40.水滴は波紋に変わる
王子の執務室に、今日もイルハは足繁く通うのだ。
王子はイルハがわざわざ仕事を増やして、シーラに会いに来ているのではないかと、もう信じて疑わないが、そのイルハがまたしても驚くことを言い出した。
「殿下、シーラを妻にします」
「は?」
「ご協力いただけないでしょうか?」
「…どうした?」
「決めたのでご報告とお願いに参りました」
「……お前、近頃凄いな」
王子はちらと奥を見やった。シーラが書類を浮かしていて、テンはその手伝いを行っている。テンも何かしたいと願ったからだ。
「次は二十の五だよ。次は三十一の十二」
王子たちには、テンの声だけが届く。
テンが手渡した書類を、シーラが魔術で浮かび上がらせて、指定の棚に仕舞っているのだが、シーラは集中しているのだろう。声も出さずに、次々とテンから受け取った書類を飛ばしていて、イルハが現れたことにも気付いていない様子だ。
テンも随分と夢中でこれを行っていて、声がする王子たちの方を振り返ることもなかった。
仕事熱心な二人に、王子も感心している。
「お前がそう言うからには、勝算があるんだな?」
「海に出ない選択肢はないようですね」
王子は頷いた。
「シーラにその気はあると思っていいな?」
「私の勝手な想いではそうなります」
イルハは淡々と、「それから書類をお持ちしました。こちらは…」とついでのように仕事の話を進める。
王子はよく笑った。
仕事の話もそこそこに、二人はまた元の話題に戻る。
「俺の妻も気に入ったからな。あんな面白いものを手放すなと言われている」
「有難いお言葉ですね」
「あれだけ他国の事情を知っているとなれば、それだけで王宮で囲いたい人材だ」
イルハもこれに深く同意した。
毎夜続く楽しい時間に、多くの情報を得られていたからだ。
シーラをこの国に留めるために、タークォンとしては十分な理由があった。あとはシーラ側の問題である。
「しかもあいつは、それぞれに知り合いがいるようだな?あれは使えるぜ」
「外交官の役は困りますが」
「そうだろうな。あいつはそのまま逃げちまう。それなら、逃げないようにすればいい」
「お連れすると?」
「そうだ。俺が行くときに付き合わせる」
「ならば私もお伴致しましょう」
王子はとても愉快な気分だった。
このようなイルハは、子どもの頃以来である。イルハとて、昔は子どもらしいときがあったのだ。
「これからどういう算段だ?」
「まず我が家の使用人夫妻が、あの二人を養子にしたいと申しておりまして。海に出る出ない以前に、これを受け入れさせたいと。そうすればこの国は、二人の帰る場所になりましょう」
「テンの方も、なかなかしぶとそうだぞ」
「祖国に強い想い入れがあるようですね」
「国を亡くせば、そうなろうな」
国を亡くす、というところは想像しか出来ない。二人にとって、この国ははじめからあり、そしておそらく、自身が終わるときまで存在しているだろう。戦争を知らぬ国ではないが、今のタークォンは安定し、危ういところからは離れている。西側の諸国は基本的に平和主義であった。
「調べはついているな?」
「予測でしかありませんので、控えさせてください」
「俺に協力を願ったんじゃないのか?」
「それ以外でお願いします」
「お前…本当に凄いな」
「そうでしょうか?」
イルハの悪びれるところがない清々しい態度に、王子も悪い感じを受けない。むしろ今までのどのイルハより、今の彼を好んでいる。
「凄いのはあの小娘か。さて、昼食に行くがどうする?」
「私は仕事がありますので」
「そこは断るのか?」
「早く帰れなくなるでしょう」
「仕事ももっと上手くやれ。お前は抱え過ぎだぞ。シーラ、テン、休憩するぞ!昼飯だ!」
シーラとテンはたった今浮かんでいる書類を棚に収めたのち、王子たちの元にやって来た。
「今日はイルハも一緒なの?」
「いえ。私は仕事がありますから」
「イルハは食べながら仕事をするの?」
「あまり昼食は取りませんね」
「駄目だよ、イルハ!食べないと体に悪いんだから!」
シーラに言われると、とても複雑な気持ちになるイルハであった。
あれは体を気遣う娘の船と言えるだろうか?イルハの脳裏には、かつて見た船の荒れ様が浮かんでいた。




