉がしゃくりあげ、両目の涙がますますあふれ出した。
「うぇぐ…よかった、よかったぁ……」
「え、ちょ、は? よかったって?」
「よか゛った゛よぉぉぉぉ……よがっだぁ、えぅぅぅぅぅ~~…」
人目もはばからず、アキラは盛大に泣き出した。
「ぃっぐ…うわあ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~~~~!」
「なに、何よ! 何泣いてんのよ、ちょっと落ち着きなさいよ…」
「アキラが噴水みたいになってしまったプル…」
通行人が二人のそばを通り過ぎていく。ビルの谷間で女の子が女の子を泣かしているぞ、と興味深そうにのぞき込んでは立ち去る。そんな状況に困惑するプルとスピルナスの少女を尻目に、アキラは自分の行いが実を結んだ嬉しさと、そして相手が立ち直ってくれたことの喜びに、良かった、良かったと叫びながら、人目もはばからずわんわん泣き続けた。
―――〈ジュエル・デュエル・ブライド:第二話 「Chain breaker」 END〉―――
まだ主人公にはっきりした動機や目的などのようなものが無く、現段階では凶暴化した女の子を鎮静化させるだけの話となりました。本格的に話が動き出す(多分)のは次回からとなる予定です。