20.海を知れ!
魔術省の二級士官であるタビトは、酷く機嫌が悪かった。
タークォンの軍船に積載されていた小型船を海に降ろす前から、それは始まっている。
立場上、目の前の男は主君に違いないが、タビトにとってのそれは彼ではない。
しかしながら今はそのような論理が通用しない状況にあって、目の前の男の指示に従わざるを得ないのだ。その男がこれほど自由奔放で無茶苦茶な人間であったとは。
噂には聞いていたし、彼がどのように暮らしているか実際に目の当たりにすることもあったが、それもタークォンの中だから許されることである。この男も十分にそれを理解したうえで、そのような奔放な振る舞いをしていると思っていたのだ。
それがどうやら違った。
タビトはこの苛立ちを、直接男にぶつけるわけにはいかなかったし、身分からすればこの男の直属の臣下たちにもぶつけることは叶わない。
しかもその臣下である二人の男は、さらにタビトを苛立たせる要因となっていた。
家柄しかない奴らは、どうしようもない。甘えて生かされてきた男たちが、これからのタークォンを牛耳っていくのか。
タビトはぶつけようのない苛立ちを解消しようと、前方を睨み付ける。しかしそこには、海と空と太陽しかない。
タビトの憂いなど知らず、いや、知っていたかもしれないが、王子はこの状況をとても楽しんでいた。
軍船の甲板から望むよりもずっと海が近く、二階部分の甲板からでも船縁の手摺りに寄り添い海面を覗けば、太陽が波目に反射してきらきらと眩しい。
この輝かしい波に乗っているというのが、体にもよく伝わっていた。小さな船は、軍船と比べられないほどに揺れている。
「こういう船はいいもんだな、トニーヨ」
王子の横にあったトニーヨは、もっと楽しそうに船縁から身を乗り出して、海を覗き込んでいた。海の中に宝石でも探している様子である。
だから王子が話し掛けてから返答するまでに、少々の間が空いた。
「あ、はい!素晴らしいですね!」
トニーヨの瞳には、何もかもが新鮮に映っている。
そして彼は今、これからやって来る船を間近で見られることを心待ちにしていた。もしかしたら自分を乗せて、あのように飛ばしてくれるかもしれない。
その期待が、トニーヨの心に長くあった常識を吹き飛ばす。彼は今、純粋な楽しさで頭がいっぱいだった。
イルハもまた王子の隣に控えていたが、のんびりと肌に感じる潮風を味わっている。
この小型船は、小型船と言ってもシーラの船よりは二回りほど大きく、甲板の上の小屋も二階建てだ。
一階部分は船縁のギリギリまで広がっていて、甲板と呼べる場所は人がやっと通れるくらいの道幅しかない。
二階部分は前方に小さな小屋があるだけで、その小屋が操舵室だ。操舵室は広い窓に囲まれていて、前方も後方もよく確認出来た。
その他の二階部分は甲板として利用出来たが、ここにタビト以外の皆が集まっている。
ちなみに一階の下にもいくつかの部屋と貯蔵庫があって、部屋数と収納量は申し分ない船である。
この船を動かす男がタビトであって、彼の師匠でもあるシュウレンと、さらに何故か海軍省副長官のカイエーンまでもがこの船に乗っていた。
このような顔ぶれが揃って軍船を抜け出して、小型船に乗り込んだのだ。さらによく知らぬ女の操る船と並走するという。
これを決めたのは、もちろん王子だ。
タビトは理解することも馬鹿らしいと感じ、黙認した。元よりタビトは意見する立場にはない。
この船はもちろんのこと、軍船に何かあったらどうするつもりか。
長官、副長官がいなくとも、海軍省、警備省の兵士たちは、それぞれに指揮系統を持っているのだからどうにかするだろうが、二つの省間の連携は期待出来ないだろう。
問題はそれよりも、軍船にあるべき王子が存在しないと知られることである。これはタークォンとして、世界に恥ずべき行為ではないのだろうか。
タビトは生まれに恵まれた男たちを酷く浅ましく感じた。生まれ持った身分で、人の優劣は決まらない。タビトは自分の考えを強化する。
タビトが理解出来ないところは、海の怖さを知るはずのカイエーンがこれを止めなかった点である。主君は別にあるとしても、この場で王子に物を申せる男は彼くらいではなかったか。
あるいは、法務省長官のイルハの役目であっただろう。ときに王子に対しても厳しい対応をする男であると、タビトも聞いていたが、彼はまったく期待外れの男で、王子に何も言わなかった。
タビトはこの僅かな時間で、ほんの少しの期待も必要ないことを悟った。
たとえ王子が尊敬出来ない男であったとしても、周りを固める男たちが賢者であれば問題はないと思っていたが、これではタークォンの未来は期待出来ない。
我が君の方がずっと……。
ここでは考えてはならないことを考えながら、不機嫌な顔を隠さずにタビトは魔術で船を動かした。すると途中でシュウレンが操舵室に現れて、話し掛けて来る。
「わしが御忠告をしたうえで、お乗りになられたのじゃ。気にすることもあるまい」
タビトの師であるシュウレンは、タビトとは対照的に凪いだ海ほどに穏やかな顔をしていた。
シュウレンがあまりにのんびりと言うから、タビトはさらにむっとした顔になって、シュウレンを睨み付ける。
「何かあったら我らも処分されるのですよ?」
「あの王子殿下なら、されますまい」
「殿下に何かあった場合は、陛下が我々をお裁きになられます。首を切られるとしたら、まず私からでしょう!」
苛立ってタビトが言っているのに、シュウレンはタビトの肩に手を置き、やはり穏やかな声で言うのだ。
「そのときこそ、海に出たら宜しい」
シュウレンは、タビトの発言が不謹慎であることを咎めない。
それがタビトを余計に苛立たせた。
「海に出るなといつも仰っておきながら、それですか?」
シュウレンも年寄りではあるが、背筋がピンと伸びているせいか、見目に若々しさがある。先ほどからよく揺れる船の上でも、よろけるようなことはなかった。
「いずれ海にあるつもりなら、あのお嬢さんからよく学んでおくことじゃよ」
「あの娘の魔術なんて大したものではないでしょう?魔力なんて、ほとんど感じませんでしたよ?船だって酷く簡単な構造だと聞いていますし、船が軽いからあのように速度が出るだけでしょう!」
「簡単じゃから、よーく学べるのじゃ」
タビトはこれを自分が劣っていると咎められたように感じた。
それでなお不機嫌になって、顔を歪める。
「そもそも約束の座標も決めず、どうなさるおつもりなんですかね?」
「それは問題ないじゃろう」
「どういうことです?」
「そなたは海を知らぬからのぅ」
「この広い海の上で、船一隻を探せると?」
「そなたは探さなくて宜しい」
確かにタビトには探す必要がなかった。
軍船が完全に見えなくなって、さらにしばらく進んだ頃である。
進行方向左手に伸びる水平線上に白い点が確認されて、それが徐々に大きくなっていった。シーラの船だ。
進んでいる船から見ているのに、シーラの船は真横から真っ直ぐにこちらに向かっているように見えた。まるでこちらが止まっているかのように、直線上から進路がぶれず、見える船の大きさだけが変わっていく。
それはタビトにも不思議な光景であったが、すぐに落ち着いて見てはいられなくなった。
「面白いお嬢さんじゃのぉ」
青い顔をしたタビトとは違い、シュウレンは何にも気にせずに笑っていたが、タビトは早口に言う。
「こちらが止まった方が良いのでは?」
「このまま進んでおけば宜しい」
タビトは指示通りに船を動かし続けたが、白い帆を掲げた船は変わらぬ速度で進む船に向かって来た。
「うわ!」
「これはいかん!」
衝突する!と思ったのは、タビトだけではない。
カイエーンやトニーヨもいよいよ青い顔になって叫び、船縁の手摺りに掴まって衝撃に備える姿勢を取ったくらいだ。
王子を守ろうとしないところが、この二人にはまだ足りぬ部分であろう。と、イルハは冷静に二人を観察しながら、平然とした顔で近付く船を待った。何も起きないことは分かっていて、これは王子も同じである。
向って来た船は直前でひゅんっと、それはあり得ない角度で向きを変え、横並びに走り始めた。王子やイルハからすると、船がくるっと直角に回転したように見える。
最も不思議だったのは、大きな波は立たず、船に一切の衝撃がなかったことだ。普通なら並走するだけでも、相互の船から生じる波が影響を及ぼし合うものであるが、それもない。
これはタビトも不思議に感じていた。隣の船を気遣って操縦しようと思えども、何の気配も感じないのである。だから何度も目で見て、本当に船があるかを確認してしまった。
するとまた、タビトが驚くことが起こる。
「うーん。そんなに面白くないなぁ」
あろうことか、シーラは船縁から身を乗り出して、大きな声で語り掛けて来た。つまり、誰も隣の船を動かしていないのだ。
しかし船は止まらずに、相変わらず波も立てずに並走を続けている。広げた帆がよく風を捉えているのか、速度も一定だ。
タビトは目を見張り、隣の船を観察しながら、船を進めた。
「面白くないかね、お嬢さん?」
シュウレンが船舵室の窓を開けると、シーラは嬉しそうに顔を上げた。シーラの船からすると、かなり見上げる形だ。
シーラの顔には、嫌味などの負の感情は存在しない。
「これはタークォンの魔術でしょう?馬なし馬車で何度も見せて貰ったから、あまり面白くはないね」
「そこそこには早いじゃろう?」
蒸気船のように石炭を積む必要もないし、これを使う大きな設備も要らなかった。だからこの船はとても軽く、軍船よりずっと早く移動が出来ている。
「うーん。どうかなぁ?」
シーラは嫌味として言っているわけではないが、タビトは当然、良い気分はしなかった。
「遅くはないじゃろうに」
「遅くなければ早いとは限らないからね。ねぇ、これをあなたが動かしたらどうなるの?」
シーラが晴れやかに問い掛ければ、シュウレンは顔をしわくちゃにして笑った。タビトが目を見開いてシュウレンの横顔を見やったが、すぐに顔を歪める。
タビトの操縦では面白くないが、シュウレンならば違うと言われたのだから、それはタビトも面白くないだろう。
「どうなるも、動かすつもりがないから、弟子を連れて来たのじゃ」
「あなたが動かすと聞いていたんだけどなぁ。少しも動かさないつもり?」
「必要に応じて、と言っておきますわい」
「そんなときがないといいねぇ。だけど、これから良くなさそうだよ」
「そうじゃのぅ。進路を変えねば、あと小一時間というところじゃ」
「こっちは困らないけど、そっちはどうするの?」
「わしも困りゃあせんわい」
シーラとシュウレンが不思議な会話をしている後方で、王子が熱心にテンに話し掛けている。王子はどうもテンを気に入っているようだ。
「そっちに行ってもいいか?」
「それはシーラに聞いてよ」
「こっちから酒を持っていってやるぞ。お前の分のジュースもあるからな。美味そうなものもたっぷり用意してあるぞ。あれはあるか?アザラシの缶詰だ」
「あるけど、それもシーラに聞いて」
「お前からシーラに言ってくれてもいいんだぜ?」
「俺が言ったって、シーラが決めるんだよ」
テンは淡々と言いながらも、シーラと同じように船縁から身を乗り出して、隣の船を見上げている。王子たちの船に興味はあるらしい。
「こっちに乗るか?」
「シーラが乗るなら乗るね」
「何でもシーラが決めるんだな」
「ここは海だから」
テンは淡々と言って、シーラに顔を向けた。そのシーラは、まだシュウレンと何か話し込んでいる。
それは突然だった。
シーラの船が遅れて、王子たちを乗せた船が先に進んでいく。双方の船はゆっくりと前後へすれ違いながら、不思議な並走は終わりを告げた。




