アリス③
アリスの滞在を喜んでいるものの、どこかしっくりとこない梅子。
そんな時、彼女はアリスからハルへの思いを聞かされて……。
ある日うちに偶然やって来た、ハルと同じ人間みたいに暮らすオオカミの女の子。
わたしと同じ年のアリスさん。
クリーム色の艶々とした毛並みに、パリッとアイロンの効いた割烹着が素敵。
掃除だってキレイにやるし、料理もとっても上手。
言葉遣いも丁寧で、本当にお嬢様って感じ。
千明ちゃんやタローくん、モッコさんだって、みんな彼女がいることに賛成している。
もちろん、わたしだって。
でも、何だろう。
何だか胸の中のモヤモヤが晴れない。
「梅ちゃんじゃこうはいかないもんな」
ハルがそんな風に言うから?
多分、それも違う気がする。
最初はモヤモヤした雲みたいな感じだったものが、今はちょっと硬くなった感じで下腹の辺りにいる気がする。
痛くも痒くもないけど、何か、嫌だな。
*
「わたしの両親は、長い間子どもに恵まれませんでした」
「それでも希望を捨てずに、2人で穏やかに暮らしていたんです」
「そんなとき、事件が起きたんです」
何度目かにみんなで食事をしたとき、アリスさんは自分の身の上について話し出した。
「わたしが生まれる前、両親は森に散歩に出掛けたそうなんです」
「父が少し離れたときに、母は何者かに襲われました」
「警察には届けなかったの?」
千明ちゃんが聞く。
アリスさんは、静かに頷く。
「というのも……」
「自分を襲ったのはオオカミだと、母が明かしたからなのです」
割烹着の裾を握り、アリスさんは複雑な表情を浮かべている。
彼女が飲み込んでいるその気持ちが、わたしにも何となく伝わってきた。
そして、きっとハルにも。
「少し経った後、母が妊娠していることが分かったのです」
「そのときお腹にいたのが、わたしなんです」
「わたしは、両親の決断、そしてわたしへの愛情にとても感謝しています」
「特に、父がわたしを実の娘として受け入れるには、相当な葛藤があったと思います」
アリスさんの両親は彼女を娘として家に迎え、そして今日まで大事に育ててきた。
聞けば聞くほど、アリスさんの境遇はハルのそれと似ている気がした。
「ごちそうさまー」
わたしが流しに食器を持って行くと、アリスさんが笑ってそれを受け取ってくれる。
彼女はハルよりは小さいけど、わたしはもちろん、千明ちゃんよりも大きい。
そんな彼女は、どこかお姉さんのようにも見えた。
食堂から出る時、わたしはちょっと振り返って流しの前に立つ2人を見た。
ハルとアリスさんは並んで、何か楽しそうに話しながら後片付けをしている。
今アリスさんの立っているあの場所は、少し前まではわたしの場所だったんだ。
隣に立って片付けを手伝うこともあるし、ただ隣にいて話し掛けるだけのこともある。
何をしたってしなくたって、あそこはいつもわたしの場所だった。
下腹の重苦しさの正体には、実は心当たりがある。
それでもわたしは、それを認めたくない。
ハルもアリスさんも同じオオカミだし、アリスさんは女性らしい素敵な人だ。
そこにわたしが割って入るのはおかしいと、自分でも分かってる。
でも……。
*
アリスさんがうちに来て、もう1週間以上が経つ。
ハルも気にしてるけど、彼女はいつまでいるんだろう。
帰らなくても、いいのかな。
「梅子さん、ちょっといいですか?」
ある土曜日の午後、アリスさんがわたしに声を掛けた。
ハルは用事があって、アパートにはいなかった。
「買い物に出ようと思うのですが、ハルさんはいつもどこに行かれていますか?」
「えーと、アイアイマートかなあ」
「そこって、わたしひとりでも行けそうでしょうか?」
アリスさんは、心細そうな顔をしていた。
予定のなかったわたしは、手伝うよと申し出た。
アイアイマートは、ハルの行きつけのスーパーだ。
よく行くので、店員さんも驚かない。
アリスさんを連れていくには、打ってつけのお店だ。
買い物に行くとき、ハルはよくこんなことを言う。
何を作るか考えてから買い物に行ってはダメ。
そこにあるものを使って、何を作れるのか考えるんだって。
アリスさんも同じ考えみたいで、あれでこれが出来ますね、これではあれがなんて言いながら、上手に買い物をしている。
彼女の頭の中には、きっとたくさんのレシピが詰まってるんだろうな……。
「ああら、梅子ちゃんじゃない」
「あ、梶原さん」
混み合うレジでお会計を済ませた時、買い物かごを下げた梶原さんと出くわした。
「ハルくん……じゃ、ないの?」
「女性の方?」
梶原さんは、わたしの隣にいるアリスさんを見て少しは驚いたみたいだった。
アリスさんはアリスさんで、突然の知り合いの登場にどうしたものかと思っているみたいだった。
「この人、アリスさん」
「今ね、うちでハルのお手伝いしてくれてて」
わたしが軽く紹介すると、梶原さんははまあまあと言って微笑んだ。
このおばさんはハルのことも怖がらないので、アリスさんのことも大丈夫みたい。
「同じオオカミのお手伝いさんなのね」
「いやね、ワタシてっきり、ハルくんのお嫁さんかと思ったのよー」
ワハハと豪快に笑って、梶原さんは言った。
お嫁さんという言葉を聞いて、アリスさんは恥ずかしそうにうつむいた。
それを見て、またわたしのお腹が重くなる。
上から大きな石でも乗せられているみたいに、ギューッと痛くなってくる。
そんなわたしを知らずに、おばさんはまたねーと言って帰って行った。
「びっくりしたね」
「お嫁さんだなんて……」
スーパーからの帰り道、わたしたちはそれぞれにエコバッグを下げてアパートへの道を歩いていた。
あれから、アリスさんは言葉少なくなってしまっていた。
流れる沈黙がちょっと気まずくて、わたしは率先してお喋りをした。
「いえ、そんな……」
アリスさんは、まだうつむきがちに歩いている。
わたしには、彼女の感じていることが何となく分かる。
同じ女性として。
「でも、嬉しかったです」
立ち止まって、アリスさんははっきりそう言った。
わたしは、手にしていたエコバッグが急に重くなったように感じる。
「梅子さんは、ハルさんをどう思っていますか?」
「ど、どうって……」
突然の質問に、わたしはたじろぐ。
ハルはハル。
わたしにとってどうとかこうとか、はっきり考えたことはなかった。
「梅子さんは、ハルさんとずっと一緒に過ごしてきたんですよね?」
「ハルさんは、あなたにとって幼馴染み以上ですか?」
「……」
わたしは答えられない。
答えがまるで分からないというわけじゃない。
ただ、わたしの中の何かが、答えを言わせなくしている。
「わたしは、ハルさんが好きです」
「結婚……したいと思っています」
「だから、さっきお嫁さんと言われたときは嬉しかったんです」
わたし、今どんな顔してる?
泣きそうな、変な顔してないかな?
「ハルさんと出会った時、本当に運命を感じたんです」
「生きていて、まさか自分と同じようなオオカミに出会えるなんて思ってもなくて」
「もう……この人しかいないって思うようになってしまって」
わたしが何も答えないので、アリスさんの口からは彼女の澄んだ気持ちがどんどん溢れてくる。
それを聞くたび、お腹に感じる圧迫感は強くなっていく。
「梅子さん、もしあなたにとってのハルさんが幼馴染み以上でないなら……」
「わたしたちのこと、応援してもらえますか?」
「わたし……」
アリスさんはまだ何か言おうとしてたけど、とてもじゃないけど聞いてられなかった。
一度下を向くと、何とか笑顔を作って顔を上げる。
「アリスさん、ごめん」
「急な用事思い出しちゃって」
「荷物、頼んでもいい?」
彼女は快く応じて、わたしの荷物を受け取ってくれた。
アリスさんがまた何か言わないうちに、わたしは反対方向に走り出す。
分かってる。
何て言えばよかったのか、どうしてあげるのがいいのか。
そうすることがハルの幸せかもしれないってことも、全部分かってるよ。
でも、心は素直に言うことを聞かない。
逆にわたしに向かって、素直になれって言ってくる。
ハルが海なら、おまえは魚だって。
そんな、訳の分からないことを言ってくる。