51.海音
「クランベールはどのような国でしたか?」
イルハは回りくどいことを辞めにした。
導こうとすることも、謀ろうとすることも、この場所には似合わない。
これまでのことを問い質すことも辞めにした。聞いたところで、解釈が増えるだけだ。
シーラを信じるならば、そうしよう。疑うならば、それでもいい。
イルハはもう先を決めたのだ。
シーラは動揺も見せず、笑顔でこれに返す。
「春、夏、秋と季節が巡る、とても美しい国だったよ。国のほとんどに麦畑が広がっていてね。秋の終わりに植えた種は、春から夏に向かってぐんぐん伸びて青くなるでしょう。それが秋には一斉に黄金色に変わるんだ。どの季節も美しかったけれど、私はこの黄金に染まった畑に夕陽が注ぐときが一番好きでね」
「夕暮れの田畑は美しいですよね。米の田も同じように、収穫前に黄金色に染まりますが、ここに夕陽が注ぐ様も見ものですよ」
「見てみたいなぁ」
「共に見れば良いではありませんか?」
シーラは頷くこともなかった。
それでもイルハはこの話を進めていく。
「新しく仕立てた服を着て、見に行きましょう」
「行きたいけど、必ずとは言わないよ」
イルハが真剣な顔になる。言うときが来た。
「シーラ。このままタークォンに留まりましょう」
「それは出来ないよ」
「クランベールのためですか?」
「それはないね」
シーラはきっぱりと否定した。
しかしイルハは疑いを持って、シーラを見詰める。
イルハが何か問う前に、シーラは言った。
「私はね、有難いと思っているんだ」
イルハはなおシーラを見詰め、真意を探った。
シーラは晴れやかな笑顔を見せる。
「おかげで、私はこんなに自由だもの」
「本当に自由だと言えますか?」
「海より自由なところがあるの?」
「あなたの場合は、むしろ不自由にあるのでは?」
「どこが不自由に見えた?」
「あなたの過去が、国を持つことも、陸で生きることも許さず、あなたは自由な選択が出来ない状態にあるのではありませんか?」
シーラはとても優しく微笑んだ。
まるで幼子をあやす母親の顔である。
「イルハの考えは面白いね。だけど、それも違うよ」
「あなたが海にあるのも、償いの意が込められているのでは?」
シーラはこれもはっきりと否定した。しかしイルハは納得出来ない。
「まったく気にしていないことはないでしょう?」
「影響を与えていないとは言わないよ。過去のどの出来事も、今の私に関与しているもの」
「その影響というのが、あなたに不自由さを強いていることでは?」
「そういう影響を受けたことはないね」
シーラはにこっと笑ってから、さらに言った。
「私の神は私を裁かないし、私から自由を奪わないんだ」
「それはクランベールの信仰ですか?」
「クランベールとは関係ないね。私が海で得た考えだ」
「何かの神を信じているのですね?」
「信じていないから、神はいつも私の中にある」
言ったシーラが先に笑うのである。
これは海らしい冗談なのか。それとも何かの暗喩だろうか。
イルハにも流石に分からない。
「冗談ですか?」
「うん、冗談だ。それにね、イルハ。償うという考えはおかしいよ。私を選ばなかったのは向こうだ」
「恨んでいる…ということもなさそうですね」
「先に言ったでしょう。私は有難いと思っている」
気が付けば、シーラの陽気な声に誘われて、イルハも笑っていた。
深刻な話をしているはずなのに、イルハは今楽しさを感じている。タークォンのどの者と話す時よりも、目の前のシーラの言動が彼を楽しませていた。
「はじめからそのような考えを持てたとは言いませんよね?」
「そうだったかもね。だけどね、イルハ。闇はずっと続かないんだ」
「それは同意します」
シーラの表情も明るい。イルハとの会話を心底楽しんでいるのではないか。
「海の闇も続かないんだから、何かが終わったなら、また別の何かを新しく始めたらいいんだよ。それがどんな終わり方でも、関係ないんだ」
「新しく始めたことが、今の暮らしですか?」
「新しく始めたところが海だっただけだよ。だけど海は新しいことが沢山あって、いつまでも飽きることがなくてね。楽しくて、もう離れられなくなったんだ」
好きだから海にあるんだ。
イルハというより、自分に言い聞かせているように、イルハには聞こえる。
「では、私とさらに新しいことを始めましょう」
シーラはにこっと笑うと、イルハの先を待った。
イルハは全ての悩みを吹っ切ったような、清々しい顔をしている。
「私の妻になり、タークォンに留まりましょう」
シーラは笑顔であるのに、はっきりと言うのだ。
「それは出来ないね」
「言い切りますね」
「私は一国に留まるつもりがないよ」
「ではこういう提案はどうです?」
シーラの瞳が、子どものように輝いている。
新しいおもちゃを待つ子どもの目だ。
「タークォンを拠点にして、自由に海へと出てください」
「それは逆だね」
「海にあって、タークォンに長く立ち寄るということですね?」
「それなら出来ないことはないね。だけど理由が足りない」
酔っているのだろうか。
シーラは時折、片手に持った酒瓶を豪快に傾けていた。ごくごくと喉を鳴らしながら、気持ち良さそうに酒を煽る。
海ではいつもこうなのだろう。
タークォンで若い娘がこのようなことをしていたら、どの者からも怪訝な顔を向けられるであろうが。
イルハも同じように平然とした顔で、酒瓶を勢いよく傾けてみせた。
イルハも酒に強いが、慣れぬ飲み方をしていて、幾分か気分が高揚していたのではないか。タークォンを物理的に離れたことも、彼の心から少しの枷を取り払っている。
「理由さえあれば、タークォンに留まれるのですね?」
「そうとは限らないけど、そういうことも起こり得るね」
シーラには、タークォンに留まる意思がまったくないわけではない。
と分かれば、イルハが身を引く必要はなくなった。
「理由ならありましょう。私の妻になる。これ以上にどんな理由が必要でしょうか?」
シーラの笑い声が夜空に抜けた。
「やっぱりイルハって面白い!」
「それはどうも」
イルハもまた笑う。
けれども彼は本気だ。
酒瓶を脇に置くと、イルハはシーラの手を取った。
「私の妻になってください、シーラ。あなたを大切に愛することを誓います」
シーラの手を持ち上げると、イルハは手の甲に唇を当てた。
晒し越しでは足りぬと、イルハはさらに僅かに覗く指先に唇を落とす。
シーラはほんのひととき目を見開いたが、すぐに笑い出した。
「イルハは凄いね」
「私は本気ですよ?」
「知っているよ」
「では、真剣に返事をして頂けますね?」
イルハはまだ手を離さなかった。
その手をシーラがぎゅっと掴み返す。
「イルハのことは大好きだ」
イルハもまた手を強く握り締めた。もう離さない、というように。
それなのにシーラは言った。
「だけど誰かの妻になる気がない」
「なれないと思っているのですね?」
「そうだとしたら?」
「私が出来るように導きましょう」
「そんなことが出来るの?」
イルハの笑顔に隠せぬ自信が溢れている。
「近い将来、私は必ずタークォンの宰相になりましょう。あなたはこれを利用してください」
「凄いことを言うね」
「何の問題もありませんよ。タークォンもまた、あなたを利用するからです」
シーラの笑みがいつもと変わる。
これこそ、この娘の本来の顔ではないか。
イルハはその大胆さと繊細さを織り交ぜたような、嬉しそうでもあり悲しそうにも見える、多くの矛盾を抱えた不思議な笑みに見惚れた。
含んだ感情がひとつでないから、美しいのだ。
月明かりとランプが落とした均一でない影もまた、美しさを助長させている。
「海のものを利用出来ると思うの?」
「出来ないと思うことは言いません」
「後悔するよ」
「そうなれば、後悔も忘れるほどの良案を見付け、これを実行するまでです」
シーラの笑みが優しく変わる。
イルハと二人切りのときに、よく見せる表情だ。
「私はそういう質にあるのか、それとも未熟だからこれを避けられないのか。これまでも数え切れぬほどの後悔をしてきました」
次の言葉まで少しの間が空いた。
シーラは優しい顔で先を待っている。
「かつて酷く後悔したことがあります。母を亡くした頃の話です」
シーラは何があったかと問うことをしない。
だからイルハは、穏やかに自分の気持ちを語ることが出来た。
手から伝わるシーラの温もりが、イルハの胸を満たしていたこともある。
「母が亡くなる直前に、私は母に暴言を吐きました。幼いからと許されるような言葉ではありません。それでも私は謝ることもせず、逃げ続け、そして何も出来ぬうちに母を亡くしました」
辛かったね。大変だったね。気にしなくていいよ。誰にでも過ちはある。
そのような薄っぺらい励ましの言葉がないことは、イルハには嬉しい。
シーラもいつの間にか、酒瓶を傍らに転がしていた。あっという間に飲み切ったようだ。
「あなたの言う通り、明けない夜はなく、私は母に感じた後悔をもう二度と重ねないと決めて、新しく生き始めました。しかし決めたところで、まだ足りなかったことが分かったのです。私は二年半前、あなたを海に送り出したことを酷く後悔しました」
シーラは謝ることもしなかった。
ただ静かにイルハの手を握り絞めて、言葉に耳を澄ませている。それは音楽を聴いているときの姿と重なった。
「せっかくあなたが戻って来てくれたというのに。ここでも私はまだ変わることが出来ていませんでした。私はこのように未熟な男ですが、だからこそ、これ以上の後悔を重ねないことを選びます」
シーラがまだ何も言わないから、イルハは先を続けた。
「あなたと付き合うことで、タークォンに不利益が生じると言うならば、私はこれを回避するために、不利益のないよう収める智慧を習得し、これを実行出来る立場を築いてみせます。それこそが、何もせぬままあなたを失うという酷い後悔をしないために、必要なことだからです」
シーラがようやく反応を見せた。
静かに頷いたあと、少しの時を空けて、口を開く。
「色んな国を見て来て、沢山の人たちに会って来たんだ」
シーラは先までとは違い、静かな声でゆったりと語った。
「大事なものを失くしたことのない人は存在しなかった。それをどう感じるかの違いはあってもね」
イルハは頷き、己の考えを伝える。
「国にあってもそれは同じです。どこにあろうと、人はいつも何かを失い続けています」
「何かを抱えるということは、失うことでもあるんだよ?」
「それが夫婦にはなりたくない理由ですか?」
「そんな難しい意味はないよ。言ってみただけだ」
シーラは歌うように笑った。
それが哀歌に聞こえて、イルハは離さぬ手を再び口元に寄せた。
「私を夫にしたいと思う気持ちはありませんか?」
「妻にはなれないと言ったよ?」
「出来る、出来ないの話ではありません。あなたの気持ちを教えてください」
「出来ないことを考えてどうなるの?」
「出来るようにすればいいと思いませんか?」
「どうやって?」
「考えずとも夫婦になれますよ」
しばらく間をおいてから、シーラは笑った。
「イルハって面白過ぎるよ」
「そうでしょうか?」
「だって、何それ?」
「この世のほとんどが、後付けの理由で成り立っています。それなのに、どうしてあなたと夫婦になることに、立派な理由が必要なのでしょうか?」
「ほとんどが後付けなの?」
「私がどうしてタークォンにあるか、最初から理由が存在していたと思いますか?」
シーラは首を傾げ、しばらく考えた。
「タークォンで生まれたからだよね?」
「それも後から作られた理由でしょう。私がこの世にある前から、タークォンにある理由が存在していたでしょうか?」
シーラは首を捻る。今度は時間が掛かった。
「そういう運命だったのかな?」
「あなたは運命を信じるのですか?」
「信じたことはないね」
言いながら、シーラは笑っていた。
「この国で生まれ育った。あるのはその事実だけです。それなのに、私たちはあらゆる理由を付けて、この国にあることが正しい選択であるよう導きます。ある人は人や国への愛を語り、ある人は他国との優劣の話をします。ある人は自分が国にとって必要な人間だと語るでしょう。ある人はそれを運命と称する。これはどうしてだと思いますか?」
「それにも理由があるの?」
「不安が解消するからですよ。太陽が昇る理由を知らなければ、太陽がいつか消えてしまうのではないかと怯えることになります。だから人はその動きを観察し、こういう理由で太陽は昇っているのだと説明付けて、安心するのです」
シーラの瞳がきらきらと輝いた。
「そんな風に考えたことはなかったよ!」
「勝手な私の考察で、正しいことかは分かりません。これも後付けの理由というものです」
シーラはおかしそうに笑うが、イルハは大まじめな顔で続ける。
「理由など後付けでなんとでもなることが分かりましたね?」
「確かに理由なんて知らないけど、明日も太陽は昇るだろうね」
「理由なく夫婦になって、タークォンに留まってみませんか?」
「どうしても理由が欲しいときは?」
「後付けでいいのですから、夫婦になって共に考えることも出来ますよ」
「もしかして私にも考えろって言っている?」
「考えてくれないのですか?」
「夫婦になる理由を、夫婦になってから一緒に考えるの?」
「タークォンに留まる理由も同じように」
シーラの笑い声は一層大きくなって、星空に広がった。その声が海の闇を蹴散らしたから、二人は明るい空気に包まれる。
「私が考えることになるとは思わなかった!」
「私たちが考えず、周りから理由を定めて貰う方法もありますね」
イルハは不敵な笑みを浮かべた。シーラの笑い声がピタッと止まる。
「いつもあなたがしていることです。何故、夫婦になる場合には、これが出来ないと言えるのでしょうか?」
イルハが言い終えれば、今度のシーラは腹を抱えて笑い出した。
「思ってもみなかったことばかり言うんだから」
「その方が楽しいでしょう?」
「うん。とっても楽しい!」
「これからもあなたの予想を超えてみせましょう。私と側にあって、退屈させないことも誓います。どうか、私の妻に」
「まだ言うの?」
「あなたが認めてくれるまで、いつまでも言いましょう」
二人の笑い声はしばらく続いた。
それもやがて静かになる。
どちらも次の声を出さず、手を引き合い、顔を近付けた。どちらからだろうか。ほとんど同時で、お互いにそれを分かっていなかったのではないか。
いつの間にか、シーラの両腕の晒しは解かれ、直接に指を絡めている。
二人の耳に不思議なことが起きていた。
示し合わせたわけでもないのに、あの日の音楽が同じように聴こえている。
初めて共に過ごした夜に重ねた音の粒は、溢れるように闇へ散らばった。




