44.無邪気な時間
「お帰りなさい!今日は王子も一緒なの?」
リタと共に玄関に現れたシーラの様子に、王子もイルハも安堵する。
あれからあの男がシーラに接触することはなかったか。
イルハがリビングに顔を出すと、食卓に座っていたオルヴェが手を止め、顔を上げた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。おや、殿下もご一緒でしたか」
いつもリラックスした雰囲気のオルヴェとて、王子の前では多少気を引き締める。立ち上がることはなかったが、姿勢を正して頭を下げてみせた。
おかげで手品もとい魔法は中断されたが、それをオルヴェの前の席で楽しんでいたであろうテンは、相変わらず無表情で顔色一つ変えることがない。本当にこの魔法を楽しんでいるのだろうか。
「聞いてよ、王子。オルヴェって凄いんだよ。魔法が使えるんだ!」
シーラが嬉しそうに言えば、イルハが王子にことの次第を説明する。
聞き終えると、王子はニヤッと不適な笑みを浮かべ、シーラに言った。
「俺も昔見せられたぞ」
「見せられたって?」
「こいつがオルヴェは凄いんだって自慢して来たからだ」
「イルハがそんなことをしたの?」
「お辞めください、殿下」
「いいじゃねぇか。おい、シーラ。こいつにも幼い時があったんだぞ」
「それは見てみたいね」
見たいのはこちらの方だと、イルハは思う。
幼き日にこそ、シーラに会っておきたかった。
しかし会っていたところで、何も変わらなかったのではないか。シーラより年上だとしても、自分も幼いときだ。何も出来やしないだろう。いや、今に幼いシーラと出会ったとして、それほどのことは出来ないのではないか。
イルハはそんなことも思った。
「ねぇ、王子。イルハってどんな子どもだった?」
「俺よりオルヴェに聞いたらどうだ?」
「そうですなぁ。とても可愛らしい子どもでしたよ」
「辞めてください、オルヴェ」
イルハは恥ずかしそうにしながら、「荷物を部屋に」と言って、廊下に逃げた。今、歩いて来た廊下なのだから、途中で部屋に荷物を置いて来れば良かったというのに。
「イルハって、子どものときも優しかった?」
「それはもう。坊ちゃまはいつも優しくしてくださいましたよ。私が腰を痛めたときなんかには、良く効く薬草を買いに行ってくださいましてね」
シーラはとても嬉しそうに微笑んだ。幼いイルハを想像しているのかもしれない。
「イルハはきっとずっと優しいんだね。王子はどんな子どもだった?」
「俺に聞かれても分からねぇぜ。どうだ、オルヴェ?」
「これはまた、答えにくいことを仰いますなぁ」
「答えにくいような子どもだったんだな?」
オルヴェは笑って誤魔化した。
「それよりお前はどんな子どもだった?」
逆に問い掛けられて、シーラは目を見開く。何故かとても驚いた顔をしていた。
「どうした?」
「考えたこともなかったよ!どんな子どもだったんだろうね」
シーラは軽快に笑った。そんなに可笑しいことだろうか。
「自分じゃ分からないものだねぇ」
「そりゃあ、自分じゃ分からねぇよな」
「うん。分からないから答えられないや!」
シーラが元気に言ったとき、イルハは廊下でこれを聞いていた。
シーラのあの様子は何だろう。
過去を隠そうという類のものとは、また違う。素直なようで、偽りでもあるような。
シーラの機微は読みにくい。
心の奥に海のような深さのあるところがあって、そこへすべてを隠し、表面の波だけを見せているのではないか。
イルハは近頃、そのように感じていた。
いつも明るく元気にあるのも、どこまでも深い底を持っているせいではないか。闇を見せずに済むくらいに、心にどこまでも深い淵がある。
そうでなければ、どうしてあのように笑いながら一人で海にあれると言うのか。イルハには説明が付かない。
イルハは一度首を振ると、すました顔でリビングに戻った。
リタが用意した美味しい夕食を囲むうちに、王子もイルハも今日の騒動による疲れが癒されていくのを感じた。
心が穏やかになったところで、王子がようやく尋ねる。
「昼間の奴は何者だ?」
「何者って?」
相変わらず美しい所作で、シーラは食事を味わっていた。今日はコチがフライになっている。
「普通の者ではないよな?」
「普通の者って、どういう人?」
「そういう意味で言ったんじゃねぇぞ」
「じゃあ、どういう意味?」
シーラは彼について特に説明する気がなさそうだ。だからイルハは言った。
「あの方は海賊ですね?」
「もう調べたの?」
いずれ正体が知れるだろうと、シーラも読んでいたらしい。
王子がそっとイルハを見たが、イルハはこれに視線を合わせなかった。
「フリントンという名を聞かねば、分かりませんでしたが」
「違う名前で登録していた?」
「そうですね」
「そもそも登録したんだねぇ」
シーラはのんびりと言ってから、笑った。
「他にもいくつもの名を持っているようですね」
「そうみたいだね」
「フリントンというのが、本当の名だと思って良いですか?」
「それは知らないね」
「本名はお前にも明かさねぇのか?」
「それも分からないよ。聞いたことがないからね」
海にあると、名前などどうでも良いのかもしれない。
「あの方と結婚の約束をされているんですか?」
イルハがさらっと聞いた時、リタもオルヴェも食事の手が止まっていた。王子も今聞くとは思わず、少々驚いた顔を見せている。テンだけがいつもの通り無表情だ。
シーラは笑った。それは愉快だというように。明るい声がレンスター邸宅を抜けて行く。
「あれは冗談だよ」
「あちらは本気のように見受けられましたが?」
「フリントンはね、あちこちの港に奥さんがいるんだ」
「そりゃあ、いい身分だな」
王子が言うと、あろうことかリタとオルヴェは共に似たような冷ややかな視線を王子に向けた。無礼にもほどがあるが、王子は小さく笑っただけだ。
「フリントンに身分なんてないよ?」
「今のは、そういう意味じゃねぇよ。楽しそうな暮らしだなと言ったんだ」
「そりゃあ、楽しいだろうね」
「分かるのか?」
それは困ると、イルハはひっそりと思う。
フリントンが何をしていてもいいが、シーラまで同じようにそこら中の港に夫を持つとなれば、イルハはこれを認めることが出来ない。しかしそれが海にあるものらしさだとしたら、どうか。もういっそ、海に出さぬようにすれば…。そんなことをすれば、そもそも自分の妻であろうとはしてくれないだろう。
まだ妻でもない娘に、イルハは本気で頭を悩ませていた。
「フリントンは、いつも楽しむことしか考えていないからね。あの人が楽しくないときはないと思うよ」
「なんだ、そういう意味か」
「そういう意味って?」
「お前もそこら中に夫がいるのかと思ってな」
「私はそんなことをしないよ!」
王子がイルハに視線を移すと、イルハは安心しきった顔でシーラを見詰めていた。もはや気持ちを隠そうともしていない。
リタとオルヴェも同じようにほっとした顔をして、視線を合わせ穏やかに微笑んでいる。こちらも二人の仲を堂々と応援しているようだ。
王子はもう笑うしかない。
それで王子は、話題を変えた。
「そういや、お前。モンセントに知り合いがいるんだよな?」
「いるけど、どうしたの?」
「今度そこのお姫様がやって来るぞ」
「何をしに?」
「次期女王として挨拶巡りを兼ねた外遊らしい。伴として、お前の知り合いが来るかもしれねぇぜ」
「どうかなぁ?」
「さすがに王家やその周りに知り合いはいねぇか?」
タークォンのようなことが、頻繁に起こり得ることはないだろう。
イルハとてそう思う。
自分と出会ったことも偶然であるし、我が国の王子は自由過ぎた。
シーラは首を捻ると言った。
「王子もイルハも忙しくなるの?」
「向こうが次の女王なら、対応しねぇわけにもいかなくてな。俺が姫様の観光に付き合うことになっている」
「それは大変だねぇ」
しみじみとシーラは言う。
本当に大変だと思っているのか、王子は疑いを持った。適当に返しているだけではないか。
「その間は手伝いもないぜ」
「それは残念。そのお姫様はどれくらい居るの?」
「五日だと聞いたぞ」
「短いんだね」
「忙しいんだろうよ。あちこち外遊して周っているらしいぜ」
シーラは頷いて、それからイルハに視線を移す。
「ねぇ、イルハ。その間、テンと二人で街を回ってもいい?」
イルハが答える前に、リタが口を挟んだ。
おかげでイルハはじっくりと考える時間を得る。
「まぁ、シーラちゃん。淋しいことを言わないで。私も一緒に行くわ」
シーラは優しく微笑んだが、これをはっきりと断った。
「リタとも出掛けたいけど、たまにはテンと二人で過ごさないと!ねぇ、テン」
「俺は別に何でも」
「またまたぁ。照れ屋さんなんだから」
シーラは左手を伸ばすと、テンの赤毛をわしゃわしゃと撫で回した。
王子とイルハが自然に顔を見合わせている。
二人共に、どうするか、迷っていた。
その不安を払拭するように、シーラはさらに元気よく言う。
「大丈夫だよ。この国の法は覚えたからね!」
「お前の大丈夫は、そう聞こえねぇんだよな」
「リタが一緒では困りますか?」
「困ることはないよ。だけどたまには二人で遊びたいなぁと思って。テンがいるんだから、法に反することはしないよ。昼間に少し買い物をするくらいだ」
シーラはイルハに体を寄せると、その先は小声で言った。
「二人にいつものお礼をしたいんだ。いいかな?」
そこまで言われて、反対する理由はない。
この国では未成年だとしても、シーラは一人で世界を巡って来た娘だ。周囲が行動を制限するような箱入り娘ではないし、タークォンとしてもシーラたちの自由な行動を制限する理由はなかった。法さえ犯さなければ、この国では何をしても自由だ。
食事を終えた後には、レンスター邸宅には長く楽しい音楽が鳴り響いた。
街を見廻る警備兵たちも一様に邸宅前で足を止め、この音楽にひととき癒されていく。昼間の男たちも同じようにしていたことを、タークォンにある者は誰も知らない。




