序章3~忍び寄る影~
数日後の残暑の季節。
蝉しぐれが響くなか、颯真が数少ない荷物と共に結希の家へとやってきた。
「荷物、それだけ?」
半年間生活するにしては少ない荷物の量におもわず声をかけると、颯真は手に持っているものを一瞬見てから目を細めた。
「まあ、僕の今持っているものはこれくらいしかないからね。それに、大切なものは……」
目が合って鼓動がはやくなる。久しぶりに見た颯真は3年前よりも背が伸びて、結希と同じだった身長は今では頭一つ分も違っていた。鞄を持つ手も以前よりも骨ばって、ごつごつとしている。男の子らしくなった颯真に、少しだけ頬が赤らんだ。
「それより、久しぶりに会っての第一声が荷物に関してってどうなの」
噴き出すようにくしゃっと笑う颯真。
「だ、だって気になったんだもの」
本当におかしそうに笑う颯真に頬を膨らませる。
「僕の荷物が?」
「……荷物が」
素直に言うと、なぜだかこちらまで可笑しく思えてきた。今度は目を合わせて二人で笑う。この雰囲気が懐かしかった。見た目は成長していても、変わらない颯真に安堵する。一通り笑い終えた颯真が息を吐き、再度挨拶をする。
「改めて、結希ちゃんよろしくね」
「こちらこそ、よろしく!」
腕から伝い落ちる汗に、最後の夏を感じた。
翌日、久しぶりに来て変わった場所もあるだろうと、結希が学校までの道を案内することになった。別の高校だが、二人が通う高校の立地は近く、結果的に颯真にとっても親しみやすい結希が道案内をすることになったのだった。
車一台がようやく通れるくらいの広さの道を歩く。電柱が一定の間隔で立ち、田畑が四方を覆っている。夏が終わり秋が始まるこの季節は、早くも稲穂が黄金色に輝いている。一面の黄金世界に、思わず目で追ってしまう。時折、風が戯れるようにして、穂を揺らした。遠くのほうには、雑木林が見える。見渡しても人一人いない。昔から変わらずここだけが世界から取り残された空間のようだった。
「どう?久しぶりにこちらへ来てみて」
足元の小石が靴にあたって、カラカラと道の端へ転がっていく。
「たしかに久しぶりに訪れるけど、この光景は変わらないね」
「そうだよね。ここだけすごく田舎でびっくりした?」
結希が住んでいる弥生町は比較的街の近くに位置しているのだが、国道を隔てれば、そこは田畑が広がる緑に包まれた土地に変貌する。都会のビルやデパートが位置する街に家がある颯真からすれば、ここはさぞ田舎に見えるだろうと思った。
「いや。こんなにも空が広く見えてたんだな、と思って」
馬鹿にしているのではなく、純粋に風景に感嘆し、憧憬の眼差しで颯真は空を見ていた。仰ぎ見る颯真の横顔に、なぜか泣きたくなった。いつも颯真はなにかを我慢しているように見えるから。けれどなにかをいう勇気もなくて、小さく同意をするだけだった。
「――そうだね」
しばらく無言で歩いていると、遠くの緑の山を見ながら颯真が呟いた。
「結希ちゃんは僕のこと、どう思ってる?」
「え!?」
急な話の展開に思わず足を止めてしまう。
「な、なに?どうしてそんなこと?」
おさまらぬ動揺のなか、とりあえずその意図だけでもきこうと声に出す。鼓動が早い。頬が赤くなっていませんようにと祈りながら、動揺を悟られないように平静を装う。
「さあ、なんでだろう。……とりあえず、答えてみて」
「……」
どうしたことだろう。なんでだろう、ときた。しかも、とりあえず答えてみて、ということだ。そして、これはどういえば正解なのだろう。好きです、なんてもちろん言えない。いきなりすぎて、まだ心の準備が出来ていない。では、家族として?それなら親戚だが、そこで肯定されでもしたら、それはそれで複雑なような……。
頭が混乱して、ろくな考えが浮かばない。と、とりあえずなにごともなさそうな回答をと出てきた言葉は――。
「そ、颯真くんはとても優しいし、いい人だよ」
なんだそれは。
言ってしまってから、激しく後悔する。当たり障りないことといえど、他に言葉があるだろう自分、と語彙力の低さを嘆く。これだけ親戚として長い時間をともにしてきて、答えが優しいいい人なんてあんまりだ。
「いい人、か……」
心なしか沈んでいる様子の颯真に、心の中で誠心誠意謝る。本当にごめんなさい、意気地なしでごめんなさい。もしかしたら、最大の告白のチャンスかもしれなかった瞬間を、盛大に逃すどころか引きちぎって放り投げるくらいのことをした結希は、心の中で再度頭を下げた。
十五分ほど歩いたところで颯真が通うことになる星城高校が見えてきた。地元では有名なお坊ちゃんお嬢ちゃん校の星城は、遠目にみても眩しいものがあった。とりあえず、制服が白い。光が反射して眩しい。そして、そんな白の制服に身を包んでいる颯真くんも眩しい。先ほどの失態はなるべく忘れる方向で。
「送ってくれてありがとう」
「ううん、いいよいいよ。今日は初日だし、一応帰りも一緒に帰ろう」
「本当にありがとう」
さっきのことはもう気にしていないのか、あふれる笑顔で答える颯真。そんな彼に、首を振って大したことはないのだと結希は伝えた。
そんな中、ふと、颯真が声をあげた。
「あ、あのさ!」
「ん、なに?」
「帰りもこっちまで来てもらうのは悪いから、僕が結希ちゃんの高校まで迎えに行くよ。たしか、ここへ来る前の枝分かれになっている通りを右にいけば結希ちゃんが通う高校だよね」
「そうだけど……」
そういえば、来る途中にここらの道を覚えてもらおうと説明したことを思い出す。
「嫌、かな?」
心細そうに言う颯真に首を振る。
「そ、そうじゃなくて、いいのかなって」
「なにが?」
本当にわからないというように颯真は首を傾げる。結希は言おうとして口を閉ざした。早見家のお坊ちゃんである颯真に対して、初日からこんなことをさせてもいいのだろうか。母の「粗相のないようにね」という言葉が思い出される。けれど、この誘いを断れば、また颯真は寂しい思いをすることになるのではないか。たった一人の従兄弟にさえ距離を置かれてしまっているとは思わないか。それは、一種の差別になってはしまわないか。そんなことを考えると断れなくなった。自分が後で怒られるのだとしても、颯真にはこれ以上寂しい思いはしてほしくなかった。たった一人の従兄弟、だしね。
「ううん、なんでもない。じゃあ、颯真くんが迎えに来てくれるの待ってるね」
「うん、待ってて」
笑顔で手を振る彼に応える。後悔という言葉はよくできていて、後から立つものだということを、この後結希は身に染みて知ることになった。
「や、やってしまった……!」
結希は焦っていた。放課後に待っていると約束したのに、玄関先で同じ委員会の男の子につかまり、気づけば約束の時間を過ぎていた。要件は結希が所属する美化委員の清掃の日が変更になったことを告げるものだったが、その男の子がなかなか解放してくれず、ようやく話が終わった時には、もう家についていてもおかしくない時間だった。
「少し話すだけだったのに……。颯真くん、いるかな」
もういないかもしれないな、と半ば思いながら校門まで向かう。道すがら、他の生徒の声が聞こえてきた。
「あの制服って星条の生徒だよね?なんでこんなところに?」
「ね!すごくイケメンだったし!!だれか待っているのかな!?」
「えー、彼女とか?ありえないって、立場違い過ぎ」
笑いあう生徒達と目を合わせないようにする。
彼女達の話をきいて、まだ颯真くんがまっているのなら急がなければという思いと、もう一つ後ろめたい思いが心の中に湧き出てきた。
(そうだよね、颯真くんと一般人の私じゃつり合わない)
やはりこんな感情ははやく消してしまった方がいいのだ。胸が痛んだが、見ないふりをする。その方がきっといい。自分の気持ちに心の中でいいわけをした。
校門の近くまで行くと、一人だけ制服の違う男の子が立っているのが見えた。良質な布地に、縁色のつる草模様の刺しゅうを施した上品なデザインの制服は星条高校特有のものだ。制服だけでなく、彼自身も端正な顔立ちと放たれるオーラに、人の目を惹き付けるなにかがあった。彼だけが別世界の人間のように見える。
「颯真くん!遅くなってごめん!!」
駆け寄って謝る。息が上がり、膝に手をつく。遅れてしまったことに対して心から謝罪する。具体的な時間を決めていたわけではなかったが、待たせてしまったことは事実である。
おそるおそる顔をあげると、一瞬ドキリとした。
颯真から綺麗に表情が抜け落ちていた。心臓が脈打つ音が耳元で鳴っている。夏の名残を思わせる熱い風が耳元を通り過ぎた。汗が、伝い落ちる。
「あ、その……」
うまく口が回らない。怒らせてしまった、どうしよう。
そのことで頭がいっぱいになる。なにか言わなくては、そう思った矢先に口を開いたのは颯真だった。
「びっくりした?」
「――え?」
破顔した颯真が目の前に立っている。その表情を見て、結希は自分がからかわれたのだと悟った。
「え、うそ?」
「うん、そうだよ」
爽やかにそう言ってのける彼に、全身の力が抜ける。
「――なんだ。もう、びっくりしたー」
「ごめん、ごめん。結希ちゃんが慌てる様子が見たくてつい」
「ついじゃないよ。本当にびっくりしたんだからね!」
ごめんと言いながらも笑っている颯真に唇を尖らせる。こうしていると、昔に戻ったような気がしてくる。昔はこんな感じだったと思い出した。
「そんなに驚かせたなら、ごめんね。けど、僕もさすがに少し遅れたぐらいじゃ怒らないよ。そんなに、心の狭い人間に見える?」
「見えなくはない、かも?」
仕返しとばかりにおどけて言うと、颯真は顔を手で覆う仕草をした。
「ひどい!」
茶番に全力で乗ってくれる様子に、噴き出してしまう。
「ごめん嘘!そうだよね。私も早とちりしてごめんね」
改めて謝ると、颯真は気にしていないのだと笑った。
「ううん。それじゃあ行こうか」
そういって歩きだす颯真について行く。内心、怒られていないとわかって心底ほっとしていた。一瞬ではあったけれど、表情の消えた颯真は本当に怖かった。そこには、結希の知らない颯真がいるような気がした。
先ほどの様子を反芻する結希は気づかなかった。少し先を歩く彼が小さな声で呟いた言葉が、暗い響きを伴っていたことを。
「怒らないよ。少し遅れたくらいじゃ、ね」
いまだ強い夕方の光が、二人の影を長くのばしていた。