chiakiの憂鬱①
ななし荘の古株住人、漫画家の千明。
彼女はある日、恋人の聡に会おうと誘われれて……。
須藤千明、35歳。
職業、漫画家。
大手女性向け雑誌にて、chiakiの名前で連載を持っている。
「悪いねー、ハルくん」
「いいっすよ」
私は締め切りに追われていた。
いつもは全部ひとりで描くんだけど、今回はデビュー10周年祝いとかで読み切りも頼まれた。
そんで、平日の午後にうちにいたハルくんにアシスタントを頼むことにしたのだ。
2階にある私のプライベートルームには、ペンを動かす音だけが響いている。
それがちょっと息苦しいような気がして、私は他愛もない話題をハルくんに振ってみる。
「ハルくんは、梅子とエッチしたいと思わないの?」
私の問いに、ハルくんの耳がぴくんと動いた。
しかし、動じる様子はない。
大きな手で器用に筆ペンを操り、丁寧にベタを塗っている。
私はななし荘一番の古株住人だ。
ハルくんと梅子のおばあちゃんが大家をやっていたときからだから、もうトータルで15年くらい住んでる。
私が初めて彼らに会ったのは、2人がまだ12、3歳の頃だった。
お母さんが亡くなって、大家のおばあちゃんがアパートに引き取ったのだ。
その頃から、ハルくんと梅子はずっと仲がいい。
今に至るまで、ずっと。
寝転がって、イヤホン片方ずつで音楽聴いたりしてることもある。
梅子が、ハルくんのしっぽを枕にしてTV見てるときもある。
食堂の狭い休憩スペースで、引っ付いて昼寝してることもある。
ある、ある、ある。
「そりゃあ、したいですよ」
「俺だって、男ですから」
ハルくんの答えに、は? 何が? と一瞬思ってしまう。
そしてそれが、さっきの問いの答えだと分かる。
「でもね」
「梅ちゃんって、そういうとこホント疎いんです」
「ド天然なんですよ」
ハルくんは話をしながらも、次の原稿に取り掛かる。
彼の作業した原稿を確認するが、文句なしの仕上がりだ。
彼は新しい原稿に向かい、私がペン入れした主人公の髪の毛を塗っている。
「へー、そうなんだ?」
「今までにアクション起こして空振りだったことあったの?」
私もペンを動かしながら、聞いてみる。
考えているのか、ハルくんは黙ってる。
「アクション起こして……ってことはないですけど」
「際どいことは何度かありましたよ」
ハルくんはよし! と言って、原稿から顔を上げた。
次のも頼みたいけど、私の方が追い付いていない。
ハルくんは座ったまま伸びをすると、首をコキコキと鳴らす。
立ち上がって、今度は腰を伸ばした。
「ちょっと休憩しません?」
「実は、ねこねこ堂のチョコ饅頭があるんです」
「忙しいときは糖分補給しないとね」
ハルくんは、お茶の用意をするために部屋を出ようとしている。
ドアを開けて、思い出したように振り返る。
「あ、チョコ饅頭のこと、梅ちゃんには内緒にしてくださいね」
「あと2個しかないから」
笑ってそう言うと、ハルくんは食堂へ降りて行った。
閉まったドアを、私はしばらく見つめていた。
私は、ときどき梅子が羨ましい。
ハルくんは、彼女のことをとても大事にしている。
元々下がり気味の目尻を殊更に下げて、うんうんと梅子の話を聞いている時がある。
ハルくんは、本当に梅子のことが好きなんだと思う。
当の梅子はそんな気持ちを知ってか知らずか、いつもニコニコと笑ってそこにいる。
いつだったか、彼らのおばあちゃんが言ってたことがある。
ハルはあんなで、梅子はあんなだから、2人は上手くいってるんだよって。
私から見れば、梅子は愛されキャラってとこ。
何をしなくても、ただそこにいるだけで愛されている。
私は、そんな梅子が羨ましい。
ハルくんに大切にされたいわけでも、恋人の聡に目尻を下げて愛でてほしいわけでもない。
ただ、愛されている梅子は幸せそうだ。
同じ女として、私はそういうのが羨ましい。
*
『明日の晩、会わないか?』
『大事な話がある』
聡からそんなメッセージが来たのは、昨日のことだった。
何とか締め切りを守り切り、やれやれと肩の荷が下りたところだった。
最近お互いに忙しくて、彼とは半月以上も顔を合わせていなかった。
どうしてるかなとちょうど考えていたこともあって、彼の誘いは嬉しかった。
「千明ちゃん、おしゃれしてどっか行くの?」
出掛ける前に顔を合わせた梅子が、目をクリクリさせて聞いてくる。
ほんと、漫画のキャラクターみたいなやつ。
「ふふふ……デートよ、デート」
珍しくグロスを塗った唇の端を上げ、私は自慢げに答えてやる。
自分で言うのも何だが、今日の私はけっこう決まってる。
「えー、いいなー」
デートの意味も分かっていない子どものように梅子がそう言うので、ハルくんと行ったらどうだと言ってみる。
梅子、何て言うかな?
「え? 何でそこでハルが出てくるの?」
きょとんとして答えた梅子を見て、ハルくんの言う疎さとはこれかと実感した。
何はともあれ、私は浮かれていた。
聡が指定したレストランは、私たちにとって記念の場所だった。
お互い、友達繋がりの合コンで知り合った。
それから何度か2人で出掛け、付き合おっかということになったのが今日行くレストランでのこと。
時間通りに着いたら、案の定、聡は既に席に着いていた。
ウエイターに案内された私を見て、少し笑って軽く手を挙げた。
大手商社に勤める聡は、待ち合わせに遅れたことはない。
いつも5分くらい前に来て、私のことを待っている。
付き合い始めた頃はぺーぺーだった彼も、今や会社で責任ある仕事を任されるまでになっていた。
私は私で、ポッと出の新人から、実力のある漫画家への道を昇りつめつつある。
「久しぶりだね」
「おう」
聡はぶっきらぼうに答える。
決して怒っているわけではない。
彼はこういうタイプなのだ。
言葉少なではあったが近況を話し合い、おすすめのコース料理を注文した。
ななし荘の夕飯は何だったろう。
そんなことを考えながら、私はメインディッシュの仔牛のステーキを切り分けた。
デザートとコーヒーが出て、コースが終了するかという時だった。
聡が唐突に口を開いた。
「結婚しようか」
「……え?」
デザートに出たベリーのソルベをスプーンですくっていて、私は聡の顔を見ていなかった。
思いもよらなかった言葉に、顔を上げる。
スプーンから伝わった体温で少し溶けたソルベは、つるんと皿に滑り落ちた。
いや、今日の誘いを受けたとき、もしかしたらプロポーズされるのかもとは思っていた。
付き合って、もう10年近くにもなる。
そこへ来て、記念のレストラン。
考えない方がおかしいよね。
「うん、嬉しい……」
膝に敷いた白い布ナプキンをぎゅっと握り締めた。
こんなの、私のキャラじゃないけど。
「よかった」
聡はほっと息を吐いた。
私も微笑み返す。
でも、そこでめでたしめでたしとはならなかった。