序章4~壊れた彼~
薄い水色の天井を見つめる。
自室の天井はどこか寒々しいが、結希にとっては落ち着く色だった。外では暗闇が自分の出番だと世界を闊歩し、風のかすかな音といまだ我らの番だと自己主張の強いカエルの鳴き声が窓から聞こえる。颯真が我が家に居候をはじめ、平穏に日々が過ぎていくが、結希は最近よく見る変な夢が気にかかった。
女の人と、いまにも心がつぶれてしまいそうな男の人の夢。あれはなにかの暗示なのかとも思ったが、なにも変わらぬ日常にそういうわけでもなさそうだと結論をだした。
「颯真くん、変わってなくてよかった」
改めて思う。人間は変わりゆく生き物だけれど、やはり自分の知る相手のままであることに安堵した。このまま、自分も変わらずに人生を終えるのだろう。母の言うことに従い、引かれたレールの上を歩く。
「それも、いいか」
諦めるように呟く。人を従わせようとする、あのような母でも、泣いた顔は見たくなかった。自分が我慢してみんなが幸せになるというのなら、その方がきっといい――。
そんなことを思いながら、いつのまにか眠りに落ちていた。久しぶりの颯真に、浮かれてはしゃぎ過ぎたのかもしれない。結希は意識の底に沈むように、眠りについた。
微睡の中、泣いている男の人が見える。いつも夢に出てくる彼だと、とっさにわかった。その姿がひどく寂しそうで、一人ではないのだと言ってあげたいのに声はかすれ、腕は血が通っていないのかと思うほどなんの感触もなく、一ミリも動いてはくれなかった。目もろくに開くことができない。それなのに、近くに彼がいることだけは不思議と分かった。
――お願い、泣かないで、私はいつでもあなたのそばにいるのよ。
自分の声ではない、凛としながらも優しく透き通るような声が頭の中で響く。そんなに彼を想っているのに、どうして彼女は彼のそばにいられないのだろう。
疑問を浮かべるも間もなく、髪をすく手の感触がした。愛しむように、そっと触れる手がなによりも語っているような気がした。つぎに、唇に何かが当たる感触がする。少し湿り艶やかなそれは、狂ったように何度も重ねられる。
「――んっ」
息苦しさに、まだ眠気が残る目を必死で開けようとする。夢の中にしてはリアルすぎる感触に脳が覚醒していく。これは夢じゃない、現実だ。
「い、いや!!」
相手の胸板を押しやって、苦しさの元凶から距離をとる。ベッドの上、その人はしりもちをつくように、体を手で支えていた。部屋の暗がりの中、ぼんやりとした橙色の灯りに、犯人の輪郭が浮かぶ。
「……なんで」
再会をはたしたばかりの男の子がいた。下を向いていて、表情まではわからないが、再び会えることを待ちわびていたのだ、間違えるはずもない。では、結希に先ほどキスをしたのは颯真ということになる。こんな状況でなければ喜んでいたのかもしれないが、今はとてもじゃないが喜べない。話す言葉がふるえた。
「ど、どうして颯真くんが私の部屋に?」
世界から音がなくなってしまったかのように静かになる。まとわりつく汗が冷えて、肌寒い。その数秒後だった。彼の肩が細かく揺れた。
「……ふふ。どうして?それさ、本気で言ってるの?」
「え――」
いつもと大きく様子の違う颯真に戸惑う。颯真はもっと柔らかい口調のはずだ。それが今では異様な雰囲気を身にまとっている。狂気にも近いような、今にものみ込まれてしまいそうな、それはまるで深淵のようで。
「颯真くん、なんか変……」
「……変?」
その言葉が合図だった。颯真が狂ったように笑いだす。
「はははっは。変、僕が変!?」
「……」
「は――。本当に結希ちゃんはおもしろいよね」
なにが面白いのか、お腹を抱えて気のすむまで笑った颯真は、息を吐きながら結希に近づいた。
「そんなこと、今更だよ。気づいていなかった?僕はとっくに壊れていたんだよ」
「な、なにを言っているの?颯真くんおかしいよ」
「だから、そんなことわかってるんだよ!!」
「……ひっ」
急に怒鳴りつける颯真に鼓動がはやまる。怖い、そう思った。大好きな、従兄弟なのに。鋭い目がおびえる結希の姿を捉え、細められる。
「ああ、ごめんね、怖がらせちゃったね。でも、自分ではどうしようもできないんだ。体が自分のものじゃないみたいに……」
颯真自身が自分のことを一番怖がっているようだった。理由はわからないが、何かがおかしい。
「ああ。いまもね、キミを襲ってかき乱して、僕のものにしてしまいたくて仕方ないんだ。ダレの元へもいけないように、ダレのものにもならないように」
「そ、颯真くん?」
颯真がゆっくりと距離を詰めてくる。獣のような瞳孔に、身がすくむ。かろうじて動かせる右手で体を引き、颯真から距離を取ろうとする。しかし、その抵抗もむなしく、結希が身を引いた倍の距離を颯真は詰めてくる。どうすることもできず押し倒された結希の上に颯真が覆いかぶさる。両手首を一括りに頭上で押さえつけられた。
「や、やだ。助けて!」
強い力で口を押えられ、颯真の端正な顔が近づいた。
「し――。助けは呼ばせないよ」
くつくつと笑う彼に体の震えが止まらない。
「助けを呼ぶことは、キミにとってもよくないと思うな」
「――?」
どういう意味なのか分からない。口を押えられ話せないため、目で疑問を投げかける。颯真は耳元で愛の言葉を吐くかのように甘く囁いた。
「キミの両親がいったいどこで働いているのか――。ここまで言えば、わかるよね?」
「――!」
それは従わなければ、両親を解雇するということを示していた。
結希の両親はハヤミ製薬会社の下請けの小さいメーカーで働いている。もし、颯真に会社の悪い噂でも流され、商品の依頼がなくなってしまえば、収益の七割がハヤミ製薬会社からの依頼で賄われている両親の会社にとって死活問題だった。
普通ならば噂ばかりでなく、しっかりと調べてくれそうなところだが、颯真はその優等生ぶりゆえにハヤミ製薬社長、つまり颯真の父からの信頼があつかった。そして何より、たくさん颯真に寂しい思いをさせてきたことに罪悪感があるのか、颯真の父は颯真のいうことを鵜呑みにしてしまうようなところがあった。動きを止めた結希に、口元から手が離れる。
「わかってもらえたかな」
颯真は落ち着いている。その様子が何より不可能ではないということを証明しているように見えた。颯真の耳にかかっていた髪が滑り落ちてくる。結希にベールがかかっていくように、髪が絡み付き結希は囚われる。抵抗しなくなった結希に、口元の手をゆっくりと離した。
「かわいそうな結希ちゃん」
「あっ――」
頬に滴が伝う。こんなふうに言いくるめられようとしているのが悲しかった。また自分は諦めるしかないのか、そう思うとむなしくなった。颯真に対しふつふつと湧く、憎悪のようなもの。相手のことを好きなら、こんなことはできないはずだ。颯真が自分のことを嫌っているのだと思うと悲しい。そしてなにより、大好きだった颯真が自分の知らない人になってしまったことがつらかった。
「泣く姿も、綺麗なんだね」
そう呟いて、颯真が零れる涙を口ですくいとる。
「――っ」
そんな行動も、恐くて仕方がない。結希は嗚咽を殺して泣いた。両親には気づかれないように。私のせいで迷惑はかけられない。泣かせたくなんてない。
「……自己犠牲。結希ちゃんはやさしすぎるんだよ、きっと」
そんなことを言いながらも、颯真は執拗に口づけをする。額に、瞼に、頬に、唇に――。
「でも、そんな結希ちゃんだから、僕は……」
声が遠くなり、最後までは聞き取れなかった。遠くのカエルの鳴き声だけがどこかとぼけて聞こえる。これがすべて夢ならいいのに、結希は疲れてぼんやりとした意識のなかで、そのことだけを強く思った。
ん~、言っておきます!
今のところ超暗いです!