ワスレジの森
「お疲れ!今日はもう終わりだ。皆気を付けて帰れよ――」
帰りのショートホームを終え先生の掛け声で、生徒が騒ぎ出す。帰りにどこに寄ろうかと話し出す子、塾があるのだと嘆く子など様々だった。ぼうっとしていたら授業が終わり、日も暮れようとしていた。
「……帰りたく、ないな」
思いながらも、どこへも行くあてがない結希は帰り支度をし、学校を出る。明るいオレンジ色の夕日が家々の窓に反射して輝いていた。その様子が眩しくて俯いていると、そばを通り過ぎる三人組のおばさんたちの話し声が聞こえた。
「行方不明ですって。こわいわね」
「行方不明?」
「ああ、あなたが引っ越してきてからは初めてだったわね」
よく事情をわかっていない一人に対し、他のおばさんが話し出す。やや声のトーンは落としていたが、人の少ないこの場所ではよく響いた。
「昔からいわくつきの場所があるのよ。ほら、遠くに見えるでしょ。田んぼの真ん中に不自然に一か所だ
けある雑木林」
雑木林というところでピクリと反応してしまう。田んぼの真ん中にポツンとある雑木林なんてそんなにない。それは結希の家からは十分ほどのところにある雑木林だとわかった。
「あ、あれが?普通に木がたくさん立っているだけに見えるけれど……」
「十年前、土地開発のために、あの不気味な雑木林を伐採しようとする話がでたのよ。けど、いざ作業が始まろうとすると、工事の事故、管理者の病気とかね、不幸が続いて伐採の話しが頓挫したことがあったの」
「こ、こわいわね」
「それに、昔からそこでは人がよくいなくなると言われているから、ここら辺の人はあそこには近づかないの。あなたも知っておいた方がいいわ」
「わかった、子供たちにも言っておかなくちゃ。あの雑木林ね」
「そう、ワスレジの森。昔はもっと木が多くて森のようだったから、名前に森がつけられたんですって」
「そうなの。でもなんでワスレジの森っていう名前なんでしょうね。あんな忘れ去られているような森なのに……」
「そうねー」
おばさん達の話しが耳に残る。なぜか心がざわついた。ふと、そこに行きたいと思う。足が自然とワス
レジの森と呼ばれている場所へと向いた。
「ここが……」
さっきおばさん達が言ってたワスレジの森。めったに人が近寄らないという。こんなにちかくにあったのに、結希も来たことはなかった。本当に、違和感があるほど田の真ん中に一か所だけ木々が立っている。異様な雰囲気にのみ込まれそうになる。木の葉が手をこまねくように揺れる。
「はじめて、来た」
両親からはそのような話を聞いたことがなかった。もとより、迷信を信じるような人達ではなかったが。目の前にするワスレジの森は一層不気味だった。木がひしめき合っているためか、中に光がとおらず、夕方でもひどく薄暗い。あまりにも木々が生い茂っているためか、奥を見通すことができない。黒々とした葉だけが風に轟々と揺れている。
「ここに行けば……」
自分もどこかへ行けるのだろうか。行方不明になった人の話を思い浮かべる。現実が息苦しくて、逃げ出してしまいたくて、足を踏み入れようとした時だった。
「お嬢ちゃん」
「――!!」
突然話し掛けられ、たたらを踏む。心臓が痛いほど脈打っていた。声の主を振り返る。そこには、腰の曲がった落ち窪んだ目の老婆がいた。八十余りの女性の細い目が結希を捉える。その老婆は結希を見ながら、諭すように話しだした。
「ワスレジの森は世界の歪み。強い願いをもって訪れた者の願いをかなえる。大切ななにかを忘れている者を、その者にとって特別な場所へと導いてくれる地だ。だがその代償も大きい。お嬢ちゃんも踏み込めばどうなるかわからないよ」
「……」
目の前の老婆はなにを言っているのだろう、と不信に思っているのに、なぜかその話はしっくりと頭に入ってきた。まるで、以前から知っていたかのように……。老婆はなおも続けた。
「この森をあまり見るんじゃないよ。魅入られれば、連れて行かれるからね」
「……――――」
なにも言えずにいると、しばらく結希を見ていた老婆はハッとしたように、両の目を見開いた。
「お嬢ちゃん、あんた――」
なにかを言いかけ、思いとどまるように口を閉じる。
「――?」
「いや、なんでもないよ。暗くならないうちに早くお帰り」
そう言って、老婆が見守る中、そそくさとワスレジの森を後にする。見つかったことに対して罪悪感があった。自分がなにを思っているのかなんて相手にはわからないはずなのに、なぜか悪いことをしていたような気持ちになった。
老婆の言葉にも引っかかるものがあったが、その正体が何なのか判然とせず違和感の正体は形をうやむやにして意識の隅へと追いやられた。
日が落ちてきた。藍色へと変わってしまった空の下、次こそは家路につく。風が冷えてきた。身震いして歩く、その足はとても重い。
「ただいま――」
家の扉を開け、いつもの様に靴を脱ぎそろえる。だが、いつもならば帰ってきてすぐに聞く母の小言がないことに違和感を覚えた。玄関前、リビングへと続く廊下を歩く。リビングの方から、かすかに声が漏れ聞こえてきた。
「――ゆき――……?」
自分の名前が聞こえたように感じて、リビングの戸の前で立ち止まった。興味から、耳を戸にあて、中のようすを窺った。
「――結希ちゃんを、僕の許婚にしようと思います」
「――!?」
思いがけない話しに、思わず声が出そうになり、口を手で押さえる。凛々しい声だ。真面目な颯真の様子に、母も冗談などではないと感じとったようだった。もとより、颯真はそのような冗談を言うような性質ではないが。
「結希、なんかでいいの?特にこれといったとりえもない子だけれど……」
結希の心配というよりは、颯真側の心配をした口ぶりだ。それに対し、颯真は大きくかぶりを振って、真摯な面差しで母に向き合う。
「僕は結希ちゃんを許婚にしたい。結希でなければだめなんです」
「………」
言い切る颯真にたじろぐ気配がした。結希は母が断ってくれることを祈った。なんたって、その人は結希に酷いことをした張本人なのだ。少し前までならいざ知らず、今ではもっとも嫌いな人だ。自分を襲った相手と結婚したいだなんて、誰が思う。結希は母を信じていた。いくら颯真を信用している母でも、一人娘をそうたやすく手放すなんてことはしないだろう。それに、肝心の結希の気持ちを聞いていない。この状況ではなにも言えないはずだ。いくら颯真の立場が家柄的に上とはいえ、娘の話しを聞いてからということになるだろう。結希はそう信じていた。
「それなら、安心ね。わたしとしても嬉しいわ、こんな立派な息子ができるのなら」
「え……」
思わず声が漏れる。幸い中の二人には聞こえていないようだった。結希の顔が青ざめる。結希は颯真になにを言われても、されても逆らわなかった。それはひとえに、家族のためだ。両親には、自分達が大好きな仕事を続けてほしい、そう思ったから。母になんと言われても、最後は結希を選んでくれると信じていた。それなのに……。信じていたものが儚く散っていった気がした。声が先ほどよりも遠のいて聞こえる。
「では――」
「ええ、娘にはわたしから伝えておくわ」
――私の意思は?
自分の中のなにかが決壊する音がした。
「ちょっと待ってよ!!」
思わず、リビングの戸を開け放す。溢れ出る感情を制御することができない。こんなこと、初めてだった。明るいリビングの中、二人の驚いた表情がよく見える。日ごろ大人しい結希の突飛な行動と、ここに結希がいることへの驚きの両方が混ざったような顔をしていた。
「結希――?」
「結希ちゃん?」
二人は呆然と結希の名前を呼んだ。しかし、いまの結希は止まれない。
「なに私のいないところで勝手にそんな大事なことを決めようとしてるの?第一、その人は――」
思わず、言葉が止まる。颯真が鋭い目で睨んでいた。先ほどまでの様子とはまるで違う。その双眸に手がふるえたが、強く拳を握り気を紛らわす。今更、止められなかった。母の瞳を真直ぐに捉える。
「……私をちゃんと見てよ。私をないがしろにしないで!!」
叫び、リビングを飛び出す。
一刻も早く、その場から立ち去りたかった。先ほどのローファーに履き替え走り出す。後方から二人の結希を呼ぶ声がしたが無視する。すっかり暗くなってしまった空には、寒くなるほど、瞬く星空がいっぱいに広がり、輝いていた。結希はそんな光景も今は見ることもなく駆ける。
さきほどの思わず出てきた言葉に、自分でも驚いていた。ああ、自分は寂しかったのか。ようやく溜まっていたもやもやの正体が理解できた気がした。クラスでの他生徒からの視線を思い出す。決して友好的とは言えない態度。自分よりも颯真を尊重する母。唯一、味方でいてくれた颯真からの裏切り。
疎外感をどこかでずっと感じていた自分がそこにいた。
もう、どうでもよかった。
美しい星空も、並ぶ山々も、学校も、颯真、母、そして自分さえ。
「消えて、しまいたい」
思っていれば、夕方に立ち寄ったあのワスレジの森の前にいた。「行方不明ですって」というおばさんたちの声が耳元で聞こえた気がした。夜は一層不気味に森が口を開く。ザワザワと揺れる木が、まるでこちらを手招いているかのように見える。夕方に会った老婆の話が思い起こされた。
『魅入られれば、連れて行かれるからね』
心配そうにこちらを窺うかのような声だった。止めてくれたあの老婆には申し訳ないが。
「もし本当に連れて行かれるというのなら、どこでもいいから私を連れて行ってよ」
力なく声にだし、結希は森の奥へと進んだ。
ようやく次から異世界編にうつります!