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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第二章 海の洗礼

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8.海の教え


 空と海だけの青い世界に、白い雲と、白い帆を掲げた船が流れ行く。

 テンは甲板に仰向けに寝転がり、流れる雲を追った。


「海はいいねぇ」


 シーラの気持ち良さそうな声がテンにも届く。


 タークォンを出て、あるところまで船を飛ばすと、シーラは両手を高く伸ばした。

 船はしばし風と波に任せて漂流することになる。


「リタが作ってくれたお弁当でも食べようか!」


 今日の分として、リタは二人にお弁当を持たせていた。

 甲板下の貯蔵庫には、リタの作った保存食がたっぷりと蓄えられているから、二人はこれからリタの食事を長く楽しむことが出来るだろう。

 タークォンをいつも忘れないで欲しいというリタの願いが込められていたのではないか。


 シーラは貯蔵庫から酒とジュースの瓶を取って来ると、テンの横に腰を下ろした。テンも体を起こして、ジュースの瓶を受け取る。


「これからどうしようか、テン?」


 船上でも、シーラは食事の前に手を合わせた。

 テンはそれを横目で見ながら、さっさと食べ始める。


「ライカルには行かないの?」


「好きにしていいよ」


 航海の自由など自分にはないことをテンは知っている。

 それでも聞かれたことが嬉しかったのか、テンは素直な笑顔を見せた。


「約束を守ってくれるなら、何でもいいよ」


「分かっているって。次の港では先に買い物をしよう」


 テンはもう、好きなものをいくつも買って貰えるはずだ。


「このままライカルに行くなら、ハートにいいお店でも紹介して貰おうか」


「おじいちゃんに?」


「あの人は顔が広いから、いい店を沢山知っているんだよ」


 テンは黙って頷いた。ちょうど握り飯を頬張っていて、声が出なかったのである。

 味付きのご飯には、タークォンの美味しい貝がたっぷり入っていた。

 たった今別れたばかりなのに、この味にもう懐かしい感じがするのは不思議だなぁ、とテンは思う。


「ねぇ、シーラ。聞いてもいい?」


「何でもどうぞ」


 シーラも美味しそうに握り飯を頬張って、水のように酒を飲んだ。

 海らしい飲み方である。


「こうなるとどうして分かったの?」


 シーラは冗談にでも返すように、これを笑い飛ばした。


「そんなこと、分かるわけがないよ!」


「嘘だね」


「そうやって、ひとつに決めてしまうと勿体ないよ、テン」


 テンは急いで、たった今口にした握り飯の欠片を飲み込んだ。

 シーラを真っ直ぐに見詰める瞳は、少年の純真さを象徴している。


「広い世界を知りたいと思ったのでしょう?それなら狭い世界から自分で抜け出さないといけないよ」


「旅をするから、世界が広がるんじゃないの?」


「どこへ行ったって変わらないよ。世界を広げたかったら、自分を広げるしかないんだ」


 シーラはまた難しいことを言った。

 こうやって意味深なことばかり言って、大事なことを確かには教えてくれないのだ。

 だからテンは、シーラの言葉を頭の中で反芻し、よくよく考えることになる。


 けれども今日のシーラは珍しく饒舌だった。

 久しぶりの海で、気分が良かったのかもしれない。


「人は自分の考えたものしか見えないんだ」


「自分の考えたものって?」


 シーラは優しく微笑むと、手を伸ばし、テンの赤毛を撫で回した。


「王家をいくら憎んでもいいよ、テン。蔑もうが、恨もうが、それはテンの自由だ。だけどね」


 テンは真剣な顔でこれを聞いていく。


「ひとつの形にこだわっていたら、せっかくの良いものも見えなくなってしまうよ。だから何も考えず、そのままに王家の人たちと付き合ってごらん」


「王子のこと?」


「王子だけじゃないね」


「アンナの話?」


「アンナもそうだし、これから行くライカルとユメリエンでもそうだよ」


「ユメリエンにも行くの!」


 シーラは何でもないように笑って、テンの問いに答えずに、逆にテンに問うた。


「ライカルの王様をどう思う?」


 テンは首を捻って、かつて訪れたライカルの様子を思い出す。


「凄く人に好かれていて、立派な王様だよね。いつも民のことを考えているみたいで、ライカルの人たちが羨ましくもあるよ」


「そんなに気に入ったなら、ライカルに住んでもいいんだよ」


「それはないよ!俺はこの船にあるんだ!」


 シーラは笑うが、テンはとても嫌そうな顔を見せた。

 そんなテンの気を静めるように、シーラはその赤毛を再び撫で回す。


「ユメリエンはどう思う?」


「酷い王様だと思うね」


「どうしてそう思うの?」


「だって民から奪ったお金で、いい暮らしをしているんでしょ?民には酷い暮らしをさせているのに、王様たちは城の中で贅沢に暮らしているんだって、あの人たちも言っていたよ?」


 シーラはうんうんと頷くと、「それも一面だ」と言った。


「一面って?」


「民の人望が厚いから、いい王様とは限らないんだ」


「人望がない方がいい王様なの?」


「それも、そうとは限らない」


 首を捻ってしばし考えるが、テンには何のことかさっぱりだ。


「大事なことはね。ひとつに決めると、それだけが見えて来る。だけど他が見えない。そういうところにあるんだよ」


 そういえば。前からシーラは似たようなことを繰り返し言っていないだろうか。

 テンはこれまでシーラから受け取った数々の言葉を思い出していく。


「ララエールの人たちが、あれもこれも天罰だと言っていたのと同じ話?」


「さすがテンは賢いなぁ」


 シーラがぐいっと瓶を傾けると、シーラの喉がごくごくと鳴った。

 その気持ち良さそうな音を聴いていると、テンも酒に興味を持ってしまう。

 シーラがこんなに飲みたがるのだから、きっととても美味しいのだろう。

 けれども自分が今の年齢で酒を飲むことを、テンはどうしても許せない。


「よく考えてみてよ、テン。罰が当たったという証拠なんて、どこかにあった?」


「証拠…はないかな?」


「そうでしょう?だから、全ては人の考えなんだ」


 テンは頷き、シーラを見詰めるも、シーラはテンを見ずに空を仰いだ。とても気持ち良さそうに笑っている。


「信仰の話をしようか」


「教えてくれるの?」


 シーラの視線が空から下りて、テンに留まった。


「ほとんどの王家は、信仰の対象なんだよ」


「どういうこと?」


「ララエールの王様は、神様に選ばれた存在だったね?」


「そうだけど」


 だからこそ、尊い存在であって欲しかった。

 いつも神に選ばれしものとして民を想い、ときに民のために戦い、神の加護を受けて勝利を収める。

 それがテンにとって当然の考えであったのは、あのときまでの話である。


「人の上に立つときに、どうしても他の人とは違う特別さが欲しくなるものなんだ」


「神様なんていないということ?」


「神様は人の中にあるんだよ、テン」


 テンはシーラが話してくれる時間が、間もなく終わることを感じ取った。

 シーラが歯を見せて笑ったからだ。少しの意地悪さと、愉快さを織り交ぜたこの顔をしたら、あとは自分で考えなさいということである。


 けれどもテンは、もうひとつ聞いてみたくなった。


「ねぇ、シーラ」


「なぁに?」


「イルハのことは本気じゃないの?」


 シーラはとても驚いた顔を見せる。

 テンはなんだか嬉しくなった。自分にもシーラを驚かせることが出来ると分かったからだ。


「なんでそんなことを言うの?」


「イルハの前では、こうじゃないよね?」


 シーラはテンがとても面白いことを言ったように笑った。


「イルハのことは大好きだよ」


「じゃあどうして、タークォンではいつもの感じを見せないの?」


「イルハの前には、イルハが想う私がいるだけだからね」


「偽って、愛されているということ?」


 テンの口から愛という言葉が出て来たのが、それほど可笑しかったのか。

 シーラは腹を抱えて笑った。

 その高い笑い声は、海に落ちて、たちまち消えていく。


「誰だって偽りの中にあるんだから、気にすることじゃないね」


 またシーラが分からないことを言った。

 シーラから受け取った不思議な言葉は、高い塔になるほどテンの頭の中に積み重なっている。


「みんなが偽りの中にあるの?」


「今、テンの前に居るのは、テンが想う私であって、私が想う私でしかない、ということだよ」


 余計に分からなくなることをシーラは言った。


 十二歳の少年でなくとも、その意味を理解出来る者はどれだけいるのか。たとえばイルハはこれを理解出来ただろうか。

 シーラのそれを、ほとんどの者は屁理屈か、でたらめか、冗談か、あるいは気狂いの沙汰として捉えたのではないか。

 真摯に受け止めて、その意味を考えてくれるとしたら、イルハくらいであろう。そして今、テンもじっくりとこれについて考えようとしている。

 それでもこれは今のテンには難し過ぎる問いだった。

 テンはきっと、イルハを味方にすればいいのだ。けれどもまだ彼は幼くて、そのようなところには考えが至らない。海で大人であるためにも、いつも一人でどうにかしなければならないと信じている。


「本当のシーラはここではないところにいるの?」


「本当の私なんて存在しないね」


「それはシーラだから?」


「本当のテンだって存在しないよ」


 テンはますます分からなくなった。

 自分はここに居て、確かに存在しているではないか。

 この自分が偽りとでも?

 じゃあ自分って何だろう?


「確かなことは、私はイルハが大好きだってことだよ。それから、テンのことも大好きだからね」


 テンは照れずに頷いた。考えることに忙しくて、それどころではなかったのだ。


「そろそろ動かそうか。もう食べ終えたね?」


「王子たちは?」


「少しは見せてあげるよ。それでライカルを楽しもう」


「追い掛けて来るんじゃないの?」


「出来ると思うの?」


 今度はテンが笑った。

 海の上では、テンも沢山笑うのだ。


「そろそろ風に乗るよ。落ちないようにね」


「俺が落ちると思うの?」


 今度はシーラが笑う番である。


 しばらくすると、水平線を望むテンの視界から、三つの小さな黒点が確認出来た。


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