笹川氏の提案①
笹川清隆と会っていることをハルに知られた梅子は、彼と会うのを止めることにした。
別れを告げようと会ったその日、梅子は彼から驚くべきことを聞かされて……。
笹川さんと会い続けてることが、ハルにばれてしまった。
電話がかかってきた時に、スマホを落っことしてしまったからだ。
ああ、わたしって本当にドジ。
ハルの顔を覗いたとき、何だか悲しそうな顔をしていた気がする。
それが気になって、後から部屋を訪ねた。
ハルは、わたしが笹川さんと出掛けるのを、やっぱりよく思ってなかったみたい。
わたしは、亡くなったおじいちゃんの好意で籍を置かせてもらっている。
笹川さんと付き合う(彼氏彼女という意味でなくても)ことで、もし何か悪いことが起こったら?
そのときに傷付くのはきっとわたしだろうし、ハルはそれを心配してくれていた。
ハルと話し合った後、自分の部屋に戻って来てベッドに横になる。
そもそも、わたしはどうして笹川さんと会い続けているんだろう。
元々、誰か付き合う相手が欲しくて合コンに行ったわけじゃなかったはず。
わたしに好意を持ってくれる男の人を通して、ハルと自分の関係を見つめ直したかったんだよね。
今、それをやっと思い出す。
笹川さんは、とってもいい人だった。
食事に連れて行ってくれるお店はどこも美味しかったし、一緒に行った美術館も楽しかった。
わたしだってたまにはそういう場所に行きたいと思うけど、ひとりじゃつまらない。
でも、ハルは一緒に行けないもんね。
だから、誰かと一緒に外を歩くというのは、こんなにも楽しいものなのかって思った。
でも、それももう終わりにした方がいいんだろうね。
ハルが心配して嫌がってるのに、この関係を続ける意味ってないと思った。
『明日の土曜日、急に時間が出来たので会いませんか?』
さっきの電話で、明日彼と会うことになった。
ちょうどいい。
会うのは、きっと明日限り。
明日帰ってきたら、もう笹川さんと会わないよってハルを安心させてあげたい。
そう、別にわたしたちは付き合ってたわけじゃない。
急にもう会わないってことになったとしても、笹川さんは何とも思わないだろう。
*****
指定されたカフェに行くと、もう笹川さんが待っていた。
少し遅れたことを謝って、わたしは彼の向かいに座った。
まるで一流ホテルの中にあるような、おしゃれな雰囲気のカフェ。
何だかそわそわしてしまう。
笹川さんは慣れているのか、寛ぐ様子で椅子にもたれている。
「緊張してる?」
「え? あ、はい……少し」
「わたし、浮いてないかって心配で」
笹川さんは、メタルフレームの眼鏡の下で目を細めた。
どこか、笹原のおじいちゃんに似ている気がした。
「そんなことない」
「今日のワンピースも素敵だよ」
笹原さんは、こういうことをさらっと言ってくれる。
ハルだったら、褒めるまでにもっともごもご言いそうなんだけど。
ハルのことはさておき、わたしはいつ別れを切り出そうか迷っていた。
付き合ってもいないのに、別れるっていうのも変な気がするけど……。
でも、わたしの前に切り出してきたのは笹川さんだった。
「梅子さん、単刀直入に言うよ」
彼はそう言うと、真っすぐにわたしを見た。
わたしは、フクロウに睨まれたネズミみたいに身構えてしまう。
「きみには、笹川の名前があるね?」
「笹川梅子……笹川清志の養女」
一瞬にして、汗が噴き出す。
体中が、嫌な湿り気を帯びている。
どうして、分かってしまったんだろう。
「このことを知ったのは、つい2日くらい前のことでね」
「きみのことを、母に話したのがきっかけだった」
「うちは父が婿養子でね」
「母が、祖父の娘なんだ」
笹川さんのお母さん……。
わたしが養子に入ることに反対してたっていう、おじいちゃんの娘さん。
「きみの名前をつい口走ったのがいけなかった」
「母は、我が家の秘密について俺に話してくれたよ」
「弥生梅子という人間が、笹川の戸籍だけ借りて生きているってことを」
笹川さんは、いたって冷静だった。
それが、わたしにはとても怖かった。
ふと見れば、わたしは震えていた。
ももの上に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。
「きみは、知っていたんだろう?」
「俺が、きみの養父の孫ってことを」
「それを思うと、あの初対面での反応も納得出来る」
「はい……」
そう答えるのがやっとだった。
これは、きっと罰なんだと思う。
ハルの気持ちも、笹川さんのことも、自分勝手に考えていたわたしへの罰。
「すみません」
「本当にすみませんでした」
やっとそれだけ絞り出すと、わたしは顔を上げていられなくなった。
下げた視線の先には、テーブルの脚が映るばかり。
「梅子さん、顔を上げて」
「俺は何も、怒ってるわけじゃない」
彼の声は静かだった。
わたしは、言われたとおりに顔を上げる。
「変に追い詰めてしまって悪かった」
「ただ、俺も驚いているってことだけは分かって欲しい」
「はい……」
「正直なところ、うちの母はきみを嫌っている」
「当時の笹川家にきみを養女として迎える気はなかったようだけど、爺さんが勝手に決めたらしいね」
「そのことを、母は今でもとても怒っている」
「当然だと思います」
「わたし、養子にしてもらってからもずっと、弥生梅子として生活してきましたから」
「ただ、戸籍だけを使わせてもらって……自分勝手だと思います」
笹川さんは、コーヒーを一口飲んだ。
彼は、砂糖もミルクも入れない。
「俺がきみと会っていることを知って、母はたいそうご立腹でね」
「きみを、笹川の籍から抜くって言うんだ」
どこかで恐れていたことが現実になった。
籍を抜かれたら、わたしは無戸籍になる。
では、どうしてわたしは弥生の籍に入っていないのだろう。
捨て子だったにしても、ハルの兄妹として入れてくれてもよかったのに。
それを決めたお母さんとおばあちゃんはもういないので、聞きようもないけど。
「それをされたら、きみはきっと困ったことになるだろうね」
「分かりました、それならさっさと籍を抜いてください……きみは、そんな風に割り切れるタイプにも見えない」
わたしは喉が渇いていたけど、グラスの水にも手を付けられない。
ハルの心配が、現実になった。
わたしが笹川梅子でなくなると、きっとどこかでハルにも迷惑が掛かる。
「それで、だ」
「前置きが長くなってしまったけど、ここからが今日の本題だよ」
「え?」
「怒れる母上に、俺はある提案をした」
「それならと、彼女も納得してくれたみたいだったよ」
「きみを除籍するのを止めるらしい」
わたしは黙って、ただ笹川さんを見つめていた。
「ある提案というのは」
「きみが、俺の妻になること」
「笹川清隆の妻となって、正式にうちに入ること」
彼の口から出て言葉は、丸っきり予想してないものだった。
わたしが、笹川さんの奥さんに?
付き合ってもないのに?
「肩書こそ俺の叔母ということになっているけど、きみは養子だからね」
「結婚は、おそらく可能だろう」
「ただ、その過去は徹底的に隠し通されると思うけど」
そこまで一気に話すと、笹川さんはテーブルに肘をついて手を組んだ。
わたしがどういう反応をするのか、待っているように見える。
わたしは、急いでグラスの水を飲み干した。
そうでもしないと、心臓が口から飛び出しそうな気がする。
それくらい、どっくんどっくんと大きく動いている。
「返事は、すぐにとは言わない」
「ゆっくり考えるといいよ」
その言葉を最後に、まもなくわたしたちは解散した。
今までの人生で感じたことのない重苦しい気持ちを抱え、わたしはハルの待つななし荘へ帰って行った。