笹川氏の提案⑤
笹川家から籍を抜かれる覚悟の上、結婚を断る決意をした梅子。
その話し合いに、ハルも一緒に行くと言い出して……。
ウグッていうハルの声で、わたしは目が覚めちゃった。
ぼーっとして隣を見ると、ハルが顔を押さえて唸っている。
どうやら、寝返りを打ったわたしの手がハルの顔を直撃したみたい。
「裏拳かよ……」
「ごめんー」
「でも、隣にいるのが悪いんじゃん」
ここ、俺の部屋だけど。
ハルは怖い顔をしてそう言う。
あらら、そうだっけ?
わたし、あれからすぐに寝ちゃったんだった。
2階に行くのも面倒で、玄関のすぐ横のハルの部屋に入ったまでは何となく覚えてる。
ちょっと休憩するだけって倒れ込んだのが、最後の記憶かな。
「あー、さすがに腹減ったな」
ベッドから起き上がったハルは、首を鳴らしながらあくびをした。
わたしも、布団からもそもそと這い出る。
「ハルも昨日、ご飯食べなかったの?」
「あんな大喧嘩した後じゃ食えないよ」
「梅ちゃんも腹減ったでしょ?」
「そうなの、昨日のお昼もちょっと残しちゃったし」
わたしはベッドに座ったままだった。
その傍らにハルが腰掛け、わたしの頭を撫でる。
「何が食べたい?」
「えーと……」
これは、リクエストが聞き届けられる数少ないチャンスに違いない!
そう思ったわたしは、インスピレーションに従った。
「水餃子!」
「却下!」
即答だった。
「今から作れるかよ、そんな面倒なもん」
「やっぱおにぎりだな」
「うん、そうしよう」
ハルは勝手に決めると、さっさと部屋を出て行った。
ハルって、わたしのことめっちゃ好きなんじゃなかった?
ちょっとくらい、考えてくれてもよかったんじゃない?
ねえ?
*
大量のおにぎりと、作り置きしてあったのカブの浅漬け。
そしてハルが冷蔵庫の余り物で作ったお味噌汁が、食卓に並んだ。
4つ目のおにぎりに手を伸ばしたわたしを見たハルは、まだ食べるの? って言いたそうだった。
そういうハルは、7個目じゃないの。
「わたし、笹川さんに話す」
「結婚は出来ないってこと」
かぶりついたおにぎりは、海苔がパリッとしていて美味しい。
中身は、鮭のほぐし身。
「籍は、多分抜かれちゃう」
「でも、仕方ないよ」
そう、仕方ない。
ここまで来たら、もうどうしようもない。
これからのことは、追々考えていくしかないと思ってる。
「そのことだけど」
ハルは味噌汁のお椀を置いた。
「俺も笹川さんと会って話をしたい」
「出来れば、彼のお母さんも一緒に」
そこまで言うと、今度は浅漬けの小鉢を手に取る。
櫛切りになったカブを箸でつまむ。
「戸籍のことだけど……俺に考えがある」
「信じて、任せてくれる?」
カブを口に入れてわたしを見たハルは、椅子から腰を浮かした。
向かいに座ったわたしの口元には、例によってご飯粒が付いていたみたい。
何も言わずにつまんだそれもパクッと口に入れると、ハルは黙ってしまった。
わたしの戸籍のことでハルがどんなことを考えているのか、わたしにはまるで分からなかった。
それでも、自分がこのまま何もない所へ放り出されることはないと思えて、安心はした。
*
『電話をもらえて嬉しいよ』
その晩、わたしは笹川さんに連絡を取った。
少し長めにコールしてから出た彼は、その言葉通り嬉しそうだった。
わたしが結婚を決意したとでも思ったのかもしれない。
「実は、今回のことで会ってお話をしたくて」
「出来れば、お母様も一緒に」
『母も? 分かった、話は通しておくよ』
「それで……」
「わたしの保護者というか、同居している兄のような者も一緒にお伺いしたいと思っているのですが」
ハルのことを何と言えばいいのか分からなくて、こんな表現になってしまった。
間違いってわけではないと思う。
笹川さんのお母さんが、うちの事情についてどこまで知っていたかは分からない。
養子縁組を頼みに行ったっていうおばあちゃんは、どこまで正直に話したんだろう。
迷ったけど、わたしはちゃんと話すことにした。
一緒に行くというハルが、一体何であるかってことを。
もちろん、笹川さんは冗談だと思ったみたいだった。
『へえ、オオカミだって?』
『そういう風貌ってことでいいかな? うん、そのつもりをしておくよ』
『じゃあ、こちらも予定を確認させてもらうから、近いうちに日程を調整しよう』
そういうことで、電話は終わった。
ここからどうなるかは、まったく予想が付かない。
結婚を拒否したわたしに対して、彼のお母さんがどんな反応をするかってこと。
一緒に行くハルが、どんな風に見られるかってこと。
そして、ハルが何を考えているかってことも……。
いつ行くことになるのかっていう、ヤキモキした気持ちは長くは続かなかった。
次の日の昼前には、笹川さんは日程についてのメッセージを送ってくれた。
そこから、今週の土曜日に笹川さんちにお邪魔することになった。
金曜日までは、長いようであっという間だった。
当日の朝、わたしたちはななし荘の庭でタクシーを待っていた。
ハルは、かなり久々に袖を通すだろうスーツを着ている。
わたしは、シックな紺のワンピースにした。
まるで、結婚の挨拶に行くカップルみたいだった。
実際のところ、わたしが笹川さんに結婚を申し込まれてるんだけどね。
その妙な感じが何だかおかしくて、わたしはつい笑ってしまう。
「呑気だなあ、梅ちゃんは」
「でも、その方がらしくていいよ」
窮屈そうにネクタイをいじりながら、ハルが言う。
そこに、電話で呼んだタクシーが滑り込んで来た。
結婚の挨拶に行く。
その考えは、あながち間違ってはいなかったみたい。