梅ちゃんの秘密③
自分が母親の本当の子でないことを知った梅子。
病院から帰って来た晩、彼女はある行動を起こす……。
お母さんの話は、そこで終わったと思う。
実は、あまりよく覚えていないんだよね。
病院からアパートに帰るタクシーの中では、誰も口を利かなかった。
心の中に急にぼかっと穴が開いたみたいな気がして、わたしは窓の外をずっと眺めていた。
その晩、わたしとハルはいつものように2階の部屋に布団を並べていた。
お母さんの話を聞いてからは、ハルとも何も話していない。
こんなことは、今までになかった。
「あ、宿題やり忘れた」
沈黙を破ったのは、ハルの呟きだった。
わたしは何も答えない。
「梅ちゃんもやってないだろ」
「明日、少し早く起きてやろうか」
そうだ、漢字の書き取りの宿題。
また忘れたの、弥生さん!
国語の先生でもある担任の佐藤先生に、きっと怒られちゃう。
わたしはむくっと起き上がると、ハルと色違いの赤いランドセルから漢字ドリルを取り出した。
ドリルの表紙には、【弥生梅子】と書いてある。
もらったら名前を書いておきましょうって、先生が言ったんだよね。
弥生梅子。
弥生さん、また宿題忘れたの?
昼間、お母さんは何て言ったっけ?
わたしには、もうひとつの名前がある。
ささはら……だったかな、ううん、ささかわだ。
じゃあ間違ってる、この名前……。
そう思ったのと同時に、わたしはランドセルをひっくり返した。
それを見ていたハルが、びっくりして布団から体を起こす。
畳の上にバラバラに散らばった持ち物の中から、わたしは筆箱を取り上げる。
その中身もばら撒くと、そこから油性のサインペンを掴み取る。
キャップを外して、ドリルの名前をぐちゃぐちゃに塗り潰した。
「梅ちゃん!」
ハルがわたしの手を掴む。
それを振り払って、わたしは何かに憑りつかれたみたいにペンを走らせ続ける。
名前どころか、ドリルの表紙まで真っ黒になりつつある。
「梅ちゃん、やめろ!」
「梅ちゃん!」
ハルはとうとう、わたしを背後から羽交い絞めにするように押さえ込んだ。
わたしたちの背丈はまだそんなに変わらないけど、力ではもう勝てない。
「だって、わたし……」
心に空いた穴が、ビリビリと震えるように感じる。
そこから、悲しい気持ちがどんどん入ってくる。
止められない。
激しく泣き始めたわたしを見て、ハルは力を緩めた。
そしてそのまま、わたしのことを抱き締めてくれた。
その強い腕の力は、何があってもわたしを守ると言ってくれているようでもあった。
わたしが自分の出自について知った、10歳のある晩のことだった。
*****
バースデーパーティーの翌日。
日曜日だというのに、ハルはもうキッチンに立っている。
実際、わたしの本当の誕生日はいつなのか分からない。
お母さんがおばあちゃんと相談して、ハルと同じにしたの。
だから、わたしたちは毎年同じ日にお祝いし合ってる。
「おはよー、梅ちゃん」
「早く着替えておいで」
「今朝はパンケーキを焼くから」
パジャマのまま食堂に現れたわたしにそう言って、ハルは手にした大きなフライパンを見せる。
それは、わたしが昨日プレゼントしたものだった。
着替えて戻って来たわたしの前に皿を置き、ハルは焼き立てのパンケーキを載せてくれる。
1枚、2枚、3枚……。
数えていたら、怪談の番長皿屋敷みたいだなって言われた。
何それ、知らない。
3段重ねのパンケーキに、ホイップバターと平たい瓶のメープルシロップ。
こんな完璧な朝ごはんって、そうそうないでしょ?
「うわっ、旨!!」
「自画自賛だけど……」
ハルはそう言いながら、パンケーキを頬張っている。
わたしも負けじと、ふわふわして香ばしい香りのそれを口に押し込む。
拾われた子どもだって知った後、やっぱりすぐには立ち直れなかった。
血の繋がりを意識したことなんてなかった癖に、急に自分の立つ場所がグラグラと揺れる気がしていた。
そんなとき傍らにはいつもハルがいて、倒れそうになるわたしを立たせてくれていた。
あの晩みたいに、強い力で手を引いて。
「ハル、付いてるよ」
「ん?」
珍しく、ハルが口の端にパンケーキの欠片をくっ付けている。
わたしは笑って、彼がいつもわたしにそうするようにそれを取ってあげる。
「はは」
「新しいフライパンとパンケーキで、ちょっとテンション上がり過ぎたわ」
照れ隠しか、ハルが無邪気に笑う。
それにつられて、わたしも笑う。
わたしが本当はどこの誰なんて、もうどうでもいい。
笹川梅子という名前も、ただ、そこにあるだけ。
だって、そうでしょ?
美味しいパンケーキをハルと食べるときには、血縁も戸籍も関係ないんだから。