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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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5.騒がしい来訪者


 翌日である。


 嫌な予感がしていたイルハは、書類を届ける口実を作り、予測した時間に来訪登録の受付所へと足を運んだ。その予感は見事に的中していた。


「本当に身の上を証明する書類は無いんですか!」


「何も持っていないよ」


「それなら正確にご記入ください!」


「正確に書いたよ」


「どこがです。まず、ここ!海って、何ですか!海って!これじゃあ、話にならない」


 受付所の役人が声を荒げている。


「海の民だよ」


「海の民だって、どこかの国で生まれているでしょう。その国を書きなさい」


「まぁ、本当なんですよ。シーラちゃん、海の上で生まれたそうなの」


「船上ですか?それでも国籍くらいあるでしょうよ。何ですか、空欄って」


 どうやら出生国および国籍の記載内容について、揉めているようだ。シーラは幼く口を尖らせていて、リタの方が熱心に役人の話を聞いていた。


「国籍って言われても。本当にないんだから!」


「そうだとしても!生年月日まで空欄なわけがないでしょう」


 どうも問題は、出生国と国籍だけで終わらない。


「正確に覚えていないんだけど。それでいい?」


「正確に思い出してください」


 イルハの母の服に身を包んだシーラは、来訪登録の受付所に並ぶ他の者らから浮いていた。異国の娘というより、この国に元からある娘に見える。イルハは少しの間、母の服はよく似合うなと感心し、干渉に浸っていた。淡い黄色のワンピースから思い出されるのは、懐かしい母の温もりと、イルハにとっては少々苦々しい記憶だ。シーラには大き過ぎて、裾が地面に届きそうではあるが、良く似合っていることには違いない。


 しかし、そろそろ行かなければならない。これ以上の騒ぎとなる前に、止めなければ。


「どうしました?」


 シーラを担当していた役人はぎょっとして振り返ると、背筋を伸ばし、声を震わせた。シーラの対応をしていたのは、今年入省したばかりの若い男で、遠過ぎる上司の登場に、若い彼が青ざめるのも無理はない。


「騒ぎ立てして申し訳ありません。この者がおかしなことばかり申しまして」


「イルハ!」


 嬉しそうに飛び跳ねた若い娘の声に、若い役人はさらにぎょっとすることになった。


「お知り合いですか?」


「えぇ、少しばかり。シーラ、記憶のある限りで構いません。幼い頃に立ち寄った港などありませんでしたか?どちらもその国を記載してください」


 シーラはすぐに困った顔になる。


「どうしよう、イルハ。そこは国じゃないよ」


「どこです?」


「ザイルメなの」


 おそらくシーラは気付いていないが、当初よりずっと気安くイルハに話し掛けるように変わっていた。初対面のときとのほんの僅かな口調の違い、それをイルハだけが気付き、楽しんでいる。


「自治区ですね。そのまま書いて大丈夫ですよ」


「国じゃなくてもいいの?」


「えぇ。他に問題は?」


「生年月日も覚えていないと申していまして……」


「本当に覚えていないのですか?」


「大体このくらいかなっていう感じで」


「ご両親に聞いたらいいでしょう!本当はご両親と来たのでは?」


 窓口担当者の若い役人は、たまらず言った。


「親のことは知らないんだ。父は生まれる前に亡くなっていたし、母も私を産んですぐに亡くなったと聞いたよ」


 一瞬で、気を遣う空気に変わる。若い役人も、少々気まずそうだ。


「それなら、その大体の日付を書いてください」


「分かるのは年と月くらいだけど、それも間違っているかもしれないよ?日にちも知らなくて」


「あなたがそうだと思う年月でいいですよ。日付は分かりやすく、一日にしておきましょう」


 シーラは頷くと、おおよその生年月日を記入した。イルハは即座に頭の中で年齢を計算する。十六歳だ。


「あの、副長官殿。入国経路もご覧ください。有り得ないことを書いているんです」


 シーラは船の旅行者に違いないが、問題はその船の所有者との関係にあった。


「嘘じゃないよ。自分の船で来たんだから」


「帆船で一人旅なんて、聞いたことがありませんよ」


 蒸気船が主流のこの時代に、帆船で、ましてや若い女性が一人旅など、確かに前例がない。


「ふ頭の守り人には、確認したのですか?」


「いえ、しておりませんが……」


「有り得ないと決めつけて確認を怠って良いと、誰に習ったのです?君の指導係は?」


 すでに彼の真後ろには、一人の役人が立っていた。それも血の気の引いた顔で。


 イルハの指示通り速やかにふ頭の守り人に確認が取られ、確かに一人しか降りて来ない不思議な帆船があり、その後経過観察中だということである。


 新人の指導係である中年の男はおずおずとしながらも、イルハに自分の意を伝えた。考えたものである。


「特別な事例ですので、是非副長官殿のご意見を」


 この面倒な来訪者のすべての責任をイルハに押し付けることにしたのだ。


 イルハは顎に左手を軽く添え、少しの間考えた。昨夜わずかな時間を共有しただけではあるが、この娘が何か悪いことを企んでいるとはとても思えない。こういう勘は冴えている方だと、イルハは自負している。


「確かにあまり聞かない例です。シーラ、失礼ながら、船内を改めさせていただいても?」


「どうぞ。見られて困るものは……」


 言い掛けたシーラは青ざめた顔で背伸びをすると、イルハの耳に口を寄せて、とても小さな声で言った。


「お酒を飲んでいるって知られたら、捕まっちゃうかな?」


 イルハからも僅かに息が漏れた。安らかさと優しさを混ぜたそれは、シーラにも伝わったようで、ほっとした顔付きに変わる。この顔はまた酷く幼いものだなとイルハは感じた。


「大丈夫ですよ。我が国の法の及ばぬ場所で、いくらお酒を飲んでいようと、罰せられることはありません」


「それなら、好きに見ていいよ。ちょっと散らかっているけどね」


「では、担当者に連絡します。あなたにも船の所有者として立ち合って頂きますよ」


「イルハは来ないの?」


 シーラはさほど気にしていない様子であったが、リタの方が不安な表情でイルハを見詰めた。イルハの胸でも不安が増している。


「後で時間を作りましょう。特別な事例ですから、私も改めに参加します」


 関係者に指示を出した後、イルハはもう一度来訪登録の用紙に目を落とした。魔術師の欄にしっかりと丸が付いている。多くの場合、ここに虚偽が生じるから、シーラの発言に問題はなさそうだ。


「シーラ、もうひとつ」


「まだ問題があった?」


「いえ、この国では異国人が魔術を使うことを禁じています。心得ておくように」


「大丈夫。私の魔術は航海用だよ」


「宜しい。では、後ほど。リタ、後で迎えを出しますから、それまで昼食でも取っていてください」


「お金がないよ」


「いいですよ。リタ、ご馳走してあげてください」


「では、中央広場のリリーの店にでも参りましょう」


「ありがとう、イルハ。後でね!」


 その声はよく通り、受付所が設けられた場所の隅々まで行き渡った。幾人かが仕事の手を止め、声の主を探して振り返る。皆が一様に酷い顔をしているのは、どうしてか。名を聞いただけで、頭に過ぎる顔が良くないのだろう。


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