アリス④
激しい雨の中、ハルたちは梅子が家にいないことに気付く。
心配するなと電話をしてきた梅子だったが、ハルはじっとしていられなくて……。
『昨日の予報でもお伝えしましたが、今日は夕方より強い雷雨になる可能性が高いです』
『不要なお出掛けは、出来るだけお控え下さい』
休憩スペースのTVを付けると、ちょうど天気予報をやっていた。
用事を終えた俺は、雨の前に帰ることが出来てほっとしていた。
アリスが買い物に行ってくれたおかげで、冷蔵庫の中身も安心だ。
異変に気付いたのは、雨が大きな音を立てて降り出した頃。
早めに出勤したモッコさんを除くみんなが、夕食に集まった時だった。
「あれ、梅子は?」
そう言ったのは、千明さんだった。
「え? 部屋にいるでしょ?」
「ううん、ドアが開いてたけどいなかったよ」
「ええ?」
俺たちがそんな会話をしていたら、アリスがあっと口を押えた。
「梅子さん、まだ帰って来てないんですか?」
「何か知ってるの?」
俺が尋ねると、彼女は昼間の出来事を話してくれた。
その間にも、雨脚はどんどん強くなっていく。
「まったく、どこをほっつき歩いてんだ?」
とりあえず連絡してみようと、俺がスマホを手にしたときだった。
梅ちゃんからの着信。
「もしもし、梅ちゃん?」
「どこにいるの? すごい雨だよ」
ザアアアアアッという激しい雨の音が、耳元でがなるように聞こえる。
その音にかき消されるのか、梅ちゃんの声がよく聞こえない。
「梅ちゃん?」
「ちょっと、よく聞こえないんだけど」
「今、どこにいるの?」
『わた……大丈夫だから』
『雨が止む……したら……帰る……ら』
『心配し……いで』
大丈夫、雨が止んだら帰るから心配しないで。
途切れ途切れの言葉から、そう推測出来た。
「帰るって……だから、今どこに」
俺がそう言いかけたとき、ブツッと通話が切れた。
すぐにかけ直したけど、繋がらない。
その様子を見て、食堂内にピリピリとした緊張が漂う。
「梅子、どうこにいるって?」
「いや、分からない」
俺の答えに、千明さんも黙り込む。
タローくんは、心配そうに窓の外を見ている。
食堂の外に広がる庭は、激しい雨でまるで煙っているように見えた。
ドクッ、ドクッと心臓が嫌な鳴り方をする。
俺は食堂を出ると、すぐに自分の部屋に向かった。
*
雨除けの上着を着て、小さくまとめた荷物をボディーバッグで身に着けた。
この雨じゃ、きっと傘は役に立たない。
「ちょっと、俺行ってきます」
「千明さん、後よろしくお願いします」
アリスと千明さん、タローくんが真剣な顔で天気予報を見る中、俺は声を掛けた。
アリスが、はっとしたように俺を見る。
「行くって……」
「梅子さんがどこにいるのか分かっているんですか?」
「いや、どうだろう」
話をしながら、俺は玄関に移動する。
下駄箱からは、既に長靴を出してある。
それに足を突っ込んでいる俺に、アリスは続けた。
「梅子さんは、大丈夫って言ってたんですよね?」
「だったら、わたしたちはここで待った方がいいんじゃないですか?」
俺の上着の裾を掴んで、アリスは訴えた。
その目が、行かないでくれと言っているように見える。
「いくらハルさんでも、この雨の中じゃ危険です」
「ここで待ちましょう、ね?」
彼女の言うことは、とてもまっとうだ。
ただ、俺にはじっと待っていることが出来ない。
「心配しなくていいよ、俺は大丈夫だから」
「アリスは、みんなと一緒に待ってて」
追いすがる彼女をやんわりと押し留め、俺は玄関を開けて出て行こうとした。
その背中に、アリスがしがみついた。
彼女は、裸足だった。
「嫌です! 行かないでください!」
「ハルさんに何かあったら、わたし……」
アリスは泣き声で訴え、俺の背中に顔を押し付ける。
「わたし、好きなんです!」
「ハルさんのこと……」
「アリス……」
「わたし、結婚するならもうハルさんしかいないと思っています」
「父と母にも、わたしの気持ちは話してあります」
「……梅子さんにも、話しました」
俺はそれで、なぜ執事の横山さんがアリスを残して帰ったのか分かった気がした。
そして、今ここに梅ちゃんがいないことも。
「わたしたち、とても似てますよね」
「姿はもちろんのこと、その境遇も……」
「ハルさんならわたしのことを分かってくれると思ったし、わたしもハルさんのことを分かってあげられると思うんです」
俺が今まさに押し開けようとしていたドアからは、ひんやりと冷たい空気が流れ込んでくる。
雨の音の中、アリスは続けた。
「わたしなら、きっとあなたの子どもを産むことも出来ると思います」
「家族になって、わたしのうちで静かに暮らしませんか?」
「父と母も、あなたを歓迎してくれます」
同じオオカミと結婚すれば、家族を増やすことも出来るかもしれない。
確かに俺たちは、どこに行っても誰かの目を気にせず生きていかなきゃならない。
今までも散々嫌な目に遭ってきたし、それは彼女も同じだろう。
アリスの言う通り、彼女と結婚して静かに暮らす道もあるのかもしれない。
理解ある義理の両親の元で、アリスと俺と、もしかしたらその子どもたちと。
俺の心は、少し動いていた。
ハル!
ふと、どこかで梅ちゃんが俺の名前を呼んだ気がした。
なぜか、温かい気持ちが体を包む。
そうだ、梅ちゃん。
梅ちゃんはいつもそうだった。
俺の名前を呼んでは、俺の傍に座り、いつも笑って手を差し出してくれていた。
お互いに守り合いなさい。
今はもう、そんな言葉に縛られているわけじゃない。
ただ、彼女の傍にいて、彼女を守りたい。
そう自分で思うからこそ、俺は梅ちゃんの傍にいるんだ。
思わず声を出して笑った俺を見たアリスは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
アリスと築く未来、梅ちゃんの傍らで過ごす今。
天秤は、もう揺れない。
「ごめん、アリス」
俺が一言そう言うと、彼女は涙を溜めた目で俺を見たまま、ゆっくりと手を離した。
ようやく玄関のドアを押し開けて、俺は表へ出た。
まるで滝のような雨が降る中、俺は駆け出す。
梅ちゃんの傍らに、腰を下ろすために。