呟き
「……帰る」
敏感に人の負の感情を読み取ったキールが踵を返そうとする。それを止めたのは、クリメントだった。
「ま、待って、くれ」
前脚をつかまれたキールは、振り払うことはせず、黙って立ち止まった。キールが行ってしまわないことを確認すると、クリメントは娘であるアンナに向き直り、肩に手をおく。視線を同じ高さにまで下げて、落ち着いた声音で告げた。
「アンナ。この、ひと達は、大丈夫だ。怖くなんて、ないんだよ。ウヴェーリ、でも、ケガをしていれば、人と変わらず、ケガ人、だから」
言葉は拙くとも、真摯なクリメントの言葉に落ち着きを取り戻した様子のアンナが頷く。
「うん、わかった。おとうさんが言うんだもん。いい人達、なんだね」
随分と素直ないい子だ、クリメントに似たのだろう。結希達に笑いかけてくれる。八重歯をのぞかせて笑う姿は、こちらの心まで温かくさせた。
コンパクトなドアから、キールは器用に家の中に入る。外観だけではない、暖かな部屋が結希達を出迎えてくれた。
「どうぞ、ゆっくり、してください」
クリメントはそう言うと、薬草がおさめられているのだろう、奥の部屋へと入っていく。
興味深げに、結希は家の中を見回した。家の中には暖炉があった。これのおかげで暖かいのかと目が行ってしまう。日本ではなかなか目にしない。暖炉の脇には薪が積まれ、中にもいくつか薪がくべられていた。ぱちぱちという音に合わせて、炎も揺れる。そんな暖炉横の壁には、弓矢と槍がフックにぶら下がったり、立てかけられたりしていた。あまりにクリメントには不釣り合いなそれらに目を向けていると、低い位置から幼い声がした。
「それは、おとうさんのだよ」
視線を下げると、はにかむアンナと目が合う。
「そうなの?」
クリメントの細い体躯で、これらの武器が扱えるのだろうか。想像しようとして、失敗する。その様子を目敏く察したのか、アンナがそれらを見ながら苦笑した。
「似合わないよね、アンナもそう思う。実際おとうさん、狩りがとても下手なの」
「そう、なんだ」
置かれていた武器は、狩りをするための道具だったらしい。そもそも、クリメントが狩りをするということが驚きだった。草に詳しかったため、てっきりクリメントは薬草などを取り扱う仕事をしているものとばかり思っていた。草木に関しては、山に住んでいるうちに詳しくなったのか。では、狩りが本来の生業なのだろうか。森の中にある家なのだから、狩りをするのは普通の成り行きなのかもしれない。このような森の中だと、結希達のいた世界でいうイノシシみたいなものでも狩るのだろうか。
考えていると、アンナが楽しそうに声をもらした。
「狩りは下手だけど、かわりに薬草にはものすごく詳しいんだ。アンナが熱を出した時もね、おとうさんが薬草で作ってくれたのを飲んだら元気になったんだよ!!」
すごいでしょ、といわんばかりの満面の笑みでアンナが言う。言葉が絡まりそうになりながらも、必死で伝えようとしてくれる。身振り手振りで説明するようすに顔がほころんだ。
「ほんとうに、お父さんのことが好きなんだね」
「うん!――けど、ね……」
「――?」
大きな頷きの後の奇妙な間に首を傾げると、アンナは自分の靴を所在なげに見つめていた。
「アンナはね、狩りより薬草を採ってくるおとうさんの方が、好き」
呟くような声だった。面と向かっては言えないのだろう。漏れてしまったその言葉に、結希はただ頷いた。
「――そっか」
下を向くアンナから視線を外して、目の前に立てかけられた槍を見る。刃が鈍く揺らめいて見えた。
「これを、飲んで」
奥の扉から姿を現したクリメントが口の広い、茶碗の形をした器をキールに差し出した。手には他に、薬草と思わしき草が大量に入ったザルが抱えられていた。クリメントがキールの横に腰を落ち着け、処置を行う。その間もキールは大人しくしていた。そのことにほっとして、縁取りされた小さな窓から外を眺める。
「なかなか降りやまないね」
幼い声が、結希も思っていたことを口にする。アンナの目もまた、外に向けられていた。
「そうだね」
視線はそのままで、アンナに答える。静かに降り続ける雪が、地面へと吸い込まれていた。
処置を終えたキールが、少し離れたベッドの上で眠りについている。いくらウヴェーリが頑丈な身体とはいえ、さすがに疲れが出たのだろう。聞こえてくる寝息は深いものだった。
「どうして、ウヴェーリ、と一緒に?」
勧められた暖炉の前に置かれた木のイスに座ってキールのようすを窺っていると、すぐ右横から声がかかった。イスを暖炉の前まで引いてきたクリメントが並んで座る。暖炉を囲む形になり、クリメントはじっと暖炉のなか、ゆらゆらと揺れる炎を見つめていた。
手の先に視線を落とす。どう説明をしようか、少しの間ができた。
「……。さきほども話した通りです。ただ、私が森に迷い込んでしまって、それを助けてくれたのがキールだったんです。というよりも、私が押しかけて迷惑をかけてしまったというか――」
「……そう、か。この国にも、まだ、いたんだな。ウヴェーリ、を嫌わない子が」
窓がガタガタと鳴る。冷たい風が窓をたたきつけているようだ。クリメントのこの国にも、という単語が引っかかる。結希は拳を握った。
「――実は、私はこの国の人間じゃないんです、けど」
「そう、か」
「驚かないんですか?」
問うと、逆にクリメントはどこか納得したように、結希を見て頷いた。服や、考え方の違いが大きいのだろう。キールが寝静まっているのを改めて確認して、結希はクリメントに向き直った。聞きたいことがある。キールは教えてはくれなかったから、クリメントにしか聞けない。
「あの、どうして、人間とウヴェーリはこんなにも仲が悪いんですか?」
「……」
迷うように口を噤むクリメントに頭を下げる。そこがわからない限り、結希はキールになにも返してあげられないように感じた。あの寂しそうな目の正体もわからないままだ。
「教えてください!!」
クリメントは少し考えた後、ぽつぽつと話し出した。