42.フリントン
今日のリリーは、いつもと違った。
リタがイルハの家で使用人をしていることを知っていたから、当然シーラもイルハと懇意にしているだろうことはリリーも予測していた。
しかしながら、実際にイルハがやって来るとどうにも落ち着かない。
悪いことをした覚えはなくとも、何か知らずに法を犯したような気がしてくる。
何か反していたことはないか。もしかして自分はすでに大きな過ちを犯している?
イルハを前にすると、そんな気がしてくるのだ。
何もしていないのに、悪事を自白して、謝りたくなる。
だからずっと、リリーの顔色は晴れない。
イルハは申し訳なさを感じていたが、そんなことはシーラとテンには関係ないことだった。
それは二人がいつものように互いの料理を分け合おうとしたときに起こった。
「僕にも一口貰えるかい?」
「いやー」
叫び声は店内に響き渡った。同時にガンという鈍い音が鳴る。
「シーラ。脛は辞めよう」
男がすでに、シーラの隣に座っていた。それも他の席から椅子を移動して座っているのだ。
声がするまで、王子もイルハも彼の存在に気付かなかったというのに。
いつの間に、椅子まで移動して、そこにあるのか。
「ここで何をしているの!」
「何って、愛しい妻に会い…」
再びガンという音が鳴った。
若い男は眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。
先からシーラは男の脛を蹴っていた。
入口の扉に備え付けられた鐘が鳴った。
店内にある者の視線が、一斉にそちらに向かう。
「シーラ。いつも悪いな」
男たちがぞろぞろと店に入って来た。リリーも気付いて、注文を取りに顔を出す。
今日のリリーは厨房に引っ込んで、客に顔を見せたがらない。それは当然、イルハのせいだ。
王子とイルハは顔を見合わせ、気を引き締めた。
目の前の男は、鐘を鳴らさずにこの店に入って来たということだ。
まったく、警備兵たちは何をしているのか。
「みんな、久しぶりだね!」
今度のシーラは嫌がらなかった。むしろ入って来た四人の男たちへの態度は、好意的に見受けられる。
隣に座った男だけが気に入らないということか。
理由は分からないが、テンはずっとシーラの隣にある男を観察していた。それも無表情で。
「ねぇ、ヤニ。どうにかしてよ」
一番若い男に、シーラは言った。背の低い、小柄な男だ。シーラと同じくらいの年齢か。
「酷いなぁ。大事なフィアンセじゃないか」
「誰がフィアンセだ!気持ち悪い!」
ヤニと呼ばれた若者は、シーラの側で足を止め、申し訳無さそうに言った。
「悪いな、シーラ。馬鹿で、阿呆で、間抜けで、だらしなく、海でしか役に立たないうえに、役に立とうともしない、結局酒を飲むことしかしない、あるいは寝てばかりのどうしようもない男でも、俺の頭なんだ。俺にはどうにも出来ない」
「言葉が多過ぎないかなぁ、ヤニ?」
頭と呼ばれた男は、とてもゆったりと言っていた。
怒るような気性は持ち得ていないのか。
ヤニをはじめとした四人の男は、シーラたちの後ろの席に陣取った。
しかしシーラの嫌がる男はこれに追従せずに、シーラの隣から動かない。
「皆と食べなよ」
「どうしてそんなに嫌がるかな?」
「こちらが聞きたいよ。どうしてタークォンにいるの?」
「それはもちろん、君がいると聞いて」
「誰に?」
「ラッキーたちに会っただろう。あいつらだ、シーラ」
ヤニの次に若そうな男が後ろで言うと、シーラは憤慨した。
シーラもこのように怒るのかと、イルハはまじまじとこれを観察している。
「テン、次の行き先を決めたよ。ザイルメに行こう。ラッキーたちにたっぷりご馳走して貰おう!」
「いいね。あそこも料理が美味い」
「それなら僕たちも一緒に行こう」
「もう付いて来ないでよ!」
男は少し黙って、シーラの顔をじっと見た。
それからそっと手を伸ばし、シーラの額に触れると、まだ新しい傷跡をするすると撫でていく。
「またやったの?僕はどれだけ傷だらけの君も愛し続ける自信があるのだけれどね。未来の妻にはもう少し気を…」
ガンという音の後に、うっという呻き声が続く。
それでも彼は怯まない。再び傷を撫でて、切なそうに言った。
「これは痛かったね」
「傷よりも縫われた方が痛かったんだ。その糸を抜かれたときもだね」
「あらら。それは大変だったねぇ」
男はまだ額を撫でている。やはり切なそうに。
シーラもこれを払おうしない。
「みんな大袈裟なんだもの。顎だって縫わなくても寝ていたら治ったのに…」
男はここで首を傾げた。
「縫ったよ?」
「え?」
「縫ったし、その糸は抜いておいたよ?」
シーラはとても驚いた顔で、男を見詰めた。その顔に男は微笑みを返す。優しくも、温かい、家族のような笑顔だ。
「お前、覚えていないのか?」
後ろからも声が掛かった。
「あのときは…」
***
目が覚めると木の板を張った屋根が見えた。いつもの空じゃないし、自分の船でもない。少しの不安が過ぎると、すぐに知った声がした。
「大丈夫、僕の部屋だよ」
酷く安心したのは確かだ。知らぬ者であったなら、どうなっていたか分からない。
「フリントン?」
「君があまりにぐっすり眠っていたから、僕の部屋に運んで、妻にしてしまおうと思ってね。もうそろそろ良き頃合いに…」
いつものように暴れてから、その場を逃げ出した。
***
「頭はもう少しうまく立ち回ればいいものを」
「あんなに世話をしてやったんだ。そうしたって言ってやりゃあ良かったんですぜ」
「何を言うんだい、君たち。愛する妻を守るのは、夫の務め。自室に運んで献身的な世話をするのは、僕の深い愛そのもの…」
フリントンは、脛を押さえて、冷や汗を浮かべている。
「運が良かったんだぜ、シーラ。近くを通った船から連絡が入ってな。お前の船が漂っているが、どうもお前の姿が見えないって。それで頭が…」
黙って聞いていたイルハは青ざめた。同じように王子の顔色も若干悪くなる。
テンはどうか。やはり無表情で、フリントンだけを見ていた。
「僕は思い出話がそんなに好きじゃないよ?」
フリントンの言葉など、誰もお構いなしだ。
「船を飛ばして、その座標を目指してさ。あんなに飛ばしたこともねぇんじゃねぇか?うちの頭はどうしようもねぇだろう?こっちが出して欲しいときにも、本気なんて出さねぇんだから」
「ヤニは言葉が多過ぎるねぇ」
「船を見付けたら、帆が落ちちまっているし、お前は見えねぇから、例のあれで頭が船に飛び乗って。そうしたらシーラが、帆の下で血だらけで倒れていたもんだから」
「それからずーっと看病したのも頭だぜ」
「知らなかったとはなぁ」
シーラは皆が話す間、フリントンを見据えていた。
あまり感情を見せずに、ただじっと彼の目を見ている。
フリントンもこれに返すように、シーラの瞳を見据えていた。
「せっかく元気になってもなぁ」
「シーラを怒らせて、シーラがとっとと自分の船に戻っちまえば」
「それを尾行するもんだから」
「また嫌われちまうんだ」
シーラの視線がフリントンの瞳から外れた。
それで目を逸らしたまま、シーラは恥ずかしそうに言う。
「それはありがとう。フリントン」
「礼よりも、僕の妻になっておくれ?そろそろちょうどいい年頃に…」
今度のシーラは、両手で彼の頬を引っ張っていた。
ヤニを含め、男たちは大きな声で笑う。
「仕方ないから、ひとくち食べてもいいよ。リリーのパスタはとても美味しいからね」
シーラはフォークで綺麗にパスタを撒くと、それをフリントンの口元に差し出した。彼もまた、それをさも当然のように頬張る。
「これは美味しいね」
「でしょう!」
イルハが強い衝撃を受けていたところに、王子が小声で囁いてイルハを追い込んだ。
「悪いがイルハ、俺もある。あいつのあれに深い意味はない」
「なっ、殿下まで…」
ぽんぽんとイルハの肩を叩くと、それから王子はシーラを見やった。
「ところで、シーラ。いつ俺たちにこいつらを紹介してくれるんだ?」
「紹介なんてしないよ」
「どうして、シーラ。大事な夫である僕を紹介しないなんて…」
ガンと鈍い音がしたのは、言うまでもない。
王子は苦笑しながら、問い掛ける。
「お宅らは、シーラとは古い仲なのか?」
「それはもう。僕とシーラはこの世だけでなく、いくつもの前世から共にあって…」
フリントンの脛は痣だらけであろう。
「ヤニとの縁で、少し付き合いがあるだけだよ」
「テンくらいの頃だよな」
シーラとヤニが頷き合う。
しかしシーラは急に笑い始めた。クスクスと小さく笑い始めたかと思えば、次第にその声を大きくしていく。
するとヤニが勢い立ち上がった。
「笑うな!思い出すな!もう忘れろ!」
「あんなに楽しいときを忘れないよ!」
「誰にでも不得手なものがあるんだ!シーラだって、出来ないことばかりだろう!」
「そうだけど。あれはあんまりで…あはは!」
同じ年頃の海の友人とは、このように笑い、語るのか。
イルハにとっては新鮮であり、どこか寂しさを感じる光景だった。
「ありゃ、どこの街だったか。シーラが歌っていたんだよな」
「それをヤニが面白そうに見ていて」
「シーラが誘って、一緒に歌い出したら」
「それはもう酷くて」
どっと笑い声が漏れた。愉快で騒がしい男たちである。
「あの頃は皆もまだ若かったよね」
「まだって何だ。俺たちは老いたか?」
「まぁ、それなりに」
「安心しろ。お前もすぐに婆さんだ」
「大丈夫だよ、シーラ。お婆さんになっても、僕は変わらず君を…」
言わなければいいだろうに。
フリントンはわざわざ脛に痣を作ろうとしているのではないか。
***
ヤニとシーラが先に仲良くなって、シーラはフリントンをはじめ、オリバー、ハンス、カルタと出会うことになった。
しかしフリントンは何を思ったか、この時こんなことを言ったらしい。
「気に入った。君の夫の座を予約しておこう。大人になったら僕の妻になっておくれ」
幼い少女相手である。
もちろんシーラは堂々と断った。
「どうしてかな?僕の妻になれば、もう何でも買ってあげるし、とても楽に暮らせるよ?」
「いやー!気持ち悪い!」
一同はまだ冗談として笑っていられたが、すぐに顔を引き攣らせることになる。
フリントンがさらに気持ち悪いことを言ったからだ。
「ますます気に入った!僕の船に乗るといい!君が大人になるまで、大事に守ってあげよう!」
「しつこいなぁ。嫌だって言ったよ!」
フリントンの脛を蹴り、幼いシーラが小さな体には大き過ぎるオルファリオンを背負い、駆けて行く。
そこから彼の尾行は始まった。
***
「十年近い仲ってところか。その頃から一人旅をしていたんだな。一人になる前はどうしていた?」
シーラが答える間を与えなかった者がいた。
「そういえば、君。最近、モンセントに行っていないでしょ?」
フリントンである。
このわざとらしさに、王子とイルハはそっと視線を合わせた。
テンは相変わらず無表情で、フリントンを観察している。
「怒っていた?」
「覚悟した方がいいね」
シーラが頭を抱えた。
「テン、次はモンセントかもしれないよ」
「また行くの?」
珍しいことは続くのか。
今度はテンが不快さを示した。眉を歪め、口角を下げている。
しかしすぐにテンの表情は消えていた。
王子とイルハはそれからも何度か視線を合わせ、言葉なく共通の意志を確認し合った。




