アリス①
ある晩、ななし荘に突然の来客。
一同が迎えたのは何と……。
「それでねぇ、子どもまでお腹にいるっていうじゃない?」
「今は授かり婚? とか言うらしいんだけど」
「もう、義姉さんも兄さんもカンカンだったのよぉ」
そう言うと、梶原のおばさんは大きな口であんみつを頬張った。
パンチの効いたパーマにつっかけを履いたおばさんは、まるで昭和が具現化したような人だ。
初めて会ったときから俺に物怖じせず、いろいろ世話を焼いてくれるので助かっている。
いつものスーパーで顔を合わせた彼女は、ちょっとハルちゃん聞いてよぉと、俺をねこねこ堂に引っ張っていったのであった。
甘味処のねこねこ堂のあんみつに惹かれ、俺はほいほいと付いてきてしまった。
梶原さんが話したかったのは、姪っ子のデキ婚騒動についてだった。
「サチコももう25で適齢期だけどさ、さすがに順序ってもんがあるわよぉ」
「ハルちゃんもそう思わない?」
梶原さんは餡子と四角い寒天を一緒にすくい、口に運んだ。
幸せになる方法は、人ぞれぞれだと思っている。
結局は、本人たちがどう感じるかではないかとも思う。
でも……。
もし梅ちゃんがそんなことになったら?
俺の天地は、間違いなくひっくり返る。
*
その晩、食事の片付けを終えた俺は、休憩スペースでダラダラとTVを見ていた。
何気なく見ていた番組は、芸能人のスピード婚についての話題で盛り上がっている。
しかも、デキ婚だ。
俺はTVを消した。
そのまま、ちゃぶ台の上に上半身を伏せる。
「ハルー、どうしたの?」
「ダラけちゃってるじゃーん」
食堂に顔を出した梅ちゃんは、休憩スペースにいた俺を発見すると傍に寄って来た。
伏せった俺の背中にベタッと引っ付くと、肩甲骨の間辺りに顔を載せた。
わざと口を大きく開いて閉じて、顎の骨でゴリゴリとした刺激を与えてくる。
「それ、痛い」
「あーうーあーうー」
俺の訴えなどお構いなしに、梅ちゃんはゴリゴリを続けた。
まったく、この人は一体何がしたいんだか。
しかしふと思い立ち、俺は梅ちゃんに聞いてみる。
「梅ちゃんって……結婚しないの?」
「何、いきなり」
背中から離れて、梅ちゃんは畳に座る。
訝し気な顔をして、こちらを見ている。
「結婚て、ひとりじゃ出来ないでしょ?」
「当たり前だろ、そんなの」
「じゃあまだ当分出来そうにないよ」
「だって、まだ相手がいないもん」
梅ちゃんはそう言うと、お風呂入ってくると食堂を出て行った。
まだ相手がいない、か。
俺はちょっと嬉しくなった。
「あのー、すみません」
俺のそんな温かい気持ちを、急な来客の声が遮った。
時間は夜の10時前。
誰だろう、こんな時間に……。
そっと玄関を覗くと、しゃんとした身なりの紳士がいた。
初老の頃と思われるその人は、申し訳なさそうな顔をして立っている。
見知らぬ顔に、俺は出て行こうか迷った。
何せ、俺はオオカミだ。
急に出て行ったら、あの老紳士はショック死するかもしれない。
迷っていた俺の鼻に、ある臭いが飛び込んできた。
オオカミの匂い。
よくよく嗅ぎ取れば、あの紳士から漂ってきている。
「あの……」
無視出来なくなって、俺は玄関に出た。
初老の紳士は俺の登場に目を丸くはしたものの、叫ぶわけでもなく、もちろんショック死もしなかった。
慣れている、そんな雰囲気だ。
でもなぜ、慣れている?
「申し訳ありません、こんな遅い時間に……」
「いや、しかし、驚きました」
「お嬢様のような方が、他にもいらっしゃるなんて……」
最後の一言は、まるで呟くような言い方だった。
「あ、これは失礼しました」
「私は横山と申しまして、とある家にお仕えしている執事の者でございます」
「この近くまで出掛けた帰りで、お嬢様がご気分を悪くされまして」
「近くに病院か、あるいは少し休める場所があればお伺いしたいと思いまして……」
確信はなかったが、俺は思い切って聞いてみた。
「そのお嬢様っていうのは、もしかして……」
執事の男性は、言葉は発せずに静かに頷く。
アパートの前に停められた黒い高級車の中に、彼女はいた。
人間の女性だったらずいぶんと大柄だが、俺より少し小さいくらい。
明るいクリーム色の毛並みをした、メスのオオカミだった。
ワンピースの上に薄手のトレンチコートを着て、後部座席で苦しそうに横になっていた。
*
今度は、うちの住人が目を丸くする番だった。
思うに、彼女は医者が必要なほど悪いようには見えなかった。
俺は自分のベッドの布団を取り換えると、彼女をそこに横たえた。
彼女に合う場所が他になかったので、とりあえずは我慢してもらうしかないだろう。
執事の横山さんによると、彼女は資産家の一人娘ということだった。
名を、アリスという。
アリスを泊めるにあたって、梅ちゃんはもちろんのこと、他の住人にも声を掛けた。
彼女が俺のようなオオカミである以上、余計に話は通しておくべきだと思ったからだ。
「信じられない……」
「ハルみたいなオオカミが、他にもいるなんて」
梅ちゃんは、横山さんと同じようなことを言った。
俺だってそうだ。
生きているうちに、自分の同族に出会うとは思ってもみなかった。
横山さんはアリスに付き添い、俺の部屋で夜明かしする様子だった。
俺は2階の空き部屋で寝るつもりだったけど、梅ちゃんが声を掛けてくれる。
「あの部屋、ずっと掃除してなかったでしょ?」
「今晩はこっちで寝たら?」
こっち、つまり、梅ちゃんの部屋でということ。
日付も変わろうかというときに、埃っぽい部屋を掃除するのは気が進まなかった。
有難く、彼女の申し出を受け入れる。
「こんな風に寝るのって、いつぶりくらいかな」
梅ちゃんのベッドの下に、俺は布団を敷いて横になる。
段差はあるが、並んで寝るのは小学生の時以来だったと思う。
いや、トカゲ騒動のとき以来か。
本当なら、前みたいに梅ちゃんのことで頭がいっぱいになるんだと思ってた。
でも、今回は違った。
俺の頭の中にあったのは、今は俺の部屋で寝ているだろうアリスのことだった。
車の後部座席にいた、あの優しい毛色のオオカミ。
梅ちゃんの部屋にいるのに、俺は別の人のことを考えている。
それがとてもやましいことのように感じられて、俺は梅ちゃんに背中を向けて眠った。