笹川氏の提案③
梅子とケンカをし、部屋に引きこもったハル。
彼女とのことを今一度考えなおしたくて、アルバムを開く。
そこに収まる写真を見ていたら、ハルはあることに気付いて……。
梅ちゃんから叩かれたのは、何も初めてってわけじゃない。
もっとずっと昔、子どもの時はよく取っ組み合いのケンカもした。
どちらからともなく手を出して、それがエスカレートする。
子ども同士のケンカでよくあることだ。
でも、今は違う。
同じように頬をぶたれても、何事もなかったように過ごすことは出来ない。
平手打ちをされたことは、別にそんなにショックじゃない。
そうされて、当然だったと思う。
それくらい、俺は梅ちゃんを傷付けたんだから。
梅ちゃんを傷付けたのは、笹川家の人間じゃなかった。
ずっと一緒に過ごしてきた、俺だったんだ。
俺とやり合って部屋に戻ってから、梅ちゃんは食事はもちろんのこと、風呂にも下りて来なかった。
俺も同じようなもので、みんなの食事だけ作ると部屋に引っ込んだ。
何をする気にもなれず、ベッドに伏せている。
その体を、自己嫌悪が包み込む。
そもそも、一体どうしてこんなことになってしまったんだろう。
今一度、俺は考えてみることにした。
アリスが俺と結婚したいって言い出して、それで梅ちゃんと話し合った。
そこまでは、きっと問題なかったと思う。
梅ちゃんは、俺がいなくなるのは嫌だと言ってくれた。
俺の隣に、いつもいたいんだとも。
嬉しかった。
俺は俺で、何が出来なくても梅ちゃんがいいと伝えた。
これだって、別に間違ってはなかったと思う。
そこに、偶然に笹川が現れた。
梅ちゃんが合コンに行ったせいもあるんだけど……。
あー、違う。
そういう話じゃないんだよな。
料理は、分からないことがあればレシピを見ればいい。
男と女の関係についても、そういうものがあればいいのに。
レシピ。
俺は起き上がって、本棚を見た。
自分で書き記したり切り抜いたりして作ったレシピ帳。
その隣には、アルバムがあった。
本棚からそれを取り出して、机で開いてみる。
最初の方はずいぶん開いていなかったので、ページ同士がくっ付いてしまっていた。
開くと、バリバリッという音をさせた。
アルバム1枚目の写真は、まだ赤ん坊だった頃の俺と梅ちゃん。
まるで、ペットの子犬と赤ちゃんが寝ているだけのように見える。
しばらくすると、アルバムの中の梅ちゃんは立ち上がり始める。
最初こそ横で犬のようにお座りをしていた俺も、次第に彼女の隣に立つようになった。
テーブルに着いて、何かを食べている。
手を繋いで、道を歩く。
公園でしゃがんで、何かを見ている。
時おり、母さんやばあちゃんが映り込む。
「あんたたちはいつも一緒ね」
「写真も撮りやすいし、アルバムの整理も助かるわ」
いつだったか、母さんがそんなことを言ってたっけ。
母さんがいなくなってからは、アルバムを引き継いだばあちゃんが同じようなことを言っていた。
小学校の入学式の日、庭の桜の前で撮った写真。
大きな口で、梅ちゃんがニカッと笑ってる。
このときの彼女は上と下の歯が同時に抜けていて、本当に笑える顔だ。
夏に、アパートの庭にプールを出してもらったときの写真もある。
俺がこんなだから、大きなプールには出掛けることが出来なかった。
梅ちゃんは、それでも楽しそうにしている。
誕生日、大きなバースデーケーキ。
顔中をクリームだらけにして、笑ってる。
ケンカの時だろうか。
2人してべそをかいているときもあった。
母さん、ばあちゃん、俺と梅ちゃんの4人で撮った写真は、焼き増しして部屋にも飾ってある。
家族写真らしいものは、この1枚しかない。
中学の入学式は、また桜の前。
このときは、もうばあちゃんしかいない。
制服姿の俺たちと3人。
小さい時よりも写真の枚数が減って、あっという間に高校生。
恒例の、桜の前の記念写真。
ばあちゃんは、少しくたびれて見える。
千明さんと写った写真。
ななし荘をリフォームしたときの写真。
いつどこで撮ったか思い出せないような、そんな写真もあった。
最後に貼られた写真は、何気ない1枚だった。
一昨年くらいだったか、一緒にツーリングに行った時のものだ。
2人で草の上に寝転んで、自撮りした1枚。
全然特別な感じはなくて、むしろそれがよかった。
その中の梅ちゃんは、すごく楽しそうに笑ってる。
梅ちゃん。
俺が世界一幸せになって欲しい人。
そうだ、そうなんだ。
どうしてもっと、早くに気が付かなかったんだろう。
俺は、梅ちゃんに幸せになって欲しいだけなんだ。
アルバムを開いたのは気まぐれだったが、意味のないことではなかったみたいだ。
俺はそれを閉じて片付けると、時計を見た。
午前4時前。
外はまだ真っ暗だった。
一睡も出来てなかったけど、不思議と眠くはない。
誰かが、2階から下りてくる音がする。
歩き方からして、多分梅ちゃんだ。
その足音が食堂の方に向かうのを聞いて、俺も部屋を出る。
そこにいたのは、やっぱり梅ちゃんだった。
流しの電気だけの中、ひとりでぽつんとテーブルに着いている。
気配を感じたのか、梅ちゃんは振り返る。
その目には一瞬動揺が浮かんだ気がしたが、彼女はまた前を向いてしまう。
お互いに、何も言わなかった。
俺はコップにお茶を注いで、一気に飲んだ。
それからやっと、梅ちゃんに話し掛けた。
「ちょっと、付き合ってくれる?」
「暖かい格好しておいで」
梅ちゃんは何も言わなかったけど、理解はしてくれたみたいだった。
こくっと頷くと、準備のためか部屋に戻って行った。
俺は使ったコップを手早く洗って、かごに伏せる。
そして着替えをするため、自分も部屋に戻った。