~ここはどこ?~
中は想像以上に広かった。外から見えるワスレジの森はよくて田んぼ一枚分ほどに思われたが、歩いても歩いても先が見えない。それに……。
「足が滑る……」
常に日陰にあるせいか、土は苔むし、寒さのせいで露もあった。来てそうそうのこの状況に溜息を吐く。
「どうして私はこう……っ!!」
うまくいかないのだろう、と言いかけた時だった。
暗くて見えなかったため、足が溝にはまり、バランスを崩した。なにかにつかまろうと左右の手を動かすが、葉は夜露で滑ってつかむことはできない。体が大きく後ろに倒れる。倒れている途中、誰かの声が頭に響いた。
「――リアーナ」
知らない名と声のはずなのに、なぜかひどく懐かしい。
衝撃に備え、結希は強く目をつむった。
なかなか訪れない衝撃に、薄く目を開く。目の前には白く重い雲が広がっている。
衝撃がなかったのに、地面に頭が乗っていた。
「――!?」
起き上がると、先ほどまでとは違う様相の森が広がっていた。なにより、夜だったというのに、すごく明るい。
「朝……?」
自分は転んだ衝撃で眠ってしまっていたのだろうか。そう思うも、それにしては体のどこも痛くないことに疑問を抱く。
「寒い」
身を震わせる。飛び出したままの格好は、ブレザーを着てはいるが、羽織などは一切ない。袖や襟口などの隙間から入り込む空気の冷たさに肌が泡立つ。
「こんなに寒かったっけ?」
不思議に思う。山の方では雪が積もっている様子は見えたが、まだ平地では雪は降っていなかったはずだ。冬の入り口の季節が、ここまで寒かった覚えもない。それなのに、今いる場所はわずかだが雪が積もっている。木々も裸で寒そうだ。
「……木に、葉がない?」
ふと引っかかる。
先ほどまで見た限りでは木に葉があった記憶がある。結希は葉をつかみ損なって転倒したのだから。
なにかおかしい。
周りを見渡しても、パッと見では緑すら見つけられない。
「もしかして、違う森?なんて、ね……」
まさかと思いつつも呟く。声に出すと、途端に真実味を帯びたように感じる。
枯れた木々が変わらず眼前に広がる。緑という緑が全くなかった。生命があまり感じられない寂しい森。そこには冬であるということだけではないむなしさのようなものがあった。真っ白な雪が眩しい。
眩しさのせいだけではなく、目頭が熱くなった。
「……あっ」
見たことのない場所。少なくとも、産まれてこのかた記憶にない光景、であるはずなのに。頬に伝うものを止められない。
「お嬢ちゃん」
「――!」
後方で聞こえた声に驚いて振り返る。雪を踏みしめるキュッという音がした。そこには見覚えのある顔があった。それも、つい最近見知った顔。
「おばあさん?」
ワスレジの森の前で会った老婆と同じ顔がある。しかし、老婆は微妙な顔をしていた。
「残念だが、わたしゃお嬢ちゃんの知っている者とは少し違うよ」
「え――?」
どういう意味なのか分からない。森の前で会った老婆と瓜二つの顔。雰囲気までもが酷似しているのに。双子なのだろうか。ただ老婆は曖昧に頷くだけだった。
「ちょっと失礼するよ」
老婆の手が額に触れる。警戒し身を引こうとするも、その手は熱でもみるかのように軽く添えられただけだった。
「よし、これで少なくとも言葉の壁は取り除けられたかね」
老婆はゆっくりと手を離す。軽く触れられただけで、変わった様子は感じなかった。老婆はよくわからないことを言っている。言葉の壁とはどういう意味なのだろう。老婆の言語ははじめから日本語として認識できたし。それに、そんなことを言うということはここは日本ではないということだろうか。まさか、そんなはずは……。思いつつも老婆に尋ねる。
「あの、ここはどこなのでしょうか?」
「ここはワスレジの森だよ」
「そう、ですよね……」
当たり前であるかのような回答に言葉尻が小さくなる。変なことを聞いてしまったと恥ずかしくなる。しかし、老婆は「だが……」と先を続けた。
「お嬢ちゃんの知るワスレジの森とは違う場所かもしれないね」
「……?」
老婆が言いたいことの真意がわからず首を傾げる。自分が知っているワスレジの森とは違う場所、言葉を咀嚼するが全く分からない。
「そのうちわかるさ。それよりも、お嬢ちゃんには為すべきことがあるね」
老婆が見通すように結希の瞳を覗き込む。なにもかも見透かされているように感じた。
「なすべきこと?」
おうむ返しに口にすると、老婆は申し訳なさそうに微笑んだ。
「本来はこの世界での問題なんだ。それなのに……。お嬢ちゃんを危険な目に合わせることになるかもしれない。ごめんね」
孫に謝るように、優しく老婆の声が聞こえる。この世界、その言葉に引っかかりを覚える。変わらず老婆の言葉は続く。
「その為すべきことをなせば、もとの世界へ帰ることができるからね。……かわいそうな彼らを止めてやってくれね。救えられるのは、きっとお嬢ちゃんだけだから」
痛切な声音で老婆が言う。わからず、俯いて考える。
止めてくれ、それはダレのことなのだろう。いくら頭をひねったところで答えは出ず、考えることを中断し尋ねようと顔をあげた。
「だれを止めれば……」
いいんですか、と聞こうとして言葉が止まる。宙ぶらりんになった言葉は白い雪に吸い込まれた。
「おばあさん?」
老婆は忽然と姿を消した。跡形もなく。謎の言葉だけを残して。
後には途方に暮れる結希だけが残った。
一人よくわからない場所に取り残された結希は今後のことについて考えていた。老婆は結希の知っているワスレジの森ではないというようなことを言っていたし、それは結希もなんとなく感じていた。
「信じられないけど……」
森の様子がそれを裏図けるように、ない葉にふるえている。いくらなんでも、一瞬で葉がすべて抜け落ちるなんてことは不自然すぎるし、雪がこんなに積もっていた記憶もやはりない。それに、これだけ歩いてあの小さなワスレジの森を抜けられないなんておかしすぎる。
老婆は為すべきことをなせば帰れるといったが、なんのことなのか見当もつかない。
「考えていてもしかたないか」
答えてくれる者のいない問に考えることをいったん中断する。
いまは目の前の問題を解決しなければ。白く寒々しい森の中、ポツンと立つ。心細さに肩がふるえた。
「どうしよ」
森で遭難したときはその場から動かない方がいいというようなことを聞いたりするのだが……。
結希が知っているワスレジの森と違う場所ならば、誰かが自分を探し出せるとも思えない。
飛び出した時の母と颯真の顔が思い浮かぶ。ひどく驚いた顔をしていた。反抗という反抗をいままでしてこなかった結希だ。いきなりの結希の行動に二人が驚くのも無理はない。
「捜索願とか出されてなければいいけど……。て、それはない、かな」
溜息をつく。あれだけ世間体を気にしている母だ。その心配はないだろう。
「少し歩いてみようかな」
だれも迎えに来られないというのなら、ひとところにとどまっていても仕方ない。それに、ただでさえ寒いのに、動かずじっとしていると体の隅々まで冷えていくような気がした。
知らない場所に一人取り残されたにしては冷静だった。
それは、どんな形であっても、あの場所から離れられたおかげなのかもしれなかった。