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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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9.秘密の蔵


 少しの買い物袋を抱えて、二人はレンスター邸宅に戻った。


「リタたちはまだ帰っていないみたいだね」


 あの船の惨状であれば、夕食の準備までは帰って来ないつもりではないか。リタのことだから、夕食の下準備も済ませてあって、すぐに食べられる状態なのだろう。


「シーラ、付いて来てもらえますか?」


 イルハが屋敷の奥へとシーラを導くと、木の扉の向こうに部屋ではなく長い廊下が続いていた。屋敷の奥に建つ小さな蔵に通じる渡り廊下だ。

 廊下の先は重たい石の扉で封じられていた。その扉をイルハがゆっくりと押し開けると、強烈な香りが飛び込んで来る。


「わぁ、凄い香り!」


「木の香りですよ。この香りが防虫剤となります」


 屋敷と同じように、この蔵も石造りに違いないが、蔵の壁面に設置された棚が木製で、これが強烈な匂いを放っていた。


「本を保つため?」


「そうですね」


「船にも使えるかな?」


「どうでしょうか?」


 潮風に強いかどうか、と問われれば、イルハには答えが分からない。


「本の量も凄いね」


 香りに魅了されていたシーラが、イルハに続き蔵に足を運び入れてから、嬉しそうに辺りを見渡している。船にあった本の量からも分かるように、本が好きなのだろう。

 イルハがその様子を微笑して見守っていた。おそらく笑っていることなど、本人は気付いていない。


「ここの本なら、好きに持って行っていいですよ。もう誰も読みませんから。ご希望の物語も、歴史書も、魔術書も、子ども向けの童話も、揃っています」


「嬉しいけど、貰うわけにはいかないよ」


「では、貸しましょう」


「いいよ。いつ返せるか分からないから」


「いつでもいいですよ。いつか気が向いたら、またいらしてください」


 シーラは、うーんと唸った。納得出来ないようだ。

 普段のイルハなら、ここで引き下がる。それどころか、まずこのような提案をすることもない。

 イルハはこの蔵に他人を入れたことがなかった。リタでさえ、この蔵に入ることはない。


「友人としては、本の貸し出しに期限など設けたくはないと思いますが、あなたはどうしても気にしますか?」


「友人って?」


「元よりもう読まない本です。友人がこれを読みたいと思うなら、貸したいと願うのもまた友人としてあるべき姿ではないでしょうか。友人に貸し借りもありませんから、そのまま持って行って頂いて構いませんけどね。必要なら旅先で売って資金にしてください」


「友人になってくれるの!」


 シーラは途中から、イルハの言葉を聞いていなかった。友人という言葉にすっかり興奮していて、イルハが言った最後のところを否定することもない。


「二晩も夕餉を共にして、音楽を共有すれば、すでに友人ではありませんか?」


 シーラは両手を上げて喜んだ。

 イルハはとても優しい顔で笑っていることに、やはり自分では気付かない。


「ですから、今後も友人宅に泊まっていってください」


「それはまた別じゃない?」


「リタとオルヴェがこれほど楽しそうな様子を見るのは、久しいことです。母が亡くなってからは、私もこの通り面白味のない人間ですから、屋敷内が暗くなっていました」


「そうかな?イルハは愉快だし、一緒にいると楽しいよ?」


 これにはイルハも面を喰らった。驚きが隠せない。


「愉快と言われるのは、初めてですね」


 最初に面白いと言われ、今度は愉快だと言われる。

 首を傾げたいのはイルハの方だが、シーラは不思議そうに首を傾げた。


「そうなの?リタもオルヴェもイルハといると楽しそうだけど?」


 お世辞を言って気遣える娘ではないことを、彼はこの二日という短い時間ですっかりと学んでいたから、シーラの言葉を真っすぐに受け止められた。シーラが気付いていたかどうかは定かではないが、耳が熱くなる感覚をイルハは止めることが出来ない。



 邸宅の方から、沢山の物音がした。


「帰って来たね」


 長い廊下を戻るときにも、まだイルハの耳はほんのりと赤みを帯びていた。


「とっても綺麗になったわよ。楽しみにしておいてね」


「ありがとう。あのね、二人に少ないけど、お礼があるの。リタにはお花を買って来たよ!オルヴェにはブランデー。二人が好きなものを、イルハに教えて貰ったんだ」


「まぁ、私たちに!」


「これは嬉しいねぇ」


「あとね、ケーキもあるの。後で一緒に食べよう!」


「まぁ、素敵ね。夕食後に頂いていいかしら?」


「それなら美味しい珈琲を淹れてあげよう」


「本当はこれじゃあ足りないんだけど」


「何も気にすることなんてないのだよ」


「私たちが勝手にしたくてしていることよ」


「うん、ありがとう。私も勝手にしたくてする贈り物だよ。あとね」


 シーラは二人に向かって、深々と頭を下げた。それから大きな声で言った。


「船出するまで、ここに泊めてください」


「もちろんよ。ねぇ、坊ちゃま」


「こんな可愛いお客様を追い出せませんなぁ、坊ちゃま」


「私はすでに、この先も友人を泊めようと決めていましたよ」


 夕食のときは、昨夜よりもさらに笑い声が長く続いた。食後のデザートは、幸せな甘い時間そのものを表し、オルヴェが丁寧に淹れた珈琲もまた格別だった。

 それから美しい音色が長く続く。レンスター邸宅の誰もが、この素敵な時間が永遠に続くのではないかという錯覚を感じていた。


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