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アリス⑤

雨宿りをしていた梅子の元に、ハルが駆け付ける。

激しい雨の降る中、梅子はハルとアリスの結婚を応援すると言うが……。

雨は、轟々と音を立てて降っている。

こういう雨、別に生まれて初めてってわけじゃない。

いつもは安全なうちの中から眺めていたから、外でこんな風に味わうのは初めてだけど。


わたしは、アパートから少し離れた公園にいた。

買い物の後にアリスさんと別れてからここに来て、モヤモヤした気持ちをどうにかしようと頑張っていた。

急に大粒の雨が降り出してきてあっという間に濡れて、避難した遊具の中で朝見た天気予報のことを思い出した。


公園にある筒状の遊具の中。

大人も入れるくらいの大きな土管みたいな形で、奥は行き止まりになっている。

ここにいれば、雨は何とかしのげそうだった。


わたしはおっちょこちょいだったから、よく家や学校に傘を忘れて雨に濡れて帰ったことがあった。

びしょ濡れになったわたしを、お母さんがバスタオルで優しく拭いてくれた。


お母さんがいなくなったら、次はおばあちゃんがそうしてくれた。

おばあちゃんがいなくなったら、次はハルが。

会社に傘を持って行くのを忘れた時には、最寄り駅の改札の先でハルが待っていてくれた。


そんなハルがいなくなったら?

アリスさんと結婚して、ななし荘を出て行ってしまったら?

次は一体誰が、わたしに傘を差し掛けてくれるのだろう?


濡れた体を抱き締めるようにしていた手で今度は耳を塞いで、目をぎゅっとつぶった。

もう何も聞きたくないし、何も見たくない。

どうせどこかに行ってしまうなら、わたしの知らない間にそうして欲しい。


……ちゃ……ん。

梅……ちゃ……。


雨の音の向こうで、ハルがわたしの名前を呼んだ気がした。

そんなわけない。

ハルは、わたしの所にはきっと来ない。


「梅ちゃん!」


誰かがわたしの手首を掴んだ。

びっくりして目を開けると、そこにはハルがいた。


「何で?」

「何でここにいるの?」


びしょ濡れになったハルが、わたしを見ていた。

険しい表情が、段々と緩んでいく。


「よかった、梅ちゃん」


安心したように息を吐くと、にっこりと笑った。

わたしは、もう少しで泣いてしまう所だった。



「ここなんじゃないかって思ったんだよ」

「梅ちゃん、何かあるとよくここに来るだろ」


土管の入り口に目をやって、ハルは呟いた。

着ていた上着を脱ぐと、その下にあったボディーバッグからタオルを出してくれる。


「天気予報見なかったの?」

「びしょ濡れじゃないか」


わたしの頭からタオルを被せ、ごしごしと拭いてくれる。

お母さんや、おばあちゃんのように。

わたしが黙って何も言わないので、わざと髪をぐしゃぐしゃにした。


「お客様、いかがでしょう?」


美容院の人が最後に鏡の前で言うようなセリフを、ハルはわたしに投げ掛ける。

彼としては、わたしを笑わせて場を和ませたいみたいだけど……。

残念だけど、今はそんな気分じゃない。


「服まで濡れてる」

「さすがに、着替えは持ってこなかったな」


ウケを狙うことを諦めたハルは、現実的な問題に対処することにしたみたいだった。

ボディーバッグの中を探ってはいるが、その小さなバッグには着替えられそうなものは入っていないに違いない。


「しゃあない」


ボディーバッグを外すと、ハルは着ていたパーカーを脱ぎ始めた。

11月も半ば、しかも半分屋外のこの場所で、ハルはTシャツ1枚になっている。


「これでも着ときなよ」


横を向いて、それをわたしに差し出す。

そうしたのは、わたしが服を脱ぐのを見ないようにするためだろう。


わたしはもたつきながら濡れた服を脱ぎ捨てると、素肌にハルのパーカーを被る。

彼の大きな服は、着ると太ももまで掛かる丈になった。

まだ温かさが残って、ちょっと毛が付いていて、ハルの匂いがした。


「ハル、寒くないの?」

「別に? もともと毛皮1枚着てるしね」


何て言うことはないという顔をして、ハルは外を見ている。

タオルを下に敷いて、わたしたちは狭い土管の中で引っ付くように並んで座った。


「電話が途中で切れたから、何かあったのかと思った」

「ごめん……手が濡れてたから落っことしちゃって」

「壊れちゃったの」


まったく、梅ちゃんは。

よく言われるその言葉は、今は聞こえない。


「心配かけて、ごめん……」

「まあ……そうだな」


「梅ちゃんが突拍子もないことする時って、だいたい俺が絡んでるんだよな」

「だから、なかなか怒るに怒れない」


穏やかな表情でそう言ったハルを見て、わたしは思い切って切り出してみた。


「あのね」

「実はアリスさんのことなんだけど」


心配して迎えに来てくれたハルには、自分がここにいる理由を説明しなくちゃいけない気がした。

わたしが話し始めても、ハルはこっちを見てくれない。


「俺と、結婚したいってやつ?」

「俺もさっき聞いた……」


ハルは足元に視線を落とす。

そこには、冬ごもりの準備ではぐれたのか、小さなアリが1匹。

大きなオオカミの足元で、心許なさそうにうろうろしている。


「梅ちゃん、どう思った?」

「何で、わたしに聞くの」


そうは言ったけど、考えていることはもちろんある。

でもそれを言ってしまったら、ハルは心を決めちゃうのかな。


「……わたしは、ハルがいいならそれでいいと思ってる」

「アリスさんと結婚、しても」

「……」


どう思うって聞いた癖に、ハルは黙っている。

わたしも前を向いて話しているので、彼がどんな顔をしているかは分からない。


「アリスさんは、わたしと違って家庭的だし」

「ハルと同じオオカミだし」

「それで……」


わたしは何を言いたいんだろう。


「ハルが結婚したいと思うなら、わたしは2人をお祝いするよ?」

「お母さんとの約束、守り合うっていうのは、もういいでしょ?」

「わたし、十分守ってきてもらったと思ってるし」


言ってしまった。

もう、後には引けない。


これでハルがアリスさんと一緒になることを決めたら、わたしはとうとう独りぼっちになってしまう。

雨で濡れても拭いてくれる人は、本当にいなくなってしまう。


でも、それでいいのかもしれない。

雨に濡れてその冷たさに懲りないと、いつまで経っても今のままだ。

わたしも、いい加減に大人にならないといけないときなのかも……。


「梅ちゃんはそれでいいのかよ」


雨は幾分弱まりはしたが、依然として大きな音を立てて土管を叩いている。

その騒音の中でも、ハルの声ははっきりと聞こえた。


「俺がアリスと結婚してななし荘を出ても、梅ちゃん、それでいいわけ?」


そう言って、わたしの顔を覗き込む。

さっきまでは、ずっとそっぽを向いていた癖に。


「何でよ」

「何で、そんな言い方するの?」


わたしがどう思うかなんて、今は関係ないことじゃない?

自分がどうしたいか、それだけじゃないの?

何で、何で、何で、そんな風に言うのよ。


「やだ」

「え?」

「嫌だっ!!」


わたしは雨の音に負けないように叫ぶと、ハルにしがみついた。

胸に顔を押し付けると、Tシャツ越しに彼の毛の感触が伝わってくる。


「本当は分かってる」

「笑って送り出してあげるのが、ハルのためになるんだってことぐらい」

「分かってるの、でも……」


「アリスさんがうちに来てから、ずっとモヤモヤしてた」

「あの人がハルの隣にいるのが、ずっと嫌だったの」


「アリスさんを嫌いなわけじゃない」

「誰がそこにいても、わたしは嫌なの」

「そこはわたしの場所だって、わたし自身が言うの」


こんなこと、言いたくなかった。

ハルにはいつも情けないところを見せてばっかりだけど、本当に汚いと思う部分は見せたくなかった。


「自分勝手だって、分かってる」

「わたし、昔からハルに甘えてばかりで……あなたには何もしてあげてない」

「それなのに独占したいなんて、ワガママだって思ってる」


「でも、嫌なの」

「行って欲しくない」

「行かないでよ、ハル」


「ハルのご飯もお弁当ももっと食べてたいし、バイクの後ろにも乗せて欲しい」

「もっともっと怒って欲しいし、一緒にいろんな楽しいこともしたい」


「あなたがいないと、わたし、ダメなの」

「ハルが海なら、わたしは魚なの」


あの言葉が、口からするっと出て来た。

自分の気持ちに向き合った今なら、その意味がよく分かる。

魚は、海から遠く離れては生きていけないってこと。


「まったく、梅ちゃんは……」


頭の方から、ハルの声がする。

いつもの、このセリフ。

でもいつもとは違う、喉の奥から押し出したような声だった。


「梅ちゃんは、どうしてそうなんだよ」

「余計なことはいくらでも喋る癖に、大切なことは全然言わないんだから」


言い終わるや否や、わたしはぎゅっと抱き締められる。

今までされたことがないくらい、強い力で。


「どこにも行きやしないよ、俺は」

「ずっと、ここにいるって……」


その言葉を聞いて安心したのか、急に泣けてきてしまう。

自分ではそうするつもりはないのに、涙が溢れてしゃくりあげてしまう。

過呼吸になるんじゃないかって思うほど、何度も何度も息を吸った。


土管を叩く雨は、間もなく止んだ。

それでもわたしたちは、なかなかそこから出て行けなかった。

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