chiakiの憂鬱②
聡からプロポーズされたものの、漫画家を辞める気はないと宣言した千明。
それが気に食わない彼に、千明が出した結論とは……?
「じゃあ、もう漫画家なんてやらなくて済むよな」
「は?」
漫画家なんて。
「え、待って? 何でそうなるわけ?」
「結婚しても、漫画家は続けるけど……」
私がそう反論すると、聡は不機嫌そうな顔になる。
ああ、いつもこうだ。
彼は、私が漫画家をやってるのが気に食わないのだ。
私の連載している雑誌は、大人の女性向けのものである。
そのためか、男女に関する描写が生々しいこともよくある。
私がそういう漫画を描いてることを、聡は前からよしとしていなかった。
「何でって……うちの嫁になってもまだエロ漫画描き続ける気か?」
「子どもが生まれて、苛められたらどうすんだよ」
エロ漫画、か。
聡には、ずっとそう見えていたのか。
「……子どもをダシに使わないでよ」
「ほんとは、聡が嫌なんでしょ?」
聡は、何も言わなかった。
だけど、ありのままの私を受け入れるつもりもないみたいだった。
結婚したいなら、オレの言う通りにしろ。
そう言われている気がした。
「帰る」
財布から2万円を取り出してテーブルに置くと、私はさっさと席を立った。
聡が私を見上げる。
でもその目は、待ってくれとは言ってない。
「じゃあ、なかったことにしていいんだな?」
「終わりってことでいいんだよな」
私は、既にグロスの取れてしまった唇を噛む。
このまま帰ってしまうことは、果たして正解なのか。
自分でも分からない。
「10年も付き合ってきて、エロ漫画に負けるとは思ってなかったよ」
確かに付き合ってはきた。
だけど、本当にそうだった?
ただ、離れないままに時間を過ごしてきただけじゃなかった?
でも、聡の最後の言葉で、とうとう目が覚めた。
私は梅子を思い出す。
いつもハルくんの傍らで、楽しそうに笑っている梅子。
そしてそんなあの子を、ありのままの梅子を、ハルくんはずっと大切にしてきたんだろう。
ありのままの、私。
聡が望んでくれなかった、私。
「おい、今日はオレが」
聡はそう言うと、私にお金を返してよこそうとした。
そんなものは見ず、私はさっさとテーブルを離れた。
10年の関係は、たった2万の手切れ金で簡単に片が付いた。
*
ななし荘に帰ったのは、11時を過ぎてからだった。
食堂で顔を合わせたハルくんは、まだ何やら仕事をしていた。
「おかえり、千明さん」
「楽しかった?」
酔っ払った私を見て、ハルくんは勘違いしてるみたいだった。
私が酔ってるのは、彼氏と楽しく飲んだ酒のためではなく、帰りにコンビニで買ったカップ酒を飲みまくったせいだ。
「ハルくん、何かある?」
「……お茶漬けでいい?」
ハルくんと梅子ほどではないけど、私たちの付き合いもまた長い。
私の様子から、彼は何か察してくれたみたいだった。
「今日は何食べたんですか?」
「ステーキ、めっちゃ柔らかいやつ」
「いいっすねー」
笑いながら、ハルくんはお茶漬けの用意をしている。
しばらくしてお盆に載せてきてくれたそれには、鮭のほぐし身が盛り付けてある。
「うちは今日、焼き鮭だったんです」
「これは、その残り」
ハルくんは部屋には戻らずに、私の向かいに腰を下ろした。
彼は梅子だけにでなく、私にも優しい。
私だけにでなく、住人みんなに優しい。
ずずっとすすったお茶漬けは、鮭の塩気がちょうどよくて美味しかった。
さっきレストランで食べた、めっちゃ柔らかいステーキなんかよりも。
もっとも、もし聡のプロポーズを受けていたら、あれもすっごく美味しいままだったんだろうけど。
どうして、私はこうなんだろう。
どうして梅子みたいに、ただあるように愛してもらえないんだろう。
何口目かにお茶漬けをかき込んだとき、不意に涙が溢れてきた。
ああ、私、聡のこと好きだったんだ。
彼が飾らないままの私を受け入れてくれていたなら、私は喜んで彼の妻になっただろう。
嗚咽だけはこらえようと、私はお茶漬けを食べるのに集中しようと思った。
目の前で泣いている私を見ても、ハルくんは何も言わない。
動揺もしなければ、特に慰めてくれるわけでもない。
「千明ちゃん、おかえ……あーー!」
トイレのついでか食堂に顔を出した梅子は、泣いている私を見て声を上げた。
「ハルが、千明ちゃん泣かせてるー!」
「いーけないんだあ」
あんたは小学生の女子か。
これで25歳だなんて、信じられない。
「俺じゃないって……」
「梅ちゃんは早く寝ろよ」
「また寝坊したって知らないぞ」
ハルくんはため息を吐くと、面倒そうに言った。
「大人の女の人にはさ、泣きたい夜もあるんだよ」
「ちんちくりんの梅ちゃんには分からないだろうけど」
そう言って、梅子のおでこに軽くデコピンをした。
何それーと、梅子は額に手を当てて頬を膨らませている。
私の涙は、いつの間にか乾いていた。