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笹川氏の提案⑥

結婚を断る話し合いをしに、笹川邸を訪れた梅子とハル。

そこで母の千恵子とも対峙し、ハルはある提案をする……。

タクシーから降りたわたしは、思わず立ち尽くした。

ホテル業界でその名を馳せる笹川さんの実家は、やっぱり豪邸だった。


純和風の平屋建て。

敷地面積は、ななし荘よりずっと広い。


「やあ、いらっしゃい」


あらかじめ電話して知らせておいたので、笹川さんが迎えに出て来てくれた。

Tシャツにジーンズというラフな格好だったけど、とても上品に見える。


「あの、今日はありがとうございました」

「それで、こっちがお話しした」


わたしの後ろに立っていたハルを、笹川さんに紹介する。

心持ちうつむいていたハルは、笹川さんの前でぐっと顔を上げた。


「これは、また……」


自分を真っすぐに見るオオカミと対面して、笹川さんもさすがに面食らったみたいだった。

前もって知らせておいたとはいえ、その程度のびっくりで済んでるのもすごいけど。


「初めまして」

「弥生ハルといいます」

「この度は、梅子がお世話になりまして」


梅子。

ハルにそんな風に呼ばれるのは初めてだった。

こんな状況では梅ちゃんって呼ぶわけにもいかないけど、ちょっとくすぐったかった。


「それ、マスクじゃないんだね?」

「弥生さんの言ったことは、本当だったのか……」


間近でハルをまじまじと見て、笹川さんは独り言のように呟いている。

笹川さんはクリアしたとして、彼のお母さんがどう反応するのか心配だった。


「実は、母にはきみがオオカミだってことを伝えてないんだ」

「同行者がいるってことしかね」


笹川さんは腕を組んで言う。

突然現れたハルを見て、お母さんは大丈夫かな……。

驚いて、ひっくり返ったりしないかな。


「まあ、心配はいらないよ」

「うちの母は、けっこう肝が太いんだ」

「さあ、入って入って」


気さくに招かれて、わたしたちは笹川邸へと足を踏み入れた。



通された客間で、わたしたちは笹川さんのお母さんを待っていた。

お手伝いさんが出してくれた緑茶が、テーブルの上でかぐわしい香りの湯気をくゆらせている。


わたしは身の置き所がない気がして、何度かハルの横顔を覗き見た。

ハルはきちんと正座をして、ただずっと前を見ている。


「やあ、待たせて悪かったね」


そう声を掛けて入って来たのは、笹川さんだった。

その後ろに続き、誰かが入って来る。


それが、笹川さんのお母さんだった。

戸籍上では、わたしはこの人の妹に当たる。


彼のお母さんは、凛とした佇まいだった。

60前後に見えたけど、綺麗に年を重ねた印象を受けた。

和服を着こなす彼女は、厳しそうな雰囲気を醸し出している。


「清隆の母の、千恵子(ちえこ)です」

「本日はわざわざ足を運んでいただき、誠にありがとうございます」


お母さんは丁寧に、しかし威厳たっぷりに頭を下げる。

その様子に、わたしはすっかり委縮してしまう。

次に顔を上げた彼女は、にこりとも笑っていなかった。


「あなたが、梅子さん?」

「は、はい」


言葉は悪いかもしれないけど、千恵子さんは蛇みたいな感じだった。

そして、わたしはまたネズミ。

蛇に睨まれて、もう動けない。


「笹川梅子、私の妹でもあるのよね」


彼女の言葉は、淡々としていた。

わたしは、何て答えればいいのか分からない。


喉はどんどん乾いていく。

でも、とてもじゃないけど出されたお茶を飲むことなんか出来ない。


「それで、今日はどのようなお話です?」

「清隆との結婚の話かしら」


何か答えようと顔を上げたけど、喉がかすれてすぐには声が出ない。

そんなわたしの横から、ハルが割って入った。


「弥生ハルと申します」

「そのことに関しては、俺からお話ししたいと思います」


ハルに見つめられても、千恵子さんに動じる様子はなかった。

そういえば、部屋に入ってきた時からそうだった。


「あなたは、梅子さんとどういったご関係かしら」

「俺は、梅子と兄妹同然に育ちました」

「でも、血は繋がっていません」


「それで?」

「清隆と梅子さんのことについては、あなたはもう知っているのよね?」

「それで、一体どういったお話をされるつもりなのかしら」


そこで初めて、ハルは出されたお茶に口を付けた。

一口飲んで、湯飲みをゆっくりと置く。


「結論から言わせていただきます」

「梅子は、清隆さんとの結婚は望んでいません」


わたしたちの向かいに、お母さんと並んで座っている笹川さんの顔を見た。

さほど驚いている様子もない。

もしかして、こういう返事が来ることを予想していたのかな……。


「そうですか」


千恵子さんも、まったく動揺している感じはない。


「ということは、分かっていらっしゃるってことよね?」

「清隆の妻という形でなければ、私はこれ以上梅子さんの籍を笹川家に置くつもりはありません」


「それを承知の上で、そういったお返事をされるということよね?」

「はい、そう取っていただいて構いません」


ハルは淀みなく言うと、ほんの一瞬わたしを見た。

ずっと膝に置かれたままのわたしの手を、机の下でハルが握る。


「わたしも、そういうことで構いません」


ずっとうつむいて話を聞いていたわたしは、そこでやっと顔を上げた。

千恵子さんは、気難しそうで怖い。

でも、ハルが頑張ってくれてるのに、当のわたしがこんなんじゃダメだと思った。


「そう」

「そういうことなら、こちらはそれで構いません」

「ただ、戸籍がなくなるといろいろとご苦労されるでしょうね」


千恵子さんは、ふっと笑みを浮かべた。

美しい笑顔なのに、見てると冷や汗が出そうになった。


「それについては、こちらで考えがあります」


わたしの手に自分の手を重ねたまま、ハルは言う。

その目はわたしではなく、ずっと千恵子さんを見ている。

その様子はどこか、2匹の野生動物が睨み合っているようにも見えた。


「どういったお考えかしら?」

「よろしければ、聞かせていただける?」


口の端に笑みを残したまま、千恵子さんは続ける。

一体、どんな足掻きを見せてくれるのかしら?

そんな声が聞こえてきそうだった。


「梅子は、弥生家の戸籍に入れるつもりです」

「そちらに?」

「今度は、あなたの養子にでもなさるもおつもり?」


「いえ」

「梅子は、俺の妻という形で迎えようと思っています」


わたしは、びっくりした。

妻として迎えるってことは、つまり、わたしとハルが……。


そんな考えがあったとは全く予想もしてなくて、わたしはただ、ポカンとするしかなかった。

ハルはなおも続ける。


「どういう考えがあって、母と祖母が梅子をこちらにお願いしたのかは分かりません」

「2人とも既に他界していますので、確認のしようもないです」


「ただ、きっと何か理由があったと思うんです」

「ほぼ同時期に生まれた俺と、兄妹にはしない方がいいと考えた理由が」


そう、それはもう、誰にも分からない。

わたしの名前をここに預けた人たちは、受け入れてくれたおじいちゃんも含めてもうこの世にはいない。


「だから今日はそのお許しをいただきたくて、無理を言って同行しました」

「お許しって、何のことかしら?」


少し顎を上げるようにし、千恵子さんがハルに聞く。

ハルは座っていた座布団から腰を浮かすと、その横に正座をし直す。


「長い間面倒を見ていただいた笹川梅子を、弥生家に迎えることへのお許しです」

「梅子さんを、俺に下さい」

「お願いします」


ハルは両手を突くと、そのまま深々と頭を下げた。

額は、あと少しで畳に着きそうな位置にある。


まるで、結婚の挨拶に行くみたい。

そう思ったわたしの想像は、ある意味では外れてはいなかった。


ただ、ハルがここまで考えてくれているとはまったく思わなかった。

彼は今、わたしのために頭を下げている。

わたしのために。


「わたしからも、お願いします」

「弥生のうちに入るのを、許してください」


わたしも、すぐにハルと同じように頭を下げた。


「頭を上げてよ」


そう言ったのは、笹川さんだった。

ここへ来てようやく口を開いた彼は、相変わらず穏やかな顔をしていた。


「こう言うと負け惜しみに聞こえると思うけれど」

「俺は、弥生さんとそこまで結婚したかったわけじゃない」

「もちろん、その相手になる可能性は十分にあったと思う」


ハルとわたしは顔を上げて、今は笹川さんの話を聞いている。


「母から養子の叔母がいると聞いた時、そしてそれがきみだと知った時は、やはりショックではあった」

「名前だけ我が家に置いている、そんな人間がいるんだってことにね」


「でも、元を質せば、それはうちのじいさんが決めてやったことで」

「俺や母さんはもちろんのこと、きっときみたちにだって考えも及ばないことだったんだと思った」

「俺と弥生さんが出会って、こんな騒動になるなんて」


笹川さんは続ける。

千恵子さんは、口を挟むことなく黙って聞いている。


「ただ、今のままではもうやっていけないのは分かってくれるね?」

「俺たちはお互いに相手が誰なのかを知ってしまったし、それをなかったことにして今まで通りってわけにはいかない」


「母の考え通り、弥生さんの籍はうちから抜かせてもらう」

「でもその後は、俺の知るところじゃない」


「彼女が無戸籍のまま社会を彷徨うようになろうが、幼馴染の男の妻になろうが」

「きみたちの、好きにすればいい」


「……おまえは、それでいいのね?」

「だったら、私があれこれと口を出す話ではないわね」


笹川さんの話に、千恵子さんが同意する形になった。

わたしたちの話し合いは、それであっけなくお開きになった。


「弥生さん、ちょっといいかな」


千恵子さんが既に退席して、わたしたちも帰り支度をしようとしていた時だった。

笹川さんに呼ばれて、わたしたちは2人だけで庭に出た。

豪邸に相応しい、立派な日本庭園。


「あの、本当にすみませんでした」

「わたしのことで、みなさんを巻き込んでしまって」


わたしは、やっぱり謝らずにはいられない。

笹川さんはおじいちゃんが勝手にやったことだって言ったけど、わたしがそれに乗っかるわけにはいかない気がした。


「きみから電話をもらったとき、何となくこういう結果になる気がしていたんだ」

「きみは俺と結婚せず、うちから籍を抜かれても困らないって結果に」


笹川さんは、わたしの少し先に立っている。


「きみがうちに籍を置くことになった経緯を考えていて、いろいろ思い出したことがあってね」

「え?」


「俺が、まだ10歳くらいのときだったか……珍しく爺さんを訪ねたことがあった」

「俺の母は爺さんと仲が良くなくてね」

「遊びに行ったことは、あまりなかったんだけど」


笹川さんは縁側に腰を下ろし、その隣にわたしを誘った。


「爺さんちの門をくぐろうとした時、小さな女の子とすれ違った」

「彼女は、お婆さんらしき人と手を繋いで、とても楽しそうだった」


「俺が部屋に入ると家政婦がテーブルを片付けているところで、そこには、ジュースが底に残ったグラスがあって……」

「部屋の外にある縁側に、爺さんがぽつんと座ってた」


「さっきの子は誰かって俺が聞くと、爺さんは答えた」

「自分の初恋の人の、大切な孫だって」

「爺さんがそんなこと言ったのは、後にも先にもその時だけだったな」


笹川さんの話を聞いて、わたしも思い出すことがあった。

初めておじいちゃんに会いに行ったとき、帰り際に誰かとすれ違った覚えがある。

あれは、もしかして。


「あれは、今思えば弥生さんだったのか」

「わたしも、思い出しました」


あの日、おばあちゃんに言われたっけ。

あのおじいさんは、おまえのお父さんになってくれたんだよって。

その意味が、その時はまだ分からなかった。


「何てことはない」

「爺さんは、初恋の人の前でいい所を見せたくて、きみを養女にしたってわけさ」

「ただそれだけのために、きみをうちに招き入れた」


「たった、それだけのことなんだ、きっと」

「複雑なことは、何もなかった」


笹川さんは、穏やかな顔で笑っている。

もし、わたしにハルという存在がなかったら……。

もしかしたらわたしは、この人とこうして年を取っていきたいと思ったかもしれない。


「だから、今回の件があっさりと片付いたとしても、別に不思議なことはないと思っている」

「きみも、そう思えばいい」


笹川さんは立ち上がると、ハルの待つ部屋を目で示した。


「さあ、お待ちかねだよ」

「こんな結果になってしまったけど、きみと過ごせて楽しかった」


彼はそう言うと、静かにわたしの背中を押した。

わたしはただ、何も言えずに笹川さんを振り返るだけだった。



「梅ちゃん、ねこねこ堂寄ってかない?」

「何か甘いもの食べたいんだ」


帰りのタクシーの中で、突然ハルがそう言った。

わたしは、いいねと応じる。


「ハル、本当にありがとう」

「うん」


ハルは窮屈そうに首をねじると、ネクタイを外してシャツのボタンを1つ2つと外した。

脱いだ上着を横に置いて、ずるずると座席の上で伸びる。


「いやー、しかし怖かったな、笹川さんとこのお母さん」

「俺、もう少しで死ぬとこだったわ」


「そうは見えなかったけど?」

「ハル、すごく堂々としてた」


「気ぃ張ってただけだよ」

「だから、もうライフゼロだしね」


だらしなく座席に体を預けて、ハルは力なく笑った。

わたしは、本当に苦労を掛けたみたい。


「梅ちゃん」

「何?」


「明日……は日曜日だから、明後日か」

「いや、準備があるから火曜日」

「何がなの?」


「婚姻届けもらっておくから、一緒に出しに行こう」

「あ、うん」


そうだ、そういう話だった。

わたしは、ずっと隣にいてくれたこのオオカミの奥さんになるんだった。


「ハルは、それで良かったの?」

「今更そういうこと言わないでよ」

「ごめん」


タクシーは走る。

火曜日には夫婦になる、わたしとハルを乗せて。

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