笹川氏の提案②
笹川清隆と会った梅子から、ハルは結婚を迫られたことを聞かされる。
かっとなったハルは梅子と言い合いになって……。
梅ちゃんは、今日も笹川と出掛けたのだろう。
掃除機を掛けながら、俺は思う。
昨日俺の部屋で話し合いはしたけど、結局結論は何も出なかった。
梅ちゃんは、笹川ともう会わないとは言わなかった。
俺は俺で、はっきりと言わなかったのが悪い。
梅ちゃんが傷付くだの回りくどい言い方なんて止めて、他の男と付き合うのが嫌だと素直に言えばよかった。
掃除機のコードを巻き取っていた時、梅ちゃんが帰って来た。
もっと遅くなるのかと思っていたから、少し意外だった。
「もう帰って来たの?」
俺は、玄関で靴を脱ぐ彼女に声をかける。
梅ちゃんはうんとだけ言うと、すぐに2階へ上がってしまった。
それからの梅ちゃんの様子は、ずっとおかしかった。
昼食に作ったチャーハンも、半分くらいは残した。
こんなこと、いつもの彼女には絶対あり得ないことだ。
「どっか具合悪いの?」
「ううん、大丈夫」
「カフェでお茶したから、ちょっとお腹がいっぱいで」
彼女はそう取り繕ったが、きっとそうじゃない。
梅ちゃんは、始終ぼーっとしていた。
いつもそんな感じではあるけど、今日は中身がないような気がした。
彼女は何も話したがらない。
以前心配してあれこれ聞き過ぎたことがあったので、深く詮索するのは避けたかった。
この状態が続くようなら考えなければならないけど、今はひとまず様子を見ておこう。
そう思っていた矢先のことだった。
食卓の準備をしていた俺に、梅ちゃんが唐突に言った。
「笹川さんに、ばれちゃったの」
「わたしが、おじいちゃんの養子だってこと」
隣でそう言った梅ちゃんの言葉を聞いた時、俺は布巾でテーブルを拭いていた。
一瞬そのままで固まり、それからやっと彼女を見ることが出来た。
「バレた?」
「うん……」
梅ちゃんの様子がおかしかったのは、そのせいだったのか。
でも、まだその先があるような気がする。
「それで……笹川さんのお母さんが怒ってて、わたしを籍から抜くって言ってるらしいの」
梅ちゃんは、俺の顔を見ない。
その視線は、ずっと窓の外にある。
「籍を抜くって……」
いつかはこうなるとは思っていた。
他家の戸籍にいながら別人として生きているなんて、どう考えてもおかしい。
母さんやばあちゃんは、どうして梅ちゃんを弥生のうちに入れなかったのか。
そういうことをするなら、むしろ俺にじゃないのか?
母さんから生まれたとはいえ、何せ俺はオオカミなのだから。
「それでね……」
「うん……何?」
梅ちゃんはなかなか切り出さない。
その結ばれた唇を見てると、まるで体が言葉を発するのを拒否しているかのように見える。
「わたしが笹川さんと結婚したら、そういうことはしないって言うらしいの」
「あの人の奥さんになれば、わたしは妻という形で戸籍に載ることになるでしょ?」
そこで初めて、梅ちゃんは俺の顔を見た。
口には出さなかったけど、どうする? って顔をしている。
「け、結婚って」
「梅ちゃんは何て返事したの?」
「結婚しなきゃ籍を抜くだなんて、まるで脅しじゃないか」
俺は混乱しつつも、自分の中でふつふつと沸き始める感情を抑えることが出来ない。
「脅しとか、そういう感じじゃないの」
「少なくとも笹川さんは、そんな感じじゃなかった」
「そんな感じじゃないって?」
「じゃあ、梅ちゃんは何て答えたんだよ?」
俺は、つい食って掛かるように言ってしまう。
「まだ、返事してない」
「は? 何で!?」
今、俺は怒ってる。
はっきりと自分でも分かる。
そんな訳の分からない提案をしてきた笹川に対して。
そして、それを突っぱねなかった梅ちゃんに対しても。
「どう考えたっておかしいじゃんか!」
「何ですぐに断らなかったんだよ!」
俺は、手にしていた布巾をテーブルに叩き付ける。
珍しく声を荒げる俺に、梅ちゃんは困ったような顔をしていた。
「それとも、こういうこと?」
「結婚の提案されて、梅ちゃんは嬉しかったってこと?」
「だから、迷いはしても断れなかったってことかよ」
「違う!」
「嬉しかったとか、そんなんじゃないって」
「違わないだろ?」
「そんな気のない相手だったら、すぐに断ればいいだろ!?」
「だって、そんなすぐには決められなかったんだって!」
普段、俺たちがこんな言い合いをすることは滅多にない。
何かを言い合ったにしても、その内容はもっと馬鹿らしく軽いものが多い。
夕食の時間を前に、みんなが集まって来る。
それを気にも留めず、俺たちは続けた。
「はっきり言えばいいじゃないか」
「何を?」
「梅ちゃんは、笹川のことが好きなんだろ?」
「それは……」
「嫌いじゃないけど、好きっていう気持ちじゃないよ」
梅ちゃんが後ろめたそうに答えるのが、俺の勘に触る。
好きじゃないなら、じゃあ何で俺の顔を見ないんだよ。
「笑わせるよ」
「あの雨の日は全部嘘っぱちだったんじゃないかよ」
「違うって!」
「全部、全部ほんとの気持ちだもん!」
「じゃあ何で、こんな面倒なことになってるんだよ!」
「そもそも、合コンなんて行くのが悪かったんだろ?」
「う……それはそうだけど」
「分かってるよ」
「え?」
「あの時は本当に俺のこと必要だと思ってくれたんだろうけど……」
「いざ別に条件のいい男が現れたもんで、心が動いちゃったってやつだろ?」
俺が吐き捨てるように言ったのを聞いて、梅ちゃんはすごく傷付いたみたいだった。
今までに見せたこともないような、悲しい顔をしている。
「ひどいよ、そんなこと言うなんて」
「ハル、ひどい」
「ああそうだよ」
「所詮、俺はこんなやつだよ」
「だって、人間とは違うから」
「何で?」
「何で今、そんなこと言うわけ?」
梅ちゃんは声を震わせて言う。
俺は、今とんでもなくひどいやつになってる。
でももう、止められない。
「梅ちゃんは正しいよ」
「俺みたいなオオカミより、人間を選ぶんだか」
選ぶんだからな。
そう言い終わる前に、梅ちゃんの平手打ちが飛んだ。
あんな小さな手で、こんな衝撃を生み出せるのか。
はたかれた癖に、俺は呑気にそんなことを考えていた。
叩かれた方の頬に手を触れ、俺は梅ちゃんを見た。
梅ちゃんは目に涙を溜めて、とてつもなく怒っていた。
そう、未だかつてないほどとてつもなく。
何も言わずにくるっと向きを変えると、そのまま2階に上がって行ってしまった。
後には、どうしようもなく気まずい雰囲気だけが残された。