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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第二章 海の洗礼

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26.常夏の海へ


 それは驚くほど、突然だった。何の前触れもない。

 おや、消え始めたか。と思ったら、もはや何もなかった。

 瞬く間に灰の霧が消え、現れたのは晴天だ。


 けれども視界の晴れたそこには知らぬ海があった。海の色が完全に変わっている。

 灰が来る前は、確かに濃い青色をしていた海は、淡い青緑色の海へと変わっていた。タークォンの面々からすれば、薄い色の海は異様であるが美しい。


「噂には聞いておりましたが、このような海は初めて見ますね」


「こうも変わるとはな」


「どうして色が違うんでしょうね?同じ海水ではないのでしょうか?」


「潮目が変わったんだよ。もう温かい海なんだ。海水にでも触れてみたら、それがよく分かるよ」


 シーラは何でもないように言った。テンも慣れているのか、海は見ずにシーラと共に座ったままだ。


 カードで遊んでいた男たちは一様に立ち上がり、手摺りから身を乗り出して海を覗いていた。

 淡い青緑色の海と、水色の空が作り出す世界は、あまりにも美しい。


「海水に触れられるか?」


「お待ちくだされ。桶を下ろしてみましょうぞ」


「汲む間に冷えませんかね?」


「空気も生温くなったから、平気ではないか?」


 カイエーンが言った通り、肌に触れる空気も変わっていた。生温かいそれは、夏のタークォンで感じるものとは大きく異なる。

 それで男たちは、取っ手にロープを通した桶を海に降ろして、それで海水を汲むと、順に手を入れて遊んだ。そうして確かに温かいと喜ぶ。


 いい大人がこれであるから、気付くのが遅れたのだ。テンがとても冷めた顔でこれを見守っていたというのに。

 灰の後は特に気を付けなければならない。

 これを王子たちが知らないのは仕方がないとしても、海軍省に身を置くカイエーンが知らないとは、どういうことか。普段灰を避けていると言っていたから、経験がないのだろうか。そもそもタークォンのような平和な国の海軍は、それほど頻繁に船を出すことがあるのだろうか。彼らは立派な軍船を所有していても、案外と海を知らないのかもしれない。とテンは短い間に沢山の疑問を抱え、考察した。 


 テンの予想通りのことが起こる。


 バシャーンという大きな音と共に、巨大な水しぶきが上がり、船が大きく横揺れした。飛び上がった海水は、二階の甲板の上にまで到達する。

 男たちはちょうど海を眺めていたから、手摺りに掴まって、この揺れに耐えることになった。そのせいで海水を浴びてしまい、びしょ濡れだ。

 イルハもまた海を見ていたが、彼だけは違う動きを示した。急いで手摺りから離れると、体を屈めながら甲板を駆け、座るシーラの腕を取ったのだ。

 そうしなければ、シーラは甲板の上を転げていただろう。テンの方が鍛えられているのか、座ったまま床に手を添え、揺れに耐えている。


「大丈夫ですか?」


「イルハのおかげで平気だよ。ありがとう。だけど、これは良くないね」


 船はしばらく横揺れしていて、その間イルハは腰を下ろし、堂々とシーラを腕に抱いていた。


「落ち着いてくだされ!急ぎ事態を確認します!」


 誰よりも慌てている様子のカイエーンは、揺れが収まり始めると急ぎ操舵室に駆けて行く。

 船は急激に速度を落とした。タビトも慌てているのだろう。


 シーラはイルハの腕の中から、後ろに牽引される船を見やった。同じように、よく揺れている。


「戻りますか?」


 イルハが問えば、シーラは首を振った。


「もう少し楽しんでからにするよ。だけど出るときは急ぐだろうから、先にこうしておくね」


 船内は大騒ぎであるというのに、シーラは静かにイルハの胸へと顔を埋めた。イルハは穏やかに笑うと、こちらも場違いにもシーラを力強く抱き締める。

 皆が船外に注目していたから、成せたことだ。


 皆が見詰める先は、もはや海の色ではない。どの者も遠くに浮かぶ一隻の船を注視している。


 トニーヨは急ぎ望遠鏡でこの船を観察した。大きな黒い帆の隙間には、見るからに柄の悪そうな男たちが乗っていて、一人の男がこちらに向かい、帆と似たような黒い旗を振っている。


「何事でしょうか?」


「さてな。シュウレンに任せよう」


「任せて大丈夫でしょうか?」


 トニーヨは先のシーラの言葉が気になっていた。

 それで思い出して振り返ってしまったことを後悔する。

 トニーヨの後方では、イルハが身を屈め、シーラを抱き締めていたからだ。

 若く純粋なトニーヨには状況を理解することが困難で、ただただ頬を染めてしまう。


 テンはとても冷静で、懐から望遠鏡を取り出すと、立ち上がってトニーヨと同じように遠くの船を観察した。それから抱き合っている二人を気遣うこともなく振り返り、シーラに言う。


「無線機を付けろだってさ」


 シーラはイルハの胸から顔を離すと、一度イルハと見詰め合ってから、テンに顔を向けた。

 まだイルハは、シーラを腕から離そうとしない。大きな揺れは完全に収まっているが、船が停止したことで、そのまま波に揺らされているからだ。

 というのも、すべて都合のいい言い訳かもしれない。

 タビトは船を止めてしまった。


「これは気付いていないねぇ」


「どうするの?」


 シーラとテンの話を、イルハだけが聞いている。皆が外の船に注目していたこともあるが、トニーヨなどは、見てはいけない、聞いてもいけないと思って、熱心に遠くの船に意識を集中していた。

 王子もトニーヨから望遠鏡を奪って、船を観察するのに忙しい。

 それで他の者は操舵室だ。


「お知り合いですか?」


「イルハ、先に言っておくけど」


「助けるようにあなたに願うことはありません。これはタークォンで対処すべき問題です」


「流石、イルハだね。だけど、食事のお礼くらいはするかもしれないよ」


 シーラはイルハを見詰めながらふふっと笑うと、それからテンに視線を向けた。


「どうなるか楽しみだね、テン」


「驚くんじゃないの?」


「せっかくだから面白く驚かせよう!」


 シーラの嬉々とした表情を見ていたら、イルハにはどんな心配事も浮かんで来なくなった。シーラは間違いなくこの船を助けるだろうと、イルハはすでに確信している。

 そのためにこの船に乗っているに違いない、と。


 もしやシュウレンも…。

 イルハは操舵室を見やる。あの男、なかなかに奸物かもしれないと、イルハは想った。


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