49.幼き少女
何時間も前から、イルハはふ頭のベンチに座っている。シーラの船は目の前だ。
これは彼なりの賭けである。
『海にしか名を持たぬ者が現れたときは、はじめからすべてを疑いなさい』
そう言ったのは、亡き父だった。
イルハは相次いで両親を亡くしている。
父親が先に逝き、病気がちだった母親は後を追うように亡くなった。
元からイルハの世話をしていたのは、リタとオルヴェの使用人夫妻であったから、生活に困ることはなかった。
父親から受け継いだ資産も十分にあったし、生まれながらに庶民よりもずっと高い地位が確約されている恵まれた身の上である。
両親が亡くなったところで、イルハが将来への不安を感じたことは一度もない。
それでも両親の死は、イルハに大きな影響を与えたし、今も与え続けている。
父のようにならぬと決めて生きて来た。
母のような悲しい女が二度と現れぬようにと、今も願っている。
シーラに惹かれてしまったのは必然か。
イルハは人知れず首を振った。そうではないと、すでに知っていたからだ。
あの音楽を聴いたときが、すべてのはじまりだった。イルハの心が奪われたのは、間違いなくあのときだ。
それがたとえば、すべて謀られたことであったとしたらどうか?
疑っていなかったわけではない。どれだけ惹かれようと、すべての可能性を否定せぬように心掛けてきた。
イルハは今、それを確かめようとしている。
そうでなければいいと願いながら。すでに調べた事実が、そうはならないことを説明していた。
岸壁と、並ぶ船に当たる波が、定期的にたぷん、たぷんと、気味の悪い音を鳴らし続ける。
ふ頭側は明るいが、海を眺めれば真っ暗闇だ。空に月も星も出ない夜は、海がどこまでも闇を抱え込む。
こんな闇の中にどうして一人でいられたのだろうか。
光もなく、波音しか届かない、誰も存在しない場所にあったとき、自分はどのように感じるだろうか。イルハは真剣に想像した。
何があっても、助けを求めることは出来ない。何かあれば、ただ海に沈み消えていく。
誰も自分がそこにあることを認めてくれない。自分が無きようになろうとも、やはり誰もそれを認めないのだ。
自分という存在は、果たしてそこに存在し得るのか?
イルハは少し想像しただけで恐ろしくなった。
世界から切り離された、完全な孤独だ。
人付き合いの得意な方でないイルハでも、ひと月、いや十日、それどころか三日もすれば、発狂してしまうかもしれない。
今はテンを乗せてはいるが、イルハの調べた通りであれば、シーラは十年近く一人で海を漂って来たはずだ。それがはじめから一人であったかどうかは確かではないけれど、少なくともイルハと出会った三年前のあのときは、間違いなく一人で生きていた。
あの頃のシーラはまだ若く、少女と呼んでもいい年齢だったというのに。何故陸に立ち寄って、人とあのように接しておきながら、再び海に舞い戻ることが出来るのか。
そのような娘であることを忘れてはいけないと、頭は警鐘を鳴らし続けている。
それでもイルハの心は、シーラそのものを認めたがった。
あれもすべてシーラなのだと。どこまでも信じたくなるのは、イルハがすでに心を奪われてしまっているからだろうか。
「やっぱりイルハは面白いね」
気配もなく声が降って来た時、イルハは自分でも知らず、小さな息を吐いていた。
「この国では、異国人が魔術を使うことは許されていませんよ」
長く、長く、このときを恐れ、避けたいと願いながらも、そうなったときのことをよく考えてきたから、イルハは落ち着いていた。
顔を上げれば、目の前にシーラがある。
「何のこと?」
「警備兵の目を眩ませましたね?」
街灯はシーラの顔をよく照らした。シーラはいつものように、いや、いつもとは違った笑い方をした。
そこに幼い少女の面影が現れていることを、イルハははっきりと認める。
相反するときでさえ、頭も心も正しくものを観ていたと、イルハは悟った。
「船を出すつもりですか?」
「少し漂うくらいだ。テンも残しているし、アンナが出たら戻るよ」
「私を乗せて頂けませんか?」
「それは出来ない」
シーラの声に、強い拒絶が込められている。
それでイルハが怯むことはなかった。イルハとすれば、想定内だ。
「タークォンのイルハ・レンスターとしてではなく、何者でもない一個人としてならどうです?」
街灯が照らすシーラの顔から表情が消えている。
「イルハはそれを捨てられないよ」
「あなたのようには出来ないと言いたいのですね?」
すぐにシーラは笑った。
いつもの顔を見せているつもりだろうが、イルハには違って見えている。
それはイルハ側の気持ちの問題か、それともシーラにも隠せない感情が溢れているのか。
イルハには分からない。
「タークォンがある限り、イルハはずっとタークォンにあるでしょう?」
「テンを乗せているのは、祖国を失ったからですか?」
「それは違うね」
「ではテンは祖国を捨てたと?」
「それも少し違うね。テンは今も祖国を大事に想っている」
それはイルハも知っていた。テンはいつだって、祖国のしきたりに従っている。リタとオルヴェがいくら言っても、この国の民にはならないとはっきり断っていることも聞いていた。
さらにテンの祖国は、亡国となったとも言えない状況に変わっている。王家は外へ逃げ出したという噂を耳にしたが、今もララエール存続のために戦っている者たちがいた。民たちの方が意思を持って動き始めている。
ならばテンは帰りたがるのではないか。しかし、そういう素振りも見せない。
「テンは海にありたがっているからね」
「乗せ続けるつもりですか?」
シーラはゆったりと首を振った。
「それもないね」
「どういうつもりか、語りたくはありませんね?」
「テンのことだ。テンと話すよ」
イルハはこれについて、とやかく言うつもりはない。
テンはまだ十二歳ではあるが、それでもテンの人生だ。祖国を想う気持ちがあるのに、無理やりにタークォンの民にすることが、テンにとって幸せかどうか。リタたちはそうしたいと願っているようだが、イルハはこれを本人に決めて貰うべきだと思っている。
イルハはまたこうも考えている。
テンの場合、今すぐに決めなくてもいいのではないか。
テンにはまだ学ぶべきことが沢山あって、自分の生きる道を正しく識別出来るようになるまでは、大人たちがこれを見守る必要があろう。イルハとすれば、学ぶ機会を与えてやる方が大事に想う。
しかしイルハはまた、次のような考えも持っていた。
この件はシーラに任せてもいいのではないか。学ぶ機会ならば、シーラが与えるだろう、と。
シーラはすでにテンの先を決めていて、そのように少しずつ導いている。テンを連れてこの国に現れたときに、イルハはそのように感じ取っていた。
無意味に戦争孤児を連れ回すような娘ではないと、信じられたから。
「あなたの話なら、出来ますね?」
「それも困るね」
シーラの口調が少しだけいつもの感じに戻った。イルハが短い期間に慣れ親しんだ方の口調だ。
「何が困りますか?」
おかげでイルハも、今までよりずっと優しい声となる。
「アンナがすぐに寝ちゃって、飲み足りないと思っていたんだ。だから今から海に出て、たっぷり飲もうと思っていたところでね」
「私もお付き合いさせて頂けませんか?」
「それは出来ないと言ったよ?」
「どうしても乗せて頂けないでしょうか?」
「明日も明後日も仕事があるでしょう?」
「どうにでもなります。それに」
イルハは躊躇いもせずに先を言った。王子が聞いていたら、酷く笑ったであろう。
「タークォンを忘れて過ごすと言ったからには、仕事のことも忘れるつもりです」
「そんなことをして平気なの?」
「我が国には、仕事を休んで海に出てはならないという法はありません」
シーラは笑った。それは海らしく愉快な声であって、海の闇さえ吹き飛ばす勢いである。
「イルハはやっぱり面白いね!」
「そう言ってくれるのも、あなたくらいですよ」
「そうかな?イルハと居ると、みんな楽しそうだけど」
イルハも笑った。これだけは額面通り、素直に受け取ろうと決めたから。
いくら頭が危機感に騒ごうと、心が感じるものも大事にしようと、イルハは決めたのだ。
笑い声を収めたのもシーラが先で、次の言葉も発したのもシーラからだった。
「アンナが出るまでは戻らないよ」
「モンセントの皆様は、明後日の正午前に出航される予定です」
「大海にも出ないつもりだ」
「それならば、乗っても構わないということですね」
「本当に、本気なの?」
「タークォンを忘れてみせましょう」
街灯が照らす先へと伸びたイルハの手は、目の前に立つシーラの手を掴んでいた。
今日は細く切った晒しが指先までしっかりと巻かれている。この晒しを解いてしまいたいと、イルハは強烈に想った。それは突然溢れた感情だ。
「今宵私は、どこにも属さない個人として、あなたの船に乗ります」
シーラが息を吐くように笑った。
イルハはまだ手を離さない。
「同じことを望んでも構いませんね?」
「私に何を望むの?」
「陸か、海か。そういったところから離れた、ただの個人であるあなたを知りたい」
やはり幼い少女が残っている。
優しく微笑んだシーラから、イルハはそれを鮮明に受け取った。
あまりに多くのものを失った当時の幼い少女が、今もシーラの内側にあり続けている。




