45.海にあるもの
レンスター邸宅を出て、しばらく歩いたところだった。
シーラは両手を合わせて、パンと小気味良い音を鳴らした。
シーラのそれは合図だ。
二人の周りの空気だけがピンと張り詰める。
すぐにテンは不機嫌な顔で隣のシーラを見やった。いつもとはまるで顔が違う、不貞腐れた幼い少年の顔である。
「この国では何をしているの?」
シーラはテンの頭を片手で軽く撫で回した。
「何もしていないよ」
「嘘だね」
二人は話ながら、歩き続ける。
「怪我は、何のつもり?」
「酷いなぁ。怪我をしたら、心配してよ」
幾人もの警備兵にすれ違うも、シーラとテンを気にする者はいない。
「少しくらいヒントをくれない?」
「この国の私に必要だったね」
「この国のシーラって?」
「テンと同じだよ。よく頑張っているね」
シーラはにこにこと微笑んだのに、テンは不満を露わにする。
「海の魔物って何?」
「あはは。偉かったよ」
「シーラのあの話でしょ?何で俺が知っているって言わないの?」
「そりゃあ、気を遣うね」
「遣う相手が違くない?」
「そうかなぁ?」
「それに何か話が違っていない?」
「そうでもないよ」
シーラは悪びれるところなど見せない。
だからテンはさらに不満をぶつけることにした。
「魔法とかも何なの?疲れるんだけど」
テンは凄く嫌なものを食べたときのように、顔を歪めた。
いつになく、はっきりと感情を示しているが、こちらがテンの素直な状態か。
「疲れることもないでしょう?楽しくなかった?」
「あんな子ども騙しで笑えないよ」
「子どもが何を言っているの!」
シーラはおかしそうに笑った。それでもテンは不機嫌なままだ。
「シーラはいいけどさ。こっちは、いつもリタたちといるんだからね」
「テンもリタとオルヴェのことは気に入っているでしょう?」
「嫌いじゃないけど。ずっと子どもらしくなんて無理」
「だから、子どもが何を言っているの!」
今度のシーラは、歩みを止めて、後ろから両手でテンの赤毛を撫で回した。テンはとても迷惑そうな顔をしているが、足を止める。
「ラッキーたちを使ったの?」
「何のこと?」
二人はまた歩き出す。
「フリントンに何かさせたよね?」
「あの人は私の頼みなんか聞かないよ」
「アンナに会うためにこの国に来たの?」
「それは偶然だね」
「全部嘘だね」
シーラは乾いた声を上げて笑った。遠い空まで抜ける大きな声であるのに、警備兵も、すれ違った人たちも、シーラを見ない。
「テンは賢いけど、考え過ぎるところがあるね」
「笑っていないで、説明してよ」
「それじゃあ、つまらない」
テンは悔しいと思う。
シーラは自分が子どもだから話さないのではないと知っている。それはフリントンや他の海のものを見ていたら、よく理解出来た。
海ではもっと賢くなければ、生きられない。自分ですべてを知るようにしなければ。
だから分からない自分が悔しい。
「分からないことがあるから、楽しく生きられるんだよ、テン。もっと楽しんで」
「教えてくれても楽しめるよ」
「そんな顔をしないでよ。もう少ししたらこの国でも楽しくなるからね」
テンが足を止めた。シーラは止まらず、前を歩く。
「シーラ」
「なぁに?」
シーラも歩みを止めて振り返った。
「俺はこの国に残らないからね」
「分かっているって」
「置いて行くなら、言った通りにするよ」
シーラはふっと息を吐くように笑った。
「怖いことを言わないの」
「俺は決めたことだけは偽らない」
シーラは頷いて、また前を向いて歩き出す。テンも歩み始めた。
「少しも教えてくれないの?」
「そうだねぇ」
シーラは空を見上げた。青く澄んだ空は、海を彷彿とさせる。白い雲は立つ波のようだ。
「イルハが私に正当な理由をくれるから、しばらくはこの国に滞在することになるよ」
「正当な理由って?」
「それはイルハが考えてくれる」
「普通に滞在するんじゃ駄目なの?」
「私が選ぶことと、イルハが選ぶことは違うからね。イルハが選ぶこと、それはすなわち、王子が選ぶことでもあるんだ」
テンにはさっぱりと分からない。だからといって深く聞いたところで、どうせ分かる答えは返って来ないのだ。
「もう海に出ないつもり?」
「それはないね。近いうちに海に出るよ」
「結局海に出るの?」
「次は今までとは違う形だ」
「どう違うの?」
「それは後のお楽しみだよ」
シーラは笑った。
まったく本音を漏らさない、海にあるものたちの習性を楽しむには、まだテンは幼かった。
赤毛の少年の胸にどんどん不満が溜まっていく。
それを見越してか、シーラは優しい声で言った。
「そんなに先を見通すこともないよ。楽しいことは明日にも始まるからね」
「明日?また何かするの?」
「嫌だなぁ。私は何もしないよ」
「じゃあ、何?」
「アンナに会って楽しもう!」
テンはまた不機嫌に顔を歪めた。
「あれ?仲良くなかった?」
「どう見たら、仲良く見えるの?」
シーラは気持ち良く笑った。
「アンナはテンと仲良くなりたいんだよ」
「あれで?」
「あの子はとても難しいからね。仲良くしてあげてよ」
「俺には無理」
「あはは。またお願いするよ」
「疲れるんだけど」
「まぁまぁ。海に出たときは、のびのびさせてあげるから」
シーラとテンは街をぐんぐんと北に進む。どこに向かっているのか。
「どうやって会うの?」
「明日は王子と観光するみたいだよ。まぁ、この服だから。あちらが気付くかどうかは懸けになるね」
「どうせ分かるようにするんでしょ?」
「そこまでしないよ。そういうことは運任せがいい」
テンは訝しそうに顔を歪めたが、また違うことを問うことにした。
「どう動くか、調べたの?」
「調べるほどじゃないよ。テンも見たでしょう?」
テンは頷く。この国は緩過ぎた。
王子に届くような重大な書類を、この国にない者に見せてしまうのだから。
それ以前に、シーラやテンを堂々と側に置く。その無防備さがテンには理解出来ない。女子供は何もしないとでも思っているのだろうか。
テンはそこかしこにいる警備兵を確認する。警備兵はシーラたちに目もくれない。
「あれで国を守っているつもりかな?」
「この国の内側を守っているんだよ」
「内側って?」
「国の中で問題が起きないようにしているんだ」
「外からの心配はないってこと?」
「今まではなかったんだろうね」
外からの脅威に長く晒されなければ、このような国が出来上がるのか。
テンは西側の諸国を訪れるたびに、大きな学びを得ていた。どこも緩く、とても危うい。それでも国は成立している。
それはつまり、祖国がとても厳しい環境にあったということだ。それも外を知らなければ、幼いテンには気付くことが出来なかっただろう。
「この国を助けてあげるつもりなの?」
「まさか。国のことなんて知らないよ」
「じゃあ、何?」
シーラは歌うように笑った。海でよくする笑い方だ。
「大好きなイルハに会いに来た。それだけだ」
テンはもう何も言わなかった。どうせ聞いても無駄だから。
それならシーラの言った通りに、今を楽しもうと考えを改める。
シーラは聞いたところで本心を言わないが、自分から話したことに偽りはない。だから、本当に楽しいことが起こっていく。それだけは間違いないなら、楽しんだ方がいいとテンは思うのだ。
そんなテンの気持ちを察してか、シーラはまた違う提案をした。
「ねぇ、テン。オルヴェの魔法を覚えておいてよ」
「何で?」
「後で面白くなるからだよ。テンは器用だし、すぐに覚えられるでしょう?」
「シーラが覚えたら?」
「私には無理だ」
シーラは明るく笑った。
「覚えたらいいことはある?」
「そうだなぁ。魔法をひとつ覚えたら、好きなものをひとつ買ってあげようか」
「言ったね?」
「王子からたんまり貰ったし、欲しいものを買ってあげるよ。前から欲しがっていたあれでもいいよ」
「それなら」
「言いたいことは言えた?」
どれだけ言っても足りないと思うが、テンは大人しく頷いた。
「ずっとこうしていたら、まずいの?」
「隠れ過ぎると、探されるんだよ。何事もちょうどいいところがあるから、テンはこれを知るといいね」
たまにシーラはテンを諭すようなことを言う。不意打ちのそれに、テンはいつも心を魅了され、シーラへの不満、いや、未熟な自身への不満を忘れてしまうのだ。
シーラはパンパンと二度手を叩いた。自然なときの終わりの合図だ。
すれ違う警備兵が二人を見ている。
いつの間にか二人は街の北外れまで足を運んでいた。
石造りの家々の隙間から、梟が描かれた小さな看板が覗いている。どうやら喫茶店のようで、二人は相談もせずにその店に足を踏み入れた。
店内は昼間だというのに薄暗く、とても繁盛している様子はない。まず他に客もなかった。こんな街外れで、どうやって営業を続けているのか。
シーラとテンが席に着き、いたって普通の娘が注文を取りに来ると、シーラはいつものように明るい声で言った。
「珈琲と美味しいケーキをを二人分。ケーキは分けたいから、種類を変えてくれる?」
しかしシーラはいつもとは違って、ここで言葉を終えなかった。
「ねぇ、知っている?さっき面白い話を聞いたんだけどね。北のある国の黒猫は眠らないんだって」
テンは真剣な顔でシーラを見ている。シーラの口から、海の隠語が出たからだ。
『北のある国』
『黒猫』
『眠らない』
それぞれの言葉が何を暗示しているのか、テンはまだ分からなかった。シーラに聞いたところで、教えてはくれないのだ。
言葉はいつも同じではなかった。『南のある国』『白猫』『いつも寝ている』というように、今回と反対になることもあるし、まったく異なる言葉のときもある。
その意味を理解したくて、テンは真剣にこの場を観察した。
「そんなことがあるんですか?」
娘は淡々と言って、それからシーラにメニューを差し出した。注文を取ったところだというのに。
シーラが受け取ったメニューから番号を伝えると、奥から老婆が現れた。
その老婆からシーラが沢山の情報を仕入れている間、テンは黙ってこれを聞いていた。
テンは考える。
どれかの言葉は『情報提供』を意味している?それならどうして、反対の言葉を使うこともあるのだろうか。
この国か、あるいは世界か、いずれかの意味を示した言葉もありそうだ。『北のある国』はどうだろう?これは『南のある国』だけでなく、『西のある国』にも『東のある国』にも変わることがあるから、違うのではないか。では『黒猫』か『白猫』、あるいは『眠らない』か『いつも寝ている』がこれを意味する?だけど前の港では…。
今までのシーラの言葉を振り返ってみても、一つの明白な答えに辿り着かないのであった。
それでテンは別のことを考え始める。
シーラがたった今仕入れた情報をかき集めて、想像を働かせ、シーラがこの国でしていることを突き止めようと試みた。
けれどもやはり難しくて、シーラが何をしているのか、これから何をしたいのか、さっぱりと掴めない。
これがフリントンならば、すぐに理解するんだろうなぁ。とテンは思った。
テンがいつもあの男を観察してしまうのは、このためだ。あの人のようになれば、シーラと対等に付き合えるのではないかとテンは信じている。
しかしテンは知っていた。悔しいが、彼に敵うまでには、長く時が必要になろう。
テン自身がこのように悟っていたのは、フリントンの船に乗る者たちでさえ、テンと同じ状態にあったからだ。
海は難しい。
だけど。だからこそ。
生きてしまった自分は、これからは海にありたい。
たとえシーラがそれを望まなくても。シーラの隣で生きていく。
テンの覚悟は揺らがない。
店を出たとき、外の光がやけに明るく感じた。店内が薄暗かったせいだろう。
シーラは少し歩くと、説明もなくパンパンパンと三度手を鳴らしてみせた。
それでテンもいつもの無表情に戻って行く。少年はタークォンでのテンという少年に成り切った。




