38.ユメリエンの裏側
レンガが何重にも並び積み上げられた高い塀の上に、一行は立っている。さながら城壁のようなそれは、皆の立つ場所からも左右へと長く広がり、全貌も見えない。
街の方を見れば、建物の切っ先が小さく並ぶ様子が見えたが、街の建物からはよほど高い場所に上らなければこちらが確認できないだろう。これまで続いた広大な草原を満たす草木が、この高い塀さえもよく隠していたし、街からは随分と距離があった。
しかし今、多くの者の視線は、街とは反対側へ向けられている。眼下に広がるカカオ畑は、樹々の生い茂る広大なジャングルに見えた。
「何も分からねぇぞ」
王子がぶつぶつ言いながら、樹々の隙間に何か重大なものが見えるとでもいうようにその視線を熱心にカカオ畑へと注いでいた。トニーヨやカイエーンも同様に、望遠鏡を使うなどしてカカオ畑を探っている。
一方、その奥ではシーラが腰を落として、足元に浮かぶ文様を撫でていた。レンガの上に蔦を描いたような細かい文様がびっしりと掘られている。
「これは魔術師の使う文様ですね?」
イルハが小声で聞くと、シーラは顔を上げて、ふわりと笑った。満足気な晴れやかな顔である。
「許可なしでは使えないようにしているね。イルハも分かるでしょう?」
隠すことなく、イルハもまた頷くのである。それをテンがじっと見つめていることにも気付いていたが、イルハはあえて反応せず、立ち上がろうとしたシーラの右手を取った。相変わらずの細く切った晒しが巻かれた手に触れ、彼は何を思うのか。
「この塀は何のためにある?」
王子が訪ねたとき、ただ腰に手を当ててカカオ畑を見ていたヤニが、ふーっと息を吐いた。
「あんたはいつも誰かに聞かないと何も分からないのか?」
王子がムッとして顔を歪めたが、トニーヨが慌てて口を開き主君の機嫌を取った。
「カカオ畑を守るためではありませんか?」
ヤニがそれを鼻で笑うのだ。
「守るにしたって、こんな高い塀があったら、日当たりが悪くなるじゃねぇか。ほら、塀の側のカカオなんか、葉の茂りも色も悪いぜ?」
「やはり何かを逃さぬためですな?」
カイエーンが言うと、今度はトニーヨが嫌そうに顔を歪めたが、しかしすぐに考えを改めて、状況を精査する。カカオ畑を今一度望遠鏡を使って見渡しながら、考えた。
「カカオ畑で働く者を逃したくないと?」
「王子、カカオがどういうものか知っている?」
突然シーラが明るい声で尋ねたとき、イルハは隣で微笑していた。
「は?これがカカオ畑なんだろうよ」
「そうだけど。カカオの実がどれか分かっている?」
「見えていたのか?」
上から見ていると、葉が茂っているようにしか見えないが。
「あの橙色の大きな実がカカオだよ。枝に沢山ぶら下がっているでしょう」
「あれか!葉の色が抜けているのかと思っていたぜ」
王子がトニーヨから望遠鏡を奪い、カカオの樹を観察する。
「確かに実のようだな。カカオというのは、あれほど大きかったのか」
「王子様は世を知らねぇな」
ヤニがぼそっと言えば、今度のシーラは大きな声で笑った。
「知っている人にも必ず知らないときがあったんだから。それより王子、あの中に豆が沢山詰まっているんだよ。それがあの美味しいチョコレートになるんだ」
「俺は豆を食っていたのか」
「豆を置いて発酵させて、それから乾燥させたものがユメリエンから出荷されるんだよ。それを買った人たちが炒って、砕いて、チョコレートに加工していくの」
「詳しいんだな」
「気になったらどこでもお願いして見せて貰うからね」
このまま穏やかな時間が流れていくのではないかと思っていたが、急に空気が変わった。「静かに」とヤニが発したからだ。
眼下の畑にも変化が起きる。ぞろぞろと多くの足音が近付いて来た。
皆が音を発しなくなったのは、この塀を登るときに、階段前に居た男から頼まれていたこともある。中の者に分からないよう静かにしておいてくれと。目立つことだけは避けてくれないと、いくら貰っても上げられないと伝えられていた。そう。ヤニは多過ぎる代金を男に支払っている。男はそれでも最初、人数が多過ぎると言って渋っていたが、ヤニが何か耳打ちしている間にこれを受け入れた。
けれども男は、くれぐれも騒ぎを起こさないでくれと、それはしつこいくらいに言っていた。「俺だけの問題じゃないんだ。大事な家族を塀の中には入れられない」という男の言葉は、それぞれの胸に引っ掛かりを与えている。
やがて樹々の隙間から人影が見えた。樹と樹が少し離れた場所を彼らが歩いたとき、王子とトニーヨは絶句する。カイエーンもだ。
ところでシュウレンとタビトはどうしていたかと言えば、二人ともに無言でカカオ畑を見詰めていた。シーラとは、王子たちを間に挟み、離れている。彼らが大人し過ぎることにはイルハも気付いていたが、それは隣の妻から聞けば良いし、そうでないなら後から探ればいいと気楽に構えていた。いずれにせよ、同国の者で敵ではない。
さて、カカオ畑で見えた人影だ。
何に絶句したのか。それは、列をなして現れた男たちの体が、鎖で繋がっていたからだ。全員の腰には鉄か何かで出来た金具が回され、そこに鎖が掛けられている。その鎖が男たちを繋いでいたのだ。まったく自由がない。
「どういうことだ?」
我慢出来ずに王子が小声で聞いたが、ヤニはさらに小声で「大人しく見ておけよ」と言って叱責したから、塀上での会話はそれで終わった。
鎖で繋がれた男たちは樹々の下に入ると見えにくくなるが、長い列なので、時折その一部の姿が見られた。よく見ると二十人ほど繋がっているのではないか。
トニーヨが望遠鏡を覗くと、その隊列がどうやらカカオ畑のあちこちに存在していることに気付いたときには、慌てて口を押えた。
このカカオ畑にどれだけの人間がいたのか。
そして実は男だけではなかったのである。女だけの列、子どもだけの列を、トニーヨは見付けてしまった。
彼らが最も塀側に近付いたとき、ようやく彼らの行動が見えた。
黙々とカカオの実を採取して、袋に詰めているのだ。すべての行動に決まりがあるのか、男たちはぐるりと二つの樹を囲むと、列の前後の男と協力して作業をしていた。一人がカカオの実を採取して、後ろの男が袋を広げて、カカオの実を待っている。
一部鎖のせいで実りの良い枝の側に立てない男たちは何をしているかと言えば、カカオでいっぱいになった袋が前後の者たちから渡されて、それを背負った。役割分担が出来ているのだろう。
移動を繰り返し、最後にはカカオの実が一杯に詰まった袋を、全員の男が背負い、また一列になって去っていった。
一瞬、ほんの一瞬のことだが。最後尾の男が塀の上を伺うように顔を上げた。誰と目が合ったということではない。こちらに気付いた様子もなく、すぐに顔を下ろしていた。空を見上げただけかもしれない。
その男はとても幼い顔をしていた。まだ十代ではないか。農作業で日に焼けているのか、それとも汚れているのか分からない、黒ずんだ肌の様子が、表情と共に王子たちの胸に強く刻まれた。




