笹川氏の提案⑥
結婚を断る話し合いをしに、笹川邸を訪れた梅子とハル。
そこで母の千恵子とも対峙し、ハルはある提案をする……。
タクシーから降りたわたしは、思わず立ち尽くした。
ホテル業界でその名を馳せる笹川さんの実家は、やっぱり豪邸だった。
純和風の平屋建て。
敷地面積は、ななし荘よりずっと広い。
「やあ、いらっしゃい」
あらかじめ電話して知らせておいたので、笹川さんが迎えに出て来てくれた。
Tシャツにジーンズというラフな格好だったけど、とても上品に見える。
「あの、今日はありがとうございました」
「それで、こっちがお話しした」
わたしの後ろに立っていたハルを、笹川さんに紹介する。
心持ちうつむいていたハルは、笹川さんの前でぐっと顔を上げた。
「これは、また……」
自分を真っすぐに見るオオカミと対面して、笹川さんもさすがに面食らったみたいだった。
前もって知らせておいたとはいえ、その程度のびっくりで済んでるのもすごいけど。
「初めまして」
「弥生ハルといいます」
「この度は、梅子がお世話になりまして」
梅子。
ハルにそんな風に呼ばれるのは初めてだった。
こんな状況では梅ちゃんって呼ぶわけにもいかないけど、ちょっとくすぐったかった。
「それ、マスクじゃないんだね?」
「弥生さんの言ったことは、本当だったのか……」
間近でハルをまじまじと見て、笹川さんは独り言のように呟いている。
笹川さんはクリアしたとして、彼のお母さんがどう反応するのか心配だった。
「実は、母にはきみがオオカミだってことを伝えてないんだ」
「同行者がいるってことしかね」
笹川さんは腕を組んで言う。
突然現れたハルを見て、お母さんは大丈夫かな……。
驚いて、ひっくり返ったりしないかな。
「まあ、心配はいらないよ」
「うちの母は、けっこう肝が太いんだ」
「さあ、入って入って」
気さくに招かれて、わたしたちは笹川邸へと足を踏み入れた。
*
通された客間で、わたしたちは笹川さんのお母さんを待っていた。
お手伝いさんが出してくれた緑茶が、テーブルの上でかぐわしい香りの湯気をくゆらせている。
わたしは身の置き所がない気がして、何度かハルの横顔を覗き見た。
ハルはきちんと正座をして、ただずっと前を見ている。
「やあ、待たせて悪かったね」
そう声を掛けて入って来たのは、笹川さんだった。
その後ろに続き、誰かが入って来る。
それが、笹川さんのお母さんだった。
戸籍上では、わたしはこの人の妹に当たる。
彼のお母さんは、凛とした佇まいだった。
60前後に見えたけど、綺麗に年を重ねた印象を受けた。
和服を着こなす彼女は、厳しそうな雰囲気を醸し出している。
「清隆の母の、千恵子です」
「本日はわざわざ足を運んでいただき、誠にありがとうございます」
お母さんは丁寧に、しかし威厳たっぷりに頭を下げる。
その様子に、わたしはすっかり委縮してしまう。
次に顔を上げた彼女は、にこりとも笑っていなかった。
「あなたが、梅子さん?」
「は、はい」
言葉は悪いかもしれないけど、千恵子さんは蛇みたいな感じだった。
そして、わたしはまたネズミ。
蛇に睨まれて、もう動けない。
「笹川梅子、私の妹でもあるのよね」
彼女の言葉は、淡々としていた。
わたしは、何て答えればいいのか分からない。
喉はどんどん乾いていく。
でも、とてもじゃないけど出されたお茶を飲むことなんか出来ない。
「それで、今日はどのようなお話です?」
「清隆との結婚の話かしら」
何か答えようと顔を上げたけど、喉がかすれてすぐには声が出ない。
そんなわたしの横から、ハルが割って入った。
「弥生ハルと申します」
「そのことに関しては、俺からお話ししたいと思います」
ハルに見つめられても、千恵子さんに動じる様子はなかった。
そういえば、部屋に入ってきた時からそうだった。
「あなたは、梅子さんとどういったご関係かしら」
「俺は、梅子と兄妹同然に育ちました」
「でも、血は繋がっていません」
「それで?」
「清隆と梅子さんのことについては、あなたはもう知っているのよね?」
「それで、一体どういったお話をされるつもりなのかしら」
そこで初めて、ハルは出されたお茶に口を付けた。
一口飲んで、湯飲みをゆっくりと置く。
「結論から言わせていただきます」
「梅子は、清隆さんとの結婚は望んでいません」
わたしたちの向かいに、お母さんと並んで座っている笹川さんの顔を見た。
さほど驚いている様子もない。
もしかして、こういう返事が来ることを予想していたのかな……。
「そうですか」
千恵子さんも、まったく動揺している感じはない。
「ということは、分かっていらっしゃるってことよね?」
「清隆の妻という形でなければ、私はこれ以上梅子さんの籍を笹川家に置くつもりはありません」
「それを承知の上で、そういったお返事をされるということよね?」
「はい、そう取っていただいて構いません」
ハルは淀みなく言うと、ほんの一瞬わたしを見た。
ずっと膝に置かれたままのわたしの手を、机の下でハルが握る。
「わたしも、そういうことで構いません」
ずっとうつむいて話を聞いていたわたしは、そこでやっと顔を上げた。
千恵子さんは、気難しそうで怖い。
でも、ハルが頑張ってくれてるのに、当のわたしがこんなんじゃダメだと思った。
「そう」
「そういうことなら、こちらはそれで構いません」
「ただ、戸籍がなくなるといろいろとご苦労されるでしょうね」
千恵子さんは、ふっと笑みを浮かべた。
美しい笑顔なのに、見てると冷や汗が出そうになった。
「それについては、こちらで考えがあります」
わたしの手に自分の手を重ねたまま、ハルは言う。
その目はわたしではなく、ずっと千恵子さんを見ている。
その様子はどこか、2匹の野生動物が睨み合っているようにも見えた。
「どういったお考えかしら?」
「よろしければ、聞かせていただける?」
口の端に笑みを残したまま、千恵子さんは続ける。
一体、どんな足掻きを見せてくれるのかしら?
そんな声が聞こえてきそうだった。
「梅子は、弥生家の戸籍に入れるつもりです」
「そちらに?」
「今度は、あなたの養子にでもなさるもおつもり?」
「いえ」
「梅子は、俺の妻という形で迎えようと思っています」
わたしは、びっくりした。
妻として迎えるってことは、つまり、わたしとハルが……。
そんな考えがあったとは全く予想もしてなくて、わたしはただ、ポカンとするしかなかった。
ハルはなおも続ける。
「どういう考えがあって、母と祖母が梅子をこちらにお願いしたのかは分かりません」
「2人とも既に他界していますので、確認のしようもないです」
「ただ、きっと何か理由があったと思うんです」
「ほぼ同時期に生まれた俺と、兄妹にはしない方がいいと考えた理由が」
そう、それはもう、誰にも分からない。
わたしの名前をここに預けた人たちは、受け入れてくれたおじいちゃんも含めてもうこの世にはいない。
「だから今日はそのお許しをいただきたくて、無理を言って同行しました」
「お許しって、何のことかしら?」
少し顎を上げるようにし、千恵子さんがハルに聞く。
ハルは座っていた座布団から腰を浮かすと、その横に正座をし直す。
「長い間面倒を見ていただいた笹川梅子を、弥生家に迎えることへのお許しです」
「梅子さんを、俺に下さい」
「お願いします」
ハルは両手を突くと、そのまま深々と頭を下げた。
額は、あと少しで畳に着きそうな位置にある。
まるで、結婚の挨拶に行くみたい。
そう思ったわたしの想像は、ある意味では外れてはいなかった。
ただ、ハルがここまで考えてくれているとはまったく思わなかった。
彼は今、わたしのために頭を下げている。
わたしのために。
「わたしからも、お願いします」
「弥生のうちに入るのを、許してください」
わたしも、すぐにハルと同じように頭を下げた。
「頭を上げてよ」
そう言ったのは、笹川さんだった。
ここへ来てようやく口を開いた彼は、相変わらず穏やかな顔をしていた。
「こう言うと負け惜しみに聞こえると思うけれど」
「俺は、弥生さんとそこまで結婚したかったわけじゃない」
「もちろん、その相手になる可能性は十分にあったと思う」
ハルとわたしは顔を上げて、今は笹川さんの話を聞いている。
「母から養子の叔母がいると聞いた時、そしてそれがきみだと知った時は、やはりショックではあった」
「名前だけ我が家に置いている、そんな人間がいるんだってことにね」
「でも、元を質せば、それはうちのじいさんが決めてやったことで」
「俺や母さんはもちろんのこと、きっときみたちにだって考えも及ばないことだったんだと思った」
「俺と弥生さんが出会って、こんな騒動になるなんて」
笹川さんは続ける。
千恵子さんは、口を挟むことなく黙って聞いている。
「ただ、今のままではもうやっていけないのは分かってくれるね?」
「俺たちはお互いに相手が誰なのかを知ってしまったし、それをなかったことにして今まで通りってわけにはいかない」
「母の考え通り、弥生さんの籍はうちから抜かせてもらう」
「でもその後は、俺の知るところじゃない」
「彼女が無戸籍のまま社会を彷徨うようになろうが、幼馴染の男の妻になろうが」
「きみたちの、好きにすればいい」
「……おまえは、それでいいのね?」
「だったら、私があれこれと口を出す話ではないわね」
笹川さんの話に、千恵子さんが同意する形になった。
わたしたちの話し合いは、それであっけなくお開きになった。
「弥生さん、ちょっといいかな」
千恵子さんが既に退席して、わたしたちも帰り支度をしようとしていた時だった。
笹川さんに呼ばれて、わたしたちは2人だけで庭に出た。
豪邸に相応しい、立派な日本庭園。
「あの、本当にすみませんでした」
「わたしのことで、みなさんを巻き込んでしまって」
わたしは、やっぱり謝らずにはいられない。
笹川さんはおじいちゃんが勝手にやったことだって言ったけど、わたしがそれに乗っかるわけにはいかない気がした。
「きみから電話をもらったとき、何となくこういう結果になる気がしていたんだ」
「きみは俺と結婚せず、うちから籍を抜かれても困らないって結果に」
笹川さんは、わたしの少し先に立っている。
「きみがうちに籍を置くことになった経緯を考えていて、いろいろ思い出したことがあってね」
「え?」
「俺が、まだ10歳くらいのときだったか……珍しく爺さんを訪ねたことがあった」
「俺の母は爺さんと仲が良くなくてね」
「遊びに行ったことは、あまりなかったんだけど」
笹川さんは縁側に腰を下ろし、その隣にわたしを誘った。
「爺さんちの門をくぐろうとした時、小さな女の子とすれ違った」
「彼女は、お婆さんらしき人と手を繋いで、とても楽しそうだった」
「俺が部屋に入ると家政婦がテーブルを片付けているところで、そこには、ジュースが底に残ったグラスがあって……」
「部屋の外にある縁側に、爺さんがぽつんと座ってた」
「さっきの子は誰かって俺が聞くと、爺さんは答えた」
「自分の初恋の人の、大切な孫だって」
「爺さんがそんなこと言ったのは、後にも先にもその時だけだったな」
笹川さんの話を聞いて、わたしも思い出すことがあった。
初めておじいちゃんに会いに行ったとき、帰り際に誰かとすれ違った覚えがある。
あれは、もしかして。
「あれは、今思えば弥生さんだったのか」
「わたしも、思い出しました」
あの日、おばあちゃんに言われたっけ。
あのおじいさんは、おまえのお父さんになってくれたんだよって。
その意味が、その時はまだ分からなかった。
「何てことはない」
「爺さんは、初恋の人の前でいい所を見せたくて、きみを養女にしたってわけさ」
「ただそれだけのために、きみをうちに招き入れた」
「たった、それだけのことなんだ、きっと」
「複雑なことは、何もなかった」
笹川さんは、穏やかな顔で笑っている。
もし、わたしにハルという存在がなかったら……。
もしかしたらわたしは、この人とこうして年を取っていきたいと思ったかもしれない。
「だから、今回の件があっさりと片付いたとしても、別に不思議なことはないと思っている」
「きみも、そう思えばいい」
笹川さんは立ち上がると、ハルの待つ部屋を目で示した。
「さあ、お待ちかねだよ」
「こんな結果になってしまったけど、きみと過ごせて楽しかった」
彼はそう言うと、静かにわたしの背中を押した。
わたしはただ、何も言えずに笹川さんを振り返るだけだった。
*
「梅ちゃん、ねこねこ堂寄ってかない?」
「何か甘いもの食べたいんだ」
帰りのタクシーの中で、突然ハルがそう言った。
わたしは、いいねと応じる。
「ハル、本当にありがとう」
「うん」
ハルは窮屈そうに首をねじると、ネクタイを外してシャツのボタンを1つ2つと外した。
脱いだ上着を横に置いて、ずるずると座席の上で伸びる。
「いやー、しかし怖かったな、笹川さんとこのお母さん」
「俺、もう少しで死ぬとこだったわ」
「そうは見えなかったけど?」
「ハル、すごく堂々としてた」
「気ぃ張ってただけだよ」
「だから、もうライフゼロだしね」
だらしなく座席に体を預けて、ハルは力なく笑った。
わたしは、本当に苦労を掛けたみたい。
「梅ちゃん」
「何?」
「明日……は日曜日だから、明後日か」
「いや、準備があるから火曜日」
「何がなの?」
「婚姻届けもらっておくから、一緒に出しに行こう」
「あ、うん」
そうだ、そういう話だった。
わたしは、ずっと隣にいてくれたこのオオカミの奥さんになるんだった。
「ハルは、それで良かったの?」
「今更そういうこと言わないでよ」
「ごめん」
タクシーは走る。
火曜日には夫婦になる、わたしとハルを乗せて。