人間とウヴェーリ
洞窟内にキールの姿はない。驚愕に震える声音は背後から聞こえた。
クリメントが結希に背を向け、少し距離を置いた先にいる白銀の狼を凝視している。目は大きく見開き、唇を紫色に変色させ、のぞく不揃いな歯が鳴っている。体の脇にある手が小刻みに震えていた。人間がここまで怯えるさまというものを結希は初めて見た。
キールが人間嫌いだということは知っていたが、人間もそうなのかもしれないということは考えてもいなかった。キール個人の話などではなく、もっと大きな種族間の問題なのだと、この時初めて結希は感じた。
そういえば、キールは個人の名前ではなく「人間」と呼んでいたし、はじめのころ名前を聞いた時も自分のことをキールという名前ではなく、「ウヴェーリ」なのだと言っていた。自分はなにかとんでもなく大きな間違いを犯しているかもしれないと結希は焦る。
クリメントの声で気が付いたのか、キールがこちらを向く。クリメントの存在に気付くと、眼光が冷たく鋭いものへと変わった。
「なぜ人間が!!」
そう唸ると、一気に距離を詰める。
「ひっ!!」
そのあまりの速さに、クリメントは半歩後退った。結希は一度の跳躍で、一気に間合いを詰めたキールに驚く。とても近いとはいえない距離だったのに、キールは一足で手の届くところまで来てしまった。その運動能力の高さに目を見張っていると、前にいたクリメントがおもむろに腰につけたベルトのようなものから鈍く光るものを手にした。
「クリ、メントさん?」
握られていたのは、仄暗く鈍い光を放つ銀色の短刀だった。その刃を白銀の毛並の彼に向けている。
(ああ、キールのあの傷は……)
そこでようやく理解した。キールの傷がなぜできたのか、自然にできるものにしてはあまりに綺麗に切れすぎていたあの痕――。
クリメントがそれでなにをするつもりなのか、この様子では答えは一つしかなかった。
「クリメント、さん」
背を向けているクリメントに話しかけるが、結希の声が聞こえていないのか、なんの反応もなく、ただただ目の前にいる巨大な敵を睨みつけていた。クリメントの肩越しにキールが見える。
目をやると、視線が交差した。
「……アンタもか」
小さく呟かれた声。ひどく耳に残る声。絶望と落胆と少しの悲しさが混ざった音だった。
(ちがう、そうじゃない)
誤解だと言いたいのに、声が詰まって出てこない。キールの悲しい様子は一瞬で奥に隠れ、軽蔑の眼差しが向けられた。
その目は「人間」を忌み嫌う「ウヴェーリ」のものだった。
「人間なんて皆いなくなってしまえばいい!自分のことばかりで、他の者のことを見ようともしない。そんな種はいらない。いるだけで罪だ」
淡々と語るキールに表情はない。一切の感情を剥いだ顔。怖い、そう思った。けれど、その顔にさせてしまったのは自分だ。目の前で耳を塞ぎたくなるような呪詛が吐かれる。
「この害獣が!お前らの、存在こそ、この国の汚点だ!!」
その怒鳴り声が、あの優しく親切にしてくれたクリメントから発せられたものだとは思えなくて、結希は肩を揺らした。ここには恐怖と憎悪が渦巻いている。今までにない嫌悪や憎悪の感情に結希はのみ込まれそうだった。
(こんなことを、望んでいたんじゃない。私は、ただ……)
元いた世界での自分の姿と重なる。誰にもなにも言えず、結希一人を置いて周りだけが進んでいく。結局、なにも言えずに終わってしまうのだろうか。
「話しあいは無駄だな。その喉笛、噛み千切ってやる!!」
キールがクリメントに襲いかかろうと身をかがめる。クリメントは刀をキールに向け、一突きにと足を踏み出そうとしていた。
「やめて!!!」
気付くと体が動いていた。結希はクリメントを後方へ押しやり、二人の間に体を滑り込ませた。
「「!!」」
突然間に割り込んだ結希に、二人は固まる。目の前にいるキールは鋭くつり上げていた目を、大きく見開いた。後ろからも信じられないといった声があがる。
自分でも無意識の行動に驚く。けれど、どうしても黙って見ていることができなかった。もう、なにも言えずにいる自分のままではいたくなかった。なにより、他人であるのに自分に親切にしてくれた二人を放っておくことなどできない。
「なぜ、とめる。ソレ、はウヴェーリだぞ」
「ソレなんて呼ばないで!!」
叫ぶようにクリメントの言葉を否定する。どうしても、言ってほしくなかった。とても優しいキールのことをモノのようになんて。特に、同じく優しくしてくれたクリメントの口からは聞きたくない。クリメントに向き直る。
「私の友達を、ソレなんて言わないで」
喉がひりつく。キールが息を呑む。あとでいつから友達になったんだ、とか言われそうだったがそれでもかまわなかった。いまはこの諍いを止めることだけを考える。
(だって、こんなのいやだ)
どちらも本当は優しいひとだから。拳を握る。二人に気持ちが伝わるように声にする。
「命をとりあうのが当たり前みたいな……。こんなの、おかしい」
鼻の奥がツンとした。俯いた先に見える雪がやけに眩しくて、痛かった。
二人はなにも口にしなかった。