32.忍び込むもの
その日、闇が落ちてからのことである。
人目を避けながらシーラの船に乗り込む若い男の姿があった。
タークォンの魔術省の士官、タビトだ。
ユメリエンは街中や城の周りが明るく照らされている分、真っ暗な海を背に船が並ぶふ頭は余計に暗く感じられた。
タビトは闇の中、出来るだけ気配を消して、あらゆる感覚を研ぎ澄ませると、船に乗り込んだ。人の気配はもとより、僅かな魔力を感じたら、見付からないよう立ち去るつもりだ。
タビトは船に乗ってからも、何度か袖で額の汗を拭った。夜になっても吹く風が熱く、いつもタークォンで過ごしてきたタビトにとって、これがとてつもなく気持ちが悪い。風が吹いても、汗が乾かないのだ。タークォンにも夏に湿気を含む風は吹いていたが、それが涼しいものであることを、タビトはこれまで知らなかった。あの風でも不快であるのに、この国は風がない方がまだいいと感じさせる風なのだ。
しかしもちろん、それだけではない。緊張感が嫌な汗を呼び続ける。
タークォンの魔術を使ったライトを翳しながら、タビトは船内をぐるりと回った。
魔術師の船であるのに、魔力の気配が残っていない。特別な秘密がないとすれば、ロープ一本で帆を操る技術が優れているということだ。
そうであるならば、物を操る魔術を覚えれば、自分にも同じように船を操縦出来るのではないか。いや、そうではなくて、技術を駆使して電気の魔術によってこれを再現した方が良いか。それは可能だろうか?
タビトは考えながら、甲板上に戻ると、しばらく顔を上げて帆を眺めていた。半月より少し膨らんだ月が、畳まれた帆とマストとヤードの隙間を埋めていて、ライトを使う必要がない。
「ねぇ、タビト。港にあっても、ここは海の上だと知っている?」
不意の若い女の声は、タビトの心臓を冷やした。
恐る恐る振り返ると、そこにシーラとテンが並び立っている。月明かりは二人の存在をはっきりと示した。
「勝手に乗り込んだことは、謝ります」
「海では謝って済むと思わない方がいいよ」
先ほどまでとは違う質の汗が、タビトの背中を伝った。
何故だ?
何故この女は魔力を漂わせることなく、ここに存在している?
気配を消しているなら、そこに魔力が存在するはずだ。
タビトはこのような魔術師を知らなかった。
あのシュウレンでさえ、いつも僅かな魔力を体から滲ませているものだ。
敵わない。ただの娘にしか見えないが、これは海のものだ。
タビトは一度無理に息を吸って、吐ききった。
それからシーラを真っ直ぐに見据える。覚悟が決まっていた。
「私に何をお望みですか?」
「どうしようか、テン?」
シーラの声はいつも通り明るかった。それがかえってタビトに気味が悪いと感じさせる。
「俺に聞かれても困るよ。シーラが決めることでしょ?」
この間知った少年とどこか違うことをタビトは感じ取った。
以前もそうであったけれど、今宵は纏う雰囲気がまったく少年らしくない。以前よりさらに、子どもらしくないのだ。
「タビトはこの船で何をしたかったの?」
「あなたの船が早いことは分かりましたので、何か秘密があれば知りたいと思っただけです」
「それならそうと、言ってくれたら良かったのに」
「人を船に乗せたくはなかったのではありませんか?」
「乗せたくないわけじゃないよ。タークォンでもイルハたちがこの船を改めたでしょう?ユメリエンに着いたときだって、ちゃんと検査を受けているし、必要なときには人を乗せることもあるんだ」
「国に立ち寄ったときだけは良いということですか?」
「それもあるね。半分陸のようなものだから」
シーラは笑いながら、「だから、ここは見逃してあげなくもないけれど。ただで見逃すのもつまらないよね」と言うのである。
「望むことがあるなら、はっきり言ってください」
タビトは早く解放されたかったのに、シーラがテンに目配せをすると、テンは頷き走り去った。かと思えば、すぐに戻って来る。
「これでいい?」
「ありがとう!」
少年が抱えて持ってきたのは、二本の酒瓶だった。
「まずは一杯、どうかな?」
「はい?」
「一度ゆっくり話してみたかったんだよ。タビトも適当に座って」
「何を考えているのです?」
「船のこと、聞きたくないの?」
「話してくれるんですか?」
素直に聞くのは、それはそれで悔しいと感じていた。タビトがシーラという女を気に入らないことに変わりはない。
「別に隠すところにはないよ。何でも聞いて」
ここでタビトは大事なことを思い出す。
「イルハ殿はどうされているのです?」
「イルハ?そこらで王子と遊んでいるんじゃないかな?」
「まだお会いしていないのですか?」
「ユメリエンでは会っていないね」
法務省長官の妻と、ここで遊んでいて良いものか。タビトは考えた。
イルハのことも好んではいないので、無礼をしても気にならないが、タークォンの常識的に問題だった。
「気にすることはないよ。ここはユメリエンで、私は海の民だからね」
タビトの思考を読んだかのように、シーラは言う。
「あなたは本当に海の民なんですか?」
「どういう意味?」
酒瓶を受け取ると、タビトは諦めて甲板に腰を下ろした。そういえば、暑さが和らぎ、汗が引いていると思い立つ。先より涼しく感じるのは、海上だからなのか?それとも夜が更けて来たせいか?風に不快さがなくなっていた。それにもう、変な緊張感も消えている。
「海の民は百年以上前に消滅したと聞きましたよ」
「海の民は消滅するようなものじゃないよ。そう語れば、みんな海の民だからね」
「つまりあなたは、海の民の子孫というわけではないのですね?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるよ」
タビトは相手をしたくなくなった。この女、やはり嫌いだと、タビトは思う。
タビトがむっとして顔を歪めている間に、テンがいくつかの缶詰を開き、タビトにフォークを渡した。
「この船、缶詰ばかりだけど、いいの?」
「お気遣いなく」
タビトは言ってから、この少年がこちらを気遣うことなど初めてだと気付く。
「ユメリエンの料理も美味しいから、食べた方がいいよ。美味しいお店、教えてあげようか?」
このように語り掛ける少年だったのかと、タビトは驚きながら、テンの顔を見詰めた。しかしいつも通りテンの表情は乏しいままだ。
「ユメリエンには詳しいのですか?」
少年に対して敬語を使うことはどうなのかと思いつつ、タビトはしかし、彼をどう扱っていいのか、分からなかった。シーラに対しても、どのような言葉遣いが適切か判断出来ないでいる。敬語は不適切だと感じながらも、気に入らないから気安く語りたくもない。
「シーラの方がユメリエンには詳しいけど。シーラはこの国の料理屋には疎いからね」
「だって、どの店も辛いんだもの。タビトは辛い料理は平気?」
「辛いとはどの程度ですか?」
「まだ何も食べていないの?」
「そうですね。まだ何も……」
タビトは急に空腹を感じた。食べていないことを思い出すと、体が素直になるのはどうしてか。
「どこか、食べに行こうか?」
「いえ。お気遣いなく」
何故共に出掛けなければならないのか。タビトはむっとした顔をしながら、それでも受け取った酒を飲むことにした。
「これはユメリエンのお酒だよ。美味しいでしょう?」
「確かにジュースのようで、飲みやすいですね」
柑橘類のジュースと変わらず、ごくごく飲めて、制御しなければ酔いそうだと感じながら、タビトはこの酒で喉の渇きを潤した。汗は引いたが、先ほどまでたっぷりと掻いていたせいで、喉が渇いている。
「パイナップルのお酒なんだよ」
「パイナップル?」
「あとで畑を見てみるといいよ。面白い果物だからね」
「……あなたはどれくらいの国を見て来たんですか?」
差し出された酒を飲んでしまったからだろうか。タビトの気が少し緩んだ。まだ一口飲んだだけで、酔ったわけではない。
「数えたことはないけれど。海が年中凍らない国は、ほとんど見て来たと思うね」
「それほどの国を見てもなお、海にありたいと思うものなんですね」
「そういうのはテンに聞くといいよ。私はもうどっぷり海に浸かっていて、何も感じないからね」
「俺?」
「テンはどう?色んな国を見てきて、まだ海にありたいと思う?」
テンはしばらく腕を組んで考えていた。やがて口を開く。
「海にありたいんじゃなくて、俺はシーラの船に乗っていたいんだ」
シーラは歌うように笑い、テンの頭を撫で回した。テンは視線を横に逸らしながら、黙って撫でられている。
「タビトは海にありたいの?それとも国を巡りたい?」
「先日お伝えした通りです」
「自分の力を試したいとしても、海にありたい人と、国を巡りたい人がいるでしょう?」
「自分の力を試すのに、場所は関係ないと思います」
何故素直に答えてしまったのだろう。言い終えてからタビトは猛烈に後悔したが、遅かった。
シーラは笑わなかったが、タビトも矛盾を感じていたところを指摘する。
「それなら海でなくてもいいよね?」
「タークォンを出て、試したいんです」
「それもいい考えだと思うよ。だけど海は厳しいから、海で試す前に出来ることもあるんじゃないかなぁ?」
何故この女にまで、タークォンに留まるように諭されているのか?
タビトはさらに不機嫌になって顔を歪めたが、それでもこの機に聞いてみたいことがあった。
「あなたも海では苦労してきたのですか?」
「苦労はないね。私には楽しいことばかりだ」
「シーラの楽しいことは大変なことだと思った方がいいよ、タビト」
タビトはまた驚く。テンに呼び捨てされたこともそうだが、このように誰かが話している最中に、自分から語り出す少年とは思っていなかったからだ。
シーラはよく笑って、またテンの赤毛を撫で回した。いつも船の上でこうなのだろうと、タビトは思う。
「たとえばどう大変なんです?」
これにもテンが答えた。シーラは気分良さそうに酒を煽り、テンが開けた缶詰を食べ始めている。
「タビトはいつも白の大海にあって知らないだろうけど、他の大海じゃ、海賊が襲ってくることなんか日常茶飯事なんだよ。青の大海なんか、もっと大変だよね、シーラ?」
話を振られたシーラが、急いで食べていたものを飲み込んで、笑った。
「青の大海は軍船が騒がしいだけだよ」
「シーラはこう言うけどさ。軍船なんか、船を見付けたら、敵かどうか確かめもせず大砲を打ってくるからね。青の大海にも海賊がいるから、いつも気が抜けないんだ。それに大変なのは、船だけじゃないんだよ。急にやって来る嵐を越えないといけないし、大渦に巻き込まれる場所もあって。この間の灰なんて軽い方で、黒が来るときはもっと暗くて何も見えなくなるし。海って大変だから、タビトは辞めておいた方がいいと思う」
「テン、それはタビトが決めることだよ」
「そうだけど。海に出ない方が良かった人たちを沢山見て来たからさ」
「同情したらいけないよ。そのどれも、自分で決めたうえでの結果なんだから」
ただの娘と少年ではない。頭では分かっていても、タビトの心はそう捉えていなかった。
けれどもそうではないのだ。
シュウレンに似た、タークォンには存在しない独特の感性が、この二人にも根付いている。
海にあるには、自分も同じものを手に入れなければならないのだろうか。
「困るなぁ」
シーラの声の質が変わったように感じ、タビトは驚き、顔を上げた。
「あなたは知らないと言えないはずだけど。どうするつもりなの?」
シーラの視線の先に、見知った老人の姿がある。そこにはやはり、漂う魔力が存在していた。




