白銀の狼
--------------------------------
ザクザクと、雪を踏みしめる音が孤独な森に響く。足のとられる雪の中を、ローファーで歩くのは中々に苦行だった。何回か滑って転びそうになるものの、すんでのところで体勢を整えそれを阻止する。おかげでだいぶ体が温まってきたが、手と耳の先は冷たく、赤くなっている。
しばらく歩を進めていると、真っ白な世界の中、なにかきらめくものが見えた。それは汚れて灰色に姿を変えているものの、もともとは美しい白銀だったのではないかと思わせる。
「白い狼?」
思わず足を止める。真っ白な世界に坐する、白い生き物。それは幻想的な光景だった。狼だと思ったのは、昔動物園でたまたま見た狼に似ていたから。犬にしては凶暴そうに突き出た口元と双眸。遠くの獲物の音までとらえるだろう大きく尖った耳。
しかし、今までに見たことのある狼とは大きく違うところがあった。狼がいるというだけでも視線が向くが、それよりも目を引いたのはその大きさだった。優に大人三人分はあるだろうサイズに目を見張る。人なんて丸呑みされてしまいそうだ。
それなのに、なぜか恐怖は感じなかった。むしろ、湧いてくるのは別のもの。
「きれい……」
真っ白な世界とそこに存在する白銀の狼が、あまりに幻想的に映る。その光景に思わず近づき、木の陰に隠れて様子を見る。どうやら怪我をしているようだった。脇腹部分の白色の毛に赤黒く変色した血がこびりつき、真っ白な雪にも鮮やかな赤が染みている。傷が深いのだろうか。心配になって距離をつめる。
相手は肉食獣だ。いつもの結希ならばこんな無謀なことはしなかったが、なにせ相手は手負いだ。そのうえ、結希は昔から怪我のした者を放っては置けない性分だった。
そして、もう一つ。
「この狼は大丈夫な気がする」
確認するように、思いを口にする。自信のようなものがあった。それがいったいどこからくるものなのかはわからない。刺激しないように足音を潜め近寄る。
もうあと二メートルと迫ったところで、狼は目にもとまらぬ速さで立ち上がり、結希をにらみつけた。無理に動いたためか、白い雪にいまだ鮮やかな血が滴り落ち、広がっていく。痛々しい様子に目を背けたくなる。
どうして、こんなひどい傷……。
「近づくな!!」
険しく張りつめた叫ぶ声が、孤独な森に響き渡る。森全体が揺れるほどの、気迫があった。
「え……」
目の前には手負いの肉食獣。緊迫した状況であるというのに、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。そろそろと、驚きを隠せない緩慢な動きで狼を指さす。
「いま、しゃべった?」
狼は警戒を露わに、凶暴な牙をむき出す。
「……?そうやって謀ろうとでもいうのか。無駄だ、人間」
絶対この狼から発せられている。確信する。もう十分不思議な環境下にいるのだから、なにがあってもおかしくないとは思っていたが、まさか動物が喋りだすとは夢にも思わなかった。まるで現実味のない世界に困惑する。
(そういえば……)
老婆が言っていたことを思い出す。結希の知っているワスレジの森とは違う場所だというようなことを言っていた。本当に自分の知る場所ではない、ということに実感がわいてくる。
しかし、言葉が通じるということは意思疎通ができるということだ。話すことができない動物ならば手当してあげることは難しいが、会話ができるのならば容易に手当てさせてくれるかもしれない。
放っておけない性分の結希は現状をポジティブに考え、なおも近づこうと試みる。狼は先ほどよりも警戒を強め、臨戦態勢をとった。わかりやすく毛を逆立てる狼に、笑みを浮かべる。
「大丈夫だから。あなた怪我をしているでしょ?手当てをしたいだけなの」
相手に誠意を示すように、真摯に語りかけるも、狼は頑なに憎悪の目で睨みつけてくる。
「……人間の言葉なぞ、信じられるか」
「――……」
地の底から響く、暗い声。おもわず身がすくむ。どうして、この狼はこれほどまでに人間を敵視しているのだろう。少し怖くはあった。それでも、あの幻想的な光景に心惹かれてしまったからか、美しい手負いの獣を前に引くことなどできなかった。
「血がすごく出てる。とりあえず止血だけでもしないと……」
そう言って近づいた時だった。
「いっ――!」
左手の甲に痛みが走った。見てみると、皮膚が裂け、血が流れている。重症というわけではないが、驚愕に顔から血の気が引いた。
「わかっただろ、人間が!はやくここから立ち去れ!!」
蔑む目で狼は睨みつけていた。これで、自分に話しかけてくる奇怪な人間も引くだろう。狼はそう思っていた。
「いやだ」
「は――?」
小さく抗議すると、狼が困惑の瞳を浮かべたのが見えた。怖くないと言えば嘘になる。それでも結希は放っておくことができなかった。先ほどの雪の中にいる狼の神々しい姿に心惹かれたのもある。
しかしなにより、目の前にいる狼の瞳が、なにもかもを諦めようとしていた自分と重なって、逸らせなくなった。憎悪の奥に、仄暗い、見ているようでなにも映してなどいない虚ろな瞳が見える。結希にはそう感じた。もしかしたら、このまま死んでしまうのではないか、その不安に、どうしても引けなかった。
「そんなに動いちゃ傷口が開いちゃうよ」
「人間には関係ない」
傷つけられても引こうとしない結希を狼が訝しげに見つめる。思惑はなんなのか探るような視線。それを感じながらも結希は話しかけた。
「もしかして、死にたいの?」
その言葉に狼が息を呑んだ。思いもしなかった問いだったのか、瞳孔を大きく開いている。
「……人間が、知ったような口をきくな」
ようやく狼はそれだけを言った。拒絶、そこにあったのはそれだけだ。何者もその領域には踏み込ませまいとする、強い意志だけがあった。叫ばれて、罵倒された方がましと思うほど、完全な拒絶がそこにあった。固い言葉で拒絶し、俯くその様子が痛ましく、悲しかった。
「たしかに、私は知らない」
「――……」
やっと諦めたのか、と狼が思った時だった。先ほど傷つけられたとは思えないほどためらいもなく、結希は狼に近づいた。あまりに突拍子もない行動に、狼の反応が遅れる。ポケットの白い布を取り出した結希は、狼の左腹の傷口にそれを押し当てた。
「ちょっと痛いかもだけど、我慢してね」
「――は、な、なぜそうなる」
狼は攻撃することも忘れて、このよくわからない状況の説明を求める。傷つけられても憎悪のかけらも見せないどころか近づいてくる人間に戸惑いを隠せない様子だった。結希は「傷口が開いてしまうから動かないで」とその狼が動かないよう押さえた。それでも、自分よりも二回りほども大きい狼だ。必死で抵抗されれば、力では到底かなわない。
「なぜかはわからないけれど、あなたがすごく人間を嫌っていて、私も信用されていないことはわかった」
「では――」
狼のなぜ、という言葉を遮る。先ほどのすべてを諦めているような虚ろな狼の瞳を思い出す。そのようすが自分に重なっただなんて、言えなかった。代わりに別のことを口にする。
「いまにも死にそうなひとを、放っては置けないし」
そう言って、微笑みかける。狼の双眸が大きく見開かれた。
「……リアーナ」
「え?」