41.突然の寒気
トニーヨは身震いと共に目を覚ました。
吐く息が白い?もう冬が来たのか?暖房を入れないと……と起き上がろうとしたところで気付く。ここはユメリエンのホテルの一室だ。
寒い?この常夏の国が?それもまだタークォンが夏の時期に?
慌てて起きて、窓を開けた。飛び込んでくるはずの熱気を感じない。
「これは一体……」
ところがすぐにすーっと冷えが消えていくのが分かった。寒さを感じていた分、体が急に熱くなったように感じて気持ちが悪くなり、慌てて窓を閉めた。
しかし部屋は冷えないし、暑くもならない。冷えた影響が収まると、恐ろしいほどに快適な温度に変わった。
変な夢でも見たのだろう。昨日は色々あったから。そうだ、そのせいに違いない。
トニーヨはすっかり目が覚めていたので、着替えて顔を洗い、廊下に出ることにした。早朝のユメリエンを少し歩いてみてもいいと思ったのだ。日が高くなる前に戻れば誰にも気付かれないだろう。気付かれたところで、ここでは皆が許してくれるのではないか。多少の散歩くらいは……。
考えながら廊下を歩き出したところで、急に真横の扉が開き、危うくぶつかりそうになった。
「おぉ、トニーヨ。寒さで起きたか?」
「殿下も!」
言ってから、口を押える。なるべく身の上が分からないようにしなければならないのに。異国にお忍びで来ていたことを、早朝の頭では失念していた。
「夢じゃねぇよな?」
「同じく感じたのであれば、そうなりますね」
しかし不思議なことに、廊下も暑くはなかった。とても快適なのだ。これはユメリエンに寒気でも来ているのか?
「カイエーンはどうした?」
「彼なら、少しの寒さでは起きなそうですね」
トニーヨはそれほどカイエーンを知らないが、船旅というのはそれぞれの個性を強調させる。普段隠している、あるいは普段なら気にならない部分が、目に付いてしまうのだ。それでトニーヨは、おおよそカイエーンがどういう人物か理解した。
トニーヨの読みは正しく、確かにカイエーンはまったく気付かずに、ぐっすりと眠っているところである。
「あいつは気付いただろう。話しに行くぞ」
本当は皆、同室であるべきだった。警護という意味では側で控えることが必要だったのに、王子が夜くらい一人にさせろと言ったから、それぞれ別室なのだ。
これを止めるべきはイルハであろうに、彼はもっと自由で、三人部屋に泊まっていた。もちろんシーラとテンと共に泊まるためだ。王子がテンを引き取ると言ったが、シーラがテンと一緒がいいと言って聞かず、こうなった。
もっと酷いことには、シュウレンとタビトなど別のホテルに泊まっている。
タークォンの王子がここにあることを、誰が信じるだろうか。
「妻殿とご一緒ですよね?」
「テンもいるんだぞ?」
「しかしまだ早いので……」
「俺が気にしない。それでいいな?」
王子がドンドンと扉を叩くと、すぐにイルハが出てきた。着替えてあるから、起きていたのだろう。
廊下からは、客室の奥までは見渡せない構造で、王子の目線からはベッドの端が少し覗いているだけだった。
「どうされました?」
「さっきの寒さを感じたか?あれはなんだ?」
「……魔物が出たようですね」
はっとして目を見開いた王子が、静かに頷いた。部屋に入ろうとはしない。
「あいつは?」
「まだ寝ています。出来ればもう少し……」
「いい、寝かせておけ。今日はどうする?」
「出歩かない方がいいでしょう。これまで通り守って貰える保証はありません」
「それは……」
王子はイルハの余裕の意味をようやく知った。自分たちだけで問題ないと確かに思っていたし、イルハがこれに同意したのだから、自分を守る自信があるのだと考えていた。しかし、真実は違ったのだ。
昨日の今日であることが、王子に強い衝撃を与えている。今や王子は、以前のようにシーラを見られない。海にあると言っても、所詮小娘だ。なんとでもなる。王子の中にあったそのような甘い考えが打ち砕かれようとしていた。
トニーヨは廊下に立ったまま、静かに二人の会話を聞いていた。トニーヨには訳が分からず、入る余地もない。
急にイルハが振り返った。後ろからテンがやって来たからだ。テンはそのままドアとイルハの隙間を縫って、廊下に出てきた。
「おはよう、王子。あ、トニーヨもおはよう」
「おはようございます」
どうして自分の方が敬語なのかと、トニーヨは言ったあとで首を捻る。しかしやはり、この少年に対して今さら子ども扱いも違うような気がするのだ。
「ねぇ、王子。ホテルに居ても暇だから、観光しようよ」
「今日の予定は俺たちで考えるから……」
「俺がいれば平気だよ」
「どういう意味だ?」
「シーラがいいと言っていたからだよ。ユメリエンを観たくない?」
「本当に言ったのか?寝ているんだよな?」
「前から言っていたから平気」
「前からだと?」
王子は慌ててイルハを見たが、イルハは首を振った。どうやらイルハも知らないようだ。
「ふむ……おい、トニーヨ。どうする気だ?」
王子は急に振り向き、トニーヨに問うから、トニーヨは驚き姿勢を正した。すっかり油断して、ぼんやりしていたからだ。
「は、はい?」
「今日をどうしたい?」
「ど、どうと申されましても」
「ホテルに引きこもるか。観光するか。どちらがいいんだ?」
「観光も素晴らしいですが、暑さは大丈夫でしょうか?」
「それは平気だから、行こうよ」
「平気なんですか?」
「今、平気でしょ?」
皆が黙った。テンが言いたいことを考える。
「待て、待て。ちょっと待ってくれ。あいつは、大丈夫なのか?」
「たまに失敗されるかもしれないけど、別に平気だよ。死ぬほどにはならないから。たまに寒いか、熱いかくらいだね」
「待ってくれ。お前は魔物の件を……」
うーんという声がして、伸びをする音が廊下まで聞こえた。イルハが急ぎ客室の奥に消えていくから、王子がドアを支えている。
「おはよう、イルハ。起きていたの?」
「少し前ですよ」
「淋しいよ?」
ごほんと咳払いが聞こえ、さらにシーラのいつもとは感じの違う笑い声がした。
「まだ早いので、寝ていていいですよ?」
「朝ごはんを食べたいの」
「痛みはありませんか?」
「平気。あのお茶はいいね。ありがとう」
夫婦の声は廊下にも聞こえていた。珍しいことに、テンが口を開く。
「王子、シーラの食べられるご飯を買いに行くけど、どうする?」
「お前、どうした?」
「どうしたって……、シーラはここのご飯は好きじゃないでしょ?昨日のお店で買ってくるよ。王子が行かないなら、一人で行くからいいけど」
「待って、テン!昨日買ったケーキがあるの!テンも一緒にそれを食べよう!」
シーラの大きな声が届いた。テンは振り返り、頷くのだ。頷いたところで、シーラには見えない場所にあるのに。
「王子たちも一緒に食べる?甘いケーキだけど、沢山買ったからね」
「有難くいただくか。トニーヨもその方がいいな?」
「かなり有難いですね」
「じゃあ、みんなこっちへ……」
「お待ちください。すぐにお呼びしますので」
イルハが慌てて声を上げたときには、王子も苦笑しながら扉を閉めていた。
トニーヨも想像して勝手に赤面している。
「お前、知っていたのか?」
「何の話?」
王子には、テンが今まで通りの幼い少年にも見えなくなった。自分が気遣ったあれはなんだったのか。
いや、しかし、完全に知っているか、それも分からない。意味を知らないかもしれないし、シーラは別の形で伝えているのかもしれない。それで王子が悩み、絞り出した言葉がこれだ。
「シーラの体調はどうだ?」
「体調って?」
純粋な瞳に見上げられ、王子はさらに考えた。
「お前が朝ごはんを買いに行くなんて言うから、体調でも悪いのかと思ったんだよ」
「食べたいと言ったから、買おうと思っただけだよ。よく買いに行くし」
「そうなのか?」
「昨日も遅くまで飲んだと言っていたから。買って来てあげようと思っただけだよ」
やはり知らないのか。王子は考えを改め、話を変えた。
「お前は、観光してねぇのか?」
「少しはしたけど、全部は観ていないよ。王子たちは?」
「俺たちも少ししか観ていねぇな。暑くて、すぐに根を上げたんだ。なぁ?」
「申し訳ありません」
「いや、俺も暑くて駄目だった。暑くならずに済むんだな?」
「暑い方がいいなら、それも出来るよ。観光だから、その土地を感じた方が良かった?」
「いいや、もう十分味わった。なぁ?」
「えぇ。出来ればもう御免被りたいところです」
王子はじっとテンを見詰める。
「お前から聞く道もあったんだな」
テンもまた無表情で王子を見詰めてから口を開いた。
「俺が言うのは、シーラがいいと言ったところまでだよ」
「お前もかよ」
「シーラが一番だからね」
王子はふーっとため息を漏らしたとき、扉が開いた。
「どうぞ、お待たせしました」
中に入れば、変わらず元気なシーラが迎えてくれる。
「おはよう、王子!トニーヨもおはよう!二人はパウンドケーキって知っている?昨日食べたんだけど、とっても美味しくてね。テンも食べられるように、お酒のないものを買ってきたからね」
「ケーキにお酒?」
迷うことなく、ベッドに浅く腰を掛けたシーラの隣に座ったテンが不思議そうに尋ねた。
「こっちのケーキはね、果物をお酒で漬けたものが入っているんだ。昨日食べてとってもおいしかったから、テンにも食べて欲しくてね。だけど、お酒でしょう?飲み物じゃないけど、テンがどうか分からなったから。それでね、イルハがお店の人に聞いてくれて。お酒を使わない、木の実の沢山入ったケーキも買ってくれたんだよ。食べられそうだったら、両方食べてね」
テンが無表情で頷くと、シーラはその赤毛を撫で回した。
とても嬉しそうには見えないが、きっと喜んでいると、イルハは思う。この少年は、シーラからの愛情を欲しているというのが、イルハの見立てだ。本当はリタやオルヴェにも、もっと甘えたいのではないか。いつからか、そのように考えるようになった。勝手に考えること自体が、大きなお世話だろうと思いながら。
「あれ?カイエーンは?」
ようやくシーラが気付いた。カイエーンがここにない。
「起こす必要があるか、トニーヨ」
何故王子はトニーヨに聞くのか。しかしトニーヨの返答は早かった。
「まったくありません」
この回答にシーラが大きな声で笑ったのである。テンも我慢出来なかったようで、一瞬笑みを零していた。




