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アリス⑥

梅子は、ハルとアリスが行ってしまう夢を見た。

目覚めたアパートは、夢の中と同じように空っぽで……。

雨もキレイに止んで、わたしの涙も止まった頃。

わたしたちは、ようやく公園の土管から出て帰ることにした。


ななし荘に着くと、ハルは熱いお風呂を用意してくれた。

ゆっくり温まって出ると、食事もせずにそのまま寝てしまった。

自分に正直になると、すごく疲れるんだね……。



「梅ちゃん、ごめんね」

「え?」


ハルが、わたしに向き合って言う。

ごめんって、何のことだろう。


ハルの大きな手が、隣にいる誰かの手を取る。

わたしのじゃない。

ハルのよりは少し小さいけど、柔らかそうな毛に覆われた手。


「俺、やっぱりアリスと行くことにするよ」


しっかりと握られた手を見て、アリスさんは幸せそうに微笑む。

それを見て、ハルも微笑む。

今までは、ずっとわたしに向けられていたあの眼差し。


「俺は幸せになるから、梅ちゃんも幸せになるんだよ」

「今まで、ありがとう」


それだけ言うと、ハルはアリスさんの手を取ったまま踵を返す。

そのまま振り返らずに、さっさと行ってしまう。


あの雨の晩にわたしが言ったこと、あれは全部無駄になったんだ。

わたしは、どうしようもなく悲しくなる。


そんなことしたって意味ないって分かってるのに、つい両手を伸ばして追いかける。

行かないで、行かないで……。



伸ばした腕と、その先に天井の照明が見える。

見慣れた、自分の部屋の天井だった。


ベッドから体を起こして時計を見ると、もう昼前。

今日は日曜日だけど、1度くらいは必ずハルが声を掛けてくれるのに。

何だか嫌な予感がして、わたしは1階に下りていく。


お腹が空いた。

思えば、昨日は何も食べずに寝てしまったんだった。

食堂に行けば、ハルが何か作ってくれるはず。


おはよう、梅ちゃん。

いや、もう昼前じゃないか。

何か食べる?


そんな言葉を期待して覗いた食堂は、空っぽだった。

朝食で使った食器が、洗ってきれいに並べてある。


パジャマのまま、髪は寝癖の付いたまま。

ぽかんとして、わたしはそこに突っ立っていた。


次に覗いたハルの部屋も、やっぱり空っぽだった。

いつも整頓してあったけど、いつも以上にそうであるような気がした。


ペタペタと裸足で、わたしは2階に戻る。

前まで空き部屋だった場所は、アリスさんが使っていた。


トントンと小さくノックをしてみたけど、返事はない。

思い切ってドアを開けてみた。


そこには、何もなかった。

アリスさんが使っていた布団も、彼女の服や持ち物も何も。

まるで、初めからこんな感じだったみたいに。


ハルもいない、アリスさんもいない。

玄関にひとりで座っていると、このアパートにいるのはわたしだけになってしまったみたい。


昨日、わたしは初めて自分の気持ちに正直になったと思う。

でも、もう遅かったのかも。

わたしの気持ちを知ってもなお、ハルの心は決まってしまってたんだ。


「うぐ」


一声出すと、もうダメだった。

後から後から、涙が出てくる。


せめて、ちゃんとさよならくらい言ってくれてもよかったのに。

生まれてからずっと一緒にいたのに、こんなお別れの仕方ってないよね。


ちょっと腹が立ったけど、それより何倍も悲しい気持ちがわたしを襲う。

涙は枯れることもなく、どんどん溢れてくる。

日曜日のお昼前にわたしはひとり、玄関に座って泣き続けた。


「ちょ……どうしたの?」


不意に降ってきた声に、わたしははっとした。

涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、そこにはハルがいた。

手には、エコバッグを下げている。


「ハル……」

「買い物に行ってたんだよ」

「何でそんなとこで泣いてるの? 寝起きのままで」


ハルに指摘されて、わたしは少し恥ずかしくなった。

急いで手で涙を拭うと、照れ隠しに不機嫌な顔をした。


「今度は怒ってる」

「ワケ分かんないな」

「早く着替えておいでよ」


いつもの調子でそう言うと、買い物袋を提げたハルは食堂に消えて行った。



わたしの前に、ハルはスパゲティの盛られたお皿を置いてくれる。

ひき肉とナスを使った、味噌味のスパゲティ。

日曜の昼には、よくスパゲティが出る。


ハルは自分のお皿を持ってわたしの向かいに座ると、いただきますと言って食べ始めた。

テーブルには、わたしたちだけ。


「みんなは?」

「千明さんとタローくんは出掛けたし、モッコさんは昨日から知り合いのとこに泊まってるんだって」


くるくるとフォークを回して、ハルはスパゲティを一口分にまとめた。

ぱくっとそれを頬張ると、何も言わずに食べている。


「アリスには、帰ってもらった」


わたしは、フォークに巻き付いたスパゲティを口に運んでいたところだった。

手が止まって、麺がバラバラッとお皿に戻っていく。


「帰ってもらったって……」

「だって、俺に結婚する気がないのにいてもらっても悪いだろ?」


口の中の物を飲み込むと、ハルはお茶を飲んだ。

フォークを再び麺に絡ませたけど、巻き取ることはせずに突いている。


「確かに、アリスと一緒になるのが正解だったかもしれないとは思ってるんだ」

「彼女は奥さんになる女性として申し分なかったと思うし、ちょっと惹かれもした」


「でも、決定的なものはなかったんだよな、俺の中で」

「彼女が俺と同じオオカミでも、どんなに家庭的で素敵な人だったとしても」


ハルはひとりでうんうんと頷き、またスパゲティを頬張った。

向かいに座ったわたしは、それを黙って見ている。


「もしかしたら、あのとき決めておけばよかったって後悔する時が来るかもしれない」

「でもそれはその時の話であって、今じゃないんだよな」

「今の俺は、こういう結果でよかったと思ってる」


いつの間にか、ハルのお皿は空っぽだった。

お茶も飲み干して、満足そうに椅子にもたれている。

わたしのお皿には、スパゲティがまだ半分以上残っている。


「アリスを見てたら、梅ちゃんってほんと何も出来ないんだなってつくづく思ったよ」

「何よ、それ……」

「料理もダメ、掃除も適当、それなのに食べるのは一人前だもんな」


ハルはひとりで楽しそうに話している。

何か、嫌な感じだ。

わたしはふくれて、スパゲティーを口に詰め込んだ。


「でも、俺のことを一番分かってくれてるのは、多分梅ちゃんだと思う」

「今まで笑って俺のことを受け入れてくれてたのは、梅ちゃんなんだよな」

「ずっと、ずっとそうだった」


スパゲティを、口に入れ過ぎたかな。

喉が詰まるみたいな気がして、上手く飲み込めない。


「何も出来なくても、梅ちゃんは梅ちゃんなんだ」

「俺が隣にいて欲しいと思うのは、やっぱり梅ちゃんだって思った」


「おっちょこちょいで適当で、俺に世話ばっかかけてくる梅ちゃん」

「でも俺は、そんな梅ちゃんがいいんだよな」

「俺って、尽くされるより尽くす方が好きみたいなんだよ」


ものすごく苦労して、わたしはやっとスパゲティを飲み込んだ。

胸がいっぱいになって、なかなか次を食べられない。


「腹減ってないの? 俺が食べようか?」


なかなか中身の減らないお皿を見て、ハルが自分の方に引き寄せようとする。

わたしはお皿の縁を両手でしっかりと掴んで、それを阻止する。


「ダメ、わたしが食べるから」

「あっそ」


ハルはさっと手を離す。

頬杖を突いて、横を向いた。


「デザートには、フルーツヨーグルトがあるよ」

「食べる」


笑うとまた泣けてきそうで、わたしはちょっと怖い顔をして答える。


「そうこなくっちゃね」

「やっぱり梅ちゃんだ」


ハルは嬉しそうにそう言うと、食べ終わった食器を流しに運んで行った。

水の流れる音を聞きながら、わたしはスパゲティを頬張っていた。

やっぱり胸がいっぱいで、わたしのフォークはなかなか進んでくれなかった。

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