番外編:梅ちゃんの得意料理②
番外編第2弾。
梅子がハルに初めて料理を作ったのは、彼らがまだ小学生の時のことだった。
体調を崩して梅子と一緒に早退したハルが、空腹を覚えてキッチンに行くと……。
その日、ばあちゃんは母さんの見舞いで不在だった。
帰りが遅くなる日には、ばあちゃんは夕食の準備をしていってくれてたけど、忙しくてその日は無理だったみたいだ。
病院に出掛ける朝、俺に何か作るように言ったのを覚えている。
俺は元々料理も好きだったけど、腕を上げたのは間違いなく母さんが入院してからだ。
ばあちゃんが忙しくなって、梅ちゃんも料理が出来ない。
やるのは自分だけという使命感が、俺を突き動かしていたんだと思う。
梅ちゃんはそんな俺がいるものだから、すっかり甘え切ってた。
俺が作ったものを、わーいと言って食べるのが彼女の仕事だった。
その日は、特に調子が悪いってわけじゃなかったんだ。
それが給食の時間、急に気分が悪くなって何も食べられなくなってしまった。
とりあえず保健室へ行き、サラサラしたシーツの敷かれたベッドに横になっていた。
「じゃあ弥生くん、送るから今日は帰りましょう」
「ひとりじゃ不安だろうし、梅子ちゃんにも帰ってもらうわね」
保健の先生にそう言われて体を起こした時、その後ろには心配そうな顔をした梅ちゃんがいた。
彼女は、俺の黒いランドセルを手に立っていた。
*
車でななし荘まで送ってもらい、俺は2階の子供部屋で寝ることにした。
布団は、珍しく梅ちゃんが敷いてくれた。
ぼやーっとはしてるけど、これでも心配してくれているらしい。
宿題でもやればいいのに、梅ちゃんは俺の枕元にちょこんと正座している。
「ハル、大丈夫?」
「……うん、平気」
「おなか痛いの?」
「お腹っていうか、胃が気持ち悪い」
「ゲェしちゃったの?」
「もういいだろ、そんなこと」
いろいろしつこく聞かれて面倒臭くなって、俺は頭から布団を被ってしまった。
ごめん、と小さく呟く声がして、梅ちゃんは下に下りて行ったみたいだった。
静かになった部屋で、しばらくはごろごろと寝返りを繰り返していた。
気分の悪さも、次第に収まってきた気がする。
そうなってくると、今度は空腹を感じるようになってきた。
俺はとうとう体を起こして、何か作って食べることにした。
ばあちゃんは、明日買い物に行くって言ってた気がする。
そうなると、冷蔵庫にはあまり食材がないだろう。
適当に作って食べられる、うどんか何かあるといいけど……。
そう思ってキッチンまで行くと、そこに小さな人影がある。
ななし荘の中で、この場所に一番縁のない梅ちゃんだ。
キッチンには、何か美味しそうな匂いも漂っている気がする。
「あれ? 何か作ってるの?」
俺が声をかけると、彼女はびくっと体を震わせた。
妙におどおどとした表情で、こちらを見ている。
「あの、その」
「ハルが食べるかなって……」
梅ちゃんが指さす先には、コンロの上に乗っかった雪平鍋がある。
俺が鍋を覗き込むと、そこにはうどんが作ってあった。
匂いの正体は、これだったのだ。
見ればそれは、お世辞にもあまり美味しそうな感じではなかった。
うどんは明らかに茹で過ぎてるし、溶き卵が上手くばらけずにごちゃっと塊を作っている。
鍋の周囲には焦げ付きもあり、噴きこぼしたことは聞かなくても分かった。
「……梅ちゃんが作ったの、これ」
「うん……」
「あのね、ハルが前に言ってたでしょ?」
「うどんってすごく簡単に作れるって」
「それで、その、真似してみたの」
「あのね、風邪の時のお粥に卵入ってるでしょ?」
「それで、卵も入れたの」
「風邪にはしょうががいいってTVでやってたから、しょうがも入れたの……」
なぜなのか分からないけど、梅ちゃんは罰が悪そうに話していた。
まるで、悪戯のばれた子どもが、親に言い訳をしてるみたいな感じだった。
もじもじして話す梅ちゃんの指に、小さな擦り傷があるのが目に入る。
右手の、人差し指と中指だ。
冷蔵庫を開けると、いつもの位置におろし生姜のチューブはなかった。
「指」
「え?」
「怪我してる」
「ああ、これ?」
「しょうがって、するの難しいんだね」
指を隠すように掴んで、梅ちゃんは苦笑いした。
その顔を見ていたら、急に腹の虫が鳴く。
何も言わずに食器棚から丼を取り出し、俺は鍋の中身を移した。
まだ熱いそれをテーブルに運んで、いただきますと手を合わす。
くたくたに茹で上がったうどんを、箸でつまみ上げるのは至難の業だった。
それでも辛抱強く麺をつまんで、口に運んだ。
「……うまい」
俺は、思わずそう呟いていた。
そこからは、まるで何日も食べてなかったみたいにうどんをかき込んだ。
「ねえ、気持ち悪かったんじゃないの?」
「うん……だけど、これは食べられる」
最後には、丼を持ってつゆまで飲み干してしまう。
梅ちゃんは、いつもよりもっとぽかんとした顔をしてそんな俺を見ている。
俺は食べ終わった丼を流しに運ぶと、その足で戸棚から救急箱を持ってくる。
まだぽかんとした梅ちゃんの手を取ると、その細くて小さな指に絆創膏を巻いた。
「ありがとう」
絆創膏の巻かれた指を見て、梅ちゃんはいつもみたいににかっと笑った。
俺はちょっと恥ずかしくなって、そっぽを向く。
そして、小さな声で言った。
「うどん、うまかった」
「ありがとう、梅ちゃん」
*****
大人になった今も、空の丼を前に満足している自分がいる。
病気の時はこのうどんと決めていて、あれ以来何度かリクエストして作ってもらっている。
適当にやるもんだから、その度に味が違うんだけど。
俺の前から丼の盆を下げて、梅ちゃんはひとりで笑っている。
「何?」
「ううん、何でもない」
「ただね、わたし、未だにちゃんと生姜もすれないんだなって思って」
天井の照明に透かすようにして、梅ちゃんは傷の付いた指を見ている。
俺は手を伸ばして梅ちゃんの腕を掴み、ベッドの際に座らせた。
「本当にしょうがない人だな、俺の奥さんは」
「あ、今のオヤジギャグでしょ?」
「違うよ」
ぽつりと呟くと、今日はまだ絆創膏を貼っていないその指に、ぺたっと舌を当てた。
熱のせいで舌も熱いのか、彼女の指が冷たく感じられる。
「ハル、ベロが熱い」
「うん」
互いの視線が重なり、梅ちゃんの顔が近付いて来る。
あれ、いつぶりだったっけっていうくらい、久しぶりのキス。
何も、今やらなくてもよかったな……。
「風邪、うつるよ」
「じゃあ、次はハルが看病してね」
ふふふ、と、梅ちゃんは笑う。
ずいぶんと、女性らしい笑い方をするようになったもんだ。
何だかこのままじゃ終われない気がして、俺は梅ちゃんの鎖骨に鼻面をこすりつける。
そのまま、シャツの裾から手を入れて、生身の彼女に触れてみる。
「梅ちゃん、冷たくて気持ちいい」
「ハルが熱いからだよ」
俺たちの声は、静かだった。
えーと、もしかしてこのままいけちゃう感じ?
何も難しいこと考えずに、先に進めそうな気がする。
熱あるけど、ちゃんと出来るかな、俺……。
そんなことを考えていたら、梅ちゃんが俺の両手を引っぺがした。
ベッドから立ち上がり、腰に両手を当てている。
「病気の獣は、さっさと寝なさい」
「熱が上がるよ」
「ふぁーい」
俺の淡い希望は、不発に終わった。
梅ちゃんは、ちょっと上にたくし上がったシャツの裾をさっと直した。
「そういえば」
再び布団に潜り込んだ俺に、梅ちゃんは昼間会社で読んだという雑誌の話をした。
男を掴むには胃袋を掴むだとか、そういう記事だったらしい。
「それがどうかしたの?」
「えーと、ハルはそうでもないよねと思って」
「だって、わたしが食べるの専門だもん」
「堂々と言うんじゃないよ」
「でも、このうどんに関しては胃袋掴まれてるかな……」
「そうなの?」
「うん、他の料理は割と不味いけどね」
「ちょっと、何それ……」
梅ちゃんは、本当に料理のセンスがない。
カレーだって、全然美味しく作れないんだから。
思うに、胃袋を掴まれるっていうのは料理の数じゃないんだ。
ここぞって時にひとつあればいいと、俺は思っている。
「梅ちゃんは、俺に胃袋掴まれてるからいいんじゃない?」
「わざわざ俺のを掴まなくても」
俺がそう言うと、彼女はとても納得したようだった。
そうだねーと、いつもの顔で笑いながら。
今回も、読んでいただきありがとうございました。
ブクマしていただいた方にも感謝です!
次回作も、どうぞよろしくお願いいたします。
エタミケイ