ハルとわたし③
同僚の部屋に連れ込まれた梅子を、助けに来たのは……。
ピンポーーン。
間延びした、インターホンの音。
「チッ」
三上くんは舌打ちをすると、インターホンのモニターに近付いた。
そこに誰が映っているのか、ここからはよく見えない。
三上くんは、モニターを消した。
出るつもりはないみたい。
その様子を、わたしは顔を覆った手の間から見ていた。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
わたしの方へ戻ろうとした三上くんの背中に、インターホンの音が降りかかる。
「クソッ、何だってんだ」
いつもの彼らしからぬ様子で、三上くんは玄関ドアに向かって歩いていく。
このままインターホンが鳴り続けたら、近所に怪しまれると思ったのかもしれない。
ガチャガチャ。
三上くんは、用心してドアチェーンをかけたのだろう。
わたしは音でそれを想像する。
鍵を開ける音がそれに続き、やがてドアが開かれた。
ベッドの置いてある部屋と玄関は、ドアで仕切られている。
三上くんは、そのドアを半開きにしていた。
玄関での声が、こちらまで届く。
「何すか?」
三上くんの声。
すごく迷惑そうな声だ。
次に聞こえた声を聞いて、わたしは驚いた。
「遅くにすみません」
「こちらに、弥生梅子がお邪魔していませんか?」
この声。
まさか……。
「ハルッ!」
ベッドから何とか体を起こして、わたしは叫んだ。
玄関に続くドアの向こうが、一瞬静まり返る。
「てめっ、何すんだ!」
三上くんが何か言ってる。
ドアが、ガチャガチャいう音もする。
まだふらつく足を何とか床に立たせ、わたしはドアに向かう。
でもすぐに足がもつれて、バタンと大きな音を立てて倒れてしまう。
開いたドアに体がぶつかって、わたしはそのまま廊下に躍り出る。
「梅ちゃん!」
倒れたわたしを見たハルも叫んだ。
三上くんがハルを押しのけてドアを閉めようとしている。
しかし、彼にそうすることは出来なかった。
バギッという音がして、三上くんが玄関にへたり込むのが見えた。
ハルが力任せにこじ開けたらしいドアは、片方の蝶番が歪んで外れて、変な格好でくっ付いている。
それを開けて、ハルが部屋に入ってくる。
「梅ちゃん、大丈夫?」
土足のまま、ハルはわたしの傍までやってくる。
カーキ色の上着を羽織って、下に着たパーカーのフードを深く被っている。
ブラジャーが丸見えになってるわたしを見て、すぐに自分の上着を被せてくれた。
ハルの温かさが残る、大きなジャケット。
「ハルぅ、ご、ごめーん……」
ハルを見て、涙が溢れてくる。
しがみつくわたしを、ハルは何も言わずにぎゅっと抱き締めてくれる。
これでもう安心だと、体から力が抜けていくみたい。
安心したのも束の間、わたしは迫ってくる三上くんをハルの肩越しに見つける。
玄関に置いてあったのか、手には金属製のバットを持っている。
殺気を感じたのか、ハルはわたしをかばうように咄嗟に体を捻った。
バットは、ハルの右肩に当たる。
鈍い音。
「誰だ、てめぇ……」
「弥生の知り合いか知らねえけど、不法侵入だぜ?」
三上くんはハアハア言いながら、バットを手にしていた。
綺麗にセットされていた髪も、今は乱れている。
再び、バットを大きく振りかぶる。
ハルはわたしを抱き上げて、ドアの奥にさっと飛び込んだ。
三上くんのバットは、さっきまでハルがいた場所を打ち付ける。
床が窪んだのが見えた。
ハルはわたしをベッドに下ろすと、三上くんに向き合った。
ハルの肩は、静かに上下している。
ハルは、きっと怒っている。
それも、かなり。
「ヒーローのつもりか? あ?」
三上くんが、バットを振りかぶったままハルに向かってくる。
ハルは突っ立たままだ。
ヒュッと音がして、振り下ろされる金属バット。
その衝撃をうまく殺して、ハルがそれを握る。
握ったまま、ぐるっと捻りあげた。
バットを握った三上くんの腕もねじれるように曲がり、彼は呻き声を上げて手を離した。
ハルは、手にしたバットを静かに床に置く。
そのとき、ベッドサイドに置かれた三上くんのスマホが、その視界に入ったみたいだった。
それを手に取ったハルは、ちらりとわたしのことを見た。
「梅ちゃん、変な写真撮られた?」
わたしはハルのジャケットの前を合わせ、小さな声で頷く。
ハルは、長いため息を吐く。
そして静かに口を開けると、その中にスマホを放り込んだ。
おとぎ話の挿絵によく出てくる、牙のずらりと並んだオオカミの口へ。
それを目の前で見ていた三上くんは、唖然としていた。
グシャッ、バリッという音をさせて、ハルはスマホを噛み砕いているみたいだった。
しばらくして無造作に床に吐き出されたそれは、もう原型を留めていなかった。
口を拭うと、ハルは三上くんの前に立つ。
彼は震えて座り込み、目の前のハルを見上げることも出来ないみたいだった。
ハルはしゃがみ込むと、三上くんのシャツの襟を掴む。
そしてそのまま、彼を持ち上げた。
三上くんは、声も出さずにただ暴れていた。
その時振り回した手が、ハルのフードをかすめた。
フードが外れ、そこからオオカミの顔が現れる。
「!?」
驚きすぎて、三上くんは声も出せないみたいだった。
バタバタと暴れることすら、忘れてしまったみたいに見えた。
彼の襟首を掴んだまま、ハルはその顔をぐっと近付ける。
「もし、今後またこんなことがあるようなら」
ハルはわざと牙を剥き出して言う。
三上くんの歯が、ガチガチと鳴る音が聞こえてくる。
「次は、俺の腹の中に収まってもらうよ?」
「丸飲みにしてやるからな」
押し殺した声でそう言われても、三上くんは何も答えない。
彼は既に気を失って、だらんと脱力していた。
*
三上くんのマンションの駐輪場に、ハルのバイクは停めてあった。
わたしは今、あの寝坊した日みたいにハルの背中にしがみついている。
「わたしのこと、どうやって見つけ出したの?」
「ええ? 何て?」
「だーかーらー」
バイクは信号待ちで停車した。
うるさいエンジン音が、少し和らぐ。
「もちろん、匂いをたどってだよ」
「メッセージを受け取ってから、どうも嫌な予感が消えなくて」
ハルはオオカミなので、人間より嗅覚は鋭い。
でも、人間世界での生活に慣れて、そういう能力はずいぶん退化してしまっていると思う。
そんな中で匂いをたどってわたしを見つけたなんて、奇跡的じゃない?
「……ハル、ごめんね」
「うん?」
「昨日は、あんなこと言っちゃって」
再びバイクは走り出したバイクの上で、わたしはハルの背中に呟いた。
ハルは、しばらく黙っている。
「まあ、俺もあれこれ言い過ぎたかな」
「ちょっと干渉しすぎだったかも」
困ったように、ハルは笑う。
「じゃあ、もう許してくれる?」
「許してくれるも何も、怒っちゃいないよ」
「そっか」
ハルは、別に怒ってたわけじゃなかったんだ。
わたしは安心して、彼の背中に顔を押し付けた。
「何にしても、早くうちに帰りたいよ」
「口をゆすぎたい」
ヘルメットの下で、ハルがぼやいている。
「何で?」
「スマホ」
「まだ細かい破片が口に残ってる……」
三上くんを脅すためでもあっただろうけど、ハルがわたしのためにやってくれたこと。
それでもすごくおかしくなって、つい、声を出して笑ってしまった。
*****
「梅ちゃん!!」
月に何度かある、寝坊の日。
ハルは、またひとり慌ただしくわたしを急かす。
わたしはのんびりと、おにぎりを頬張る。
「あー、また今日もダメじゃん!」
「ほら、送っていくからメット被って!」
「えー、まだおにぎり食べてるのに……」
ワアワア言うハルに対して、自分のことなのにのんびりしているわたし。
タローくん、千明ちゃん、モッコさんが、それを呆れた様子で眺めている。
「被ったな、よし!」
「って、おい!」
ヘルメットを被ったわたしを見たハルは、何かに気が付く。
「まあたご飯粒付けてんじゃんか! 小学生かよ!」
わたしの口の端に付いていたらしいご飯粒を、彼はパクッと食べてしまう。
何も特別ではない、わたしたちのいつもの風景。
それが妙に楽しくて、わたしはありったけの笑顔を見せる。
「何を笑ってんだ、何を」
「本当に危機感がない!!」
しかし、ハルの怒りは収まらない。
梅子スマイルは、不発に終わってしまった。