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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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39.イルハの告白


 シーラとの距離が、日に日に近付いている。

 これは自惚れではないと、イルハは自負していた。


「この前はこう回って来たの」


 イルハの部屋の絨毯の上に肘を立てうつ伏せに寝そべったシーラは、時折片手を伸ばして、広げた古い地図の上に指を滑らせた。


 イルハはシーラの隣に座って話を聞きながら、ゆったりと酒を味わっている。シーラも先ほどまでは、体を起こして酒を飲んでいた。酔ったから、寝そべったのかもしれない。


 世界を見て来たのだから、分からない娘ではないだろう。男の部屋に毎夜やって来て、共に酒を飲むその意味を、知らないとは思えない。

 誘われているのではないか。己の願望と織り交ぜて、イルハはそのような浅はかなことを考えてしまう。

 けれどもシーラにその素振りがない。


「ノーナイトからだと、黒の大海を突き抜けて、まっすぐ白の大海を通ればいいかと言えば、そうでもなくてね。荒れやすい場所があるから、こうやって遠回りをした方がタークォンには早く着くんだ」


 地図にはない情報をシーラは説明した。


「あなたは北側の諸国にも明るいのですか?」


「いくつか回ったけど、行ったことのない国も多いね。東側は比較的行きやすいんだけど、西側は冬が長いから、なかなか行けないんだ」


 冬は北西から下りて来る。当然海が凍れば、船は出せない。


「ここからは近いけど、まだコーレンスにも行ったことがなくてね」


 コーレンスはタークォンからほとんど真北の位置にある比較的小さな国だ。タークォンより北に位置するために冬が長く、海が凍らぬ期間はわずか三月足らずと言われている。


「万年冬の国のシャランソなんかは、私にも未知の国だよ」


 この世界で最も北西にあるとされる、シャランソ。万年冬の国だから、常に海が凍りに閉ざされていて、どんな国なのかも知られていなかった。シーラも知らなくて当然である。


「北東の国々には行かれたんですね?」


「カコエサインなら、何度か行って来たよ」


 カコエサインは、ノーナイトと並ぶ大国だ。

 春夏秋冬が揃う国で、北にあっても東に位置するおかげで、冬の期間はぐっと短くなった。

 春と秋とは、どのような季節なのか。夏と冬しかないタークォンで生まれ育ち、外に出たことのないイルハは、それを文献でしか知らないが、目の前のシーラは経験している。しかしシーラはきっと冬を知らないだろう。

 互いに知らぬ季節を持って共にあるというのは、不思議なものである。


「ところであなたはどの国の言葉も話せるんですか?」


 この世界には、共通語というものが存在していた。

 いつからそのような言語が出来たのか不明だが、そうは言っても、自国の言葉を重んじる国もまだ多い。旅行者が苦労するのは、ここである。

 その点においては、タークォンは彼女のような旅行者に優しい国と言えよう。基本的に共通語しか使われていないからだ。


「港町はどこも共通語を使える人たちがいるんだよ。だから、困らない。それはノーナイトでも同じでね」


 シーラから貰ったノーナイトの本は、イルハでも容易に読了出来なかった。

 すべてノーナイトの言葉で書かれていたからだ。おかげで辞書を引っ張り出して、イルハも長く本と向き合うことになった。


 シーラは今それに気付いたようで。


「あ!もしかして、読めなかった?」


「いえ、読みましたよ」


「イルハってノーナイトの言葉を使えるの?」


「調べながら読んだんですよ」


「凄いなぁ。調べながら本を読んだことがないよ」


 シーラは楽しそうに笑った。


「あなたはノーナイトの言葉を知っているんですね?」


「その国に行ったら、出来るだけ教えて貰うようにしているからね」


 イルハは不思議に思った。それならどうして、シーラは今までこの国の言語について、問うことがなかったのか。


「この国で最初に貰った紙が、共通語だったでしょう?」


「それは旅人のためのものかもしれませんよね?」


「街中の看板にも共通語しか書いていなかったからね。その国の言葉があれば必ず看板に使われているし、優しい国なんかは二つの言葉を並べておいてくれるんだ」


 イルハも外からやって来る者たちと接する機会は多くある。

 だから、彼らがタークォンにない目線でこの国を見ていることも十分に知っていた。

 しかしその者たちが、どういったものを見て来て、それでこの国に何を思うのか、そこまでは想像することもかなわない。

 目の前のシーラのことも、イルハには未知のところがある。どのように想像しても、それはイルハの知っているところから生じるものだ。

 しかしすべてを理解することなどは、どこにあってどんな経験をしてきたとしても不可能なのではないか。イルハの考えはそこまで至った。


「ノーナイトの発音を教えて頂けませんか?」


「読めたんじゃなかったの?」


「どのような意味か分かれど、音までは分かりませんから」


「それなら読んであげるよ!」


「お願いしましょう」


 二人で渡り廊下を通り、邸宅の裏に建つ蔵へと移動した。

 相変わらず扉を開けた途端に、強烈な木の香りが二人を襲う。けれどもそれにもすぐに慣れて、匂いは気にならなくなった。


 床に座ったシーラは、ノーナイトの本を開く。イルハも隣に座って、横から本を覗いた。

 蔵の扉を閉めると、家からも遮断されて、二人だけが別の世界にいるようである。屋敷からだけでなく、外からの声も届かず、蔵の中にはシーラの声だけが響いた。


 シーラはすらすらと言葉を紡いだ。

 それは呪文のようであり、また歌声のようでもあって、いつもの共に奏でる音楽のようにイルハの心を潤ませた。


 この蔵で、誰かと共にある。それがシーラであること。

 イルハにとっては、これが大きな意味を持っている。ここは彼にとって、とても大事な場所だった。


「知らない言葉とは、音楽のようですね」


 あるところでイルハが言えば、シーラの瞳が輝く。


「私も同じことを思っていたんだ」


「あなたは音から新しい言葉を覚えるんですね」


「そうだね。まずはその音を真似して、それから意味を教えて貰うよ」


 シーラは異国の音楽にも詳しかった。耳がいいのだろう。 

 それでイルハは、この国の音を伝えたくなった。


 イルハは立ち上がると、棚を物色し、一冊の本を取って、またシーラの隣に腰を下ろす。


「我が国の言葉で書かれた本です」


「この国だけの言葉があるんだ!」


 受け取った本のページを、シーラはとても楽しそうに繰っていった。


「国によってこうも字が変わるのは、どうなっているんだろうね?この字はもう使っていないの?」


「今となっては、祭祀など特別なときに使われるくらいです。話せる者もほとんどいません」


「勿体ないなぁ」


「そうですか?」


「せっかくこの国に特別なものがあるんだから、長く大切に使ったらいいのになぁって思うよ」


 イルハの右手は自然に伸びて、シーラの頭に収まった。イルハの部屋に来た頃には濡れていた髪もすっかりと乾き、細い髪の束はさらさらとイルハの指の間を滑った。


 シーラは拒絶も感動も示さない。

 だからイルハもそれ以上に繋げられないでいる。


「この国の言葉を聞かせてよ、イルハ」


「あなたも聞いていましたよ」


「いつのこと?」


「ほとんどの者はかつての言葉を知りませんが、歌だけは残っているんです。意味が分からずとも、これだけは皆が知っています」


「もしかして」


「えぇ。あの祭りのときの歌です。分かる歌詞ではなかったでしょう?」


「音階でも取っているのかと思ったよ。あれは言葉だったのかぁ」


「歌ってみましょうか?」


 軽く歌えば、シーラは目を閉じ、耳を澄ませた。

 蔵の中が、イルハの歌声だけになる。


「イルハの声は素敵だね」


「今年も祭りに行きませんか?」


 目を開いたシーラは、真っ直ぐにイルハを見詰めた。隣にあるから、二人の顔の距離が近い。


「行きたくありませんか?」


「そうじゃなくてね。その時に合わせて来られるかどうか、考えていたんだ」


「このままこの国にいてみませんか?」


 イルハが自分の願いを伝えたのは、初めてだ。

 シーラはなおじっとイルハを見詰めていた。何を考えているのか。読もうと思えど、イルハにはシーラの心の底が知れない。

 シーラの瞳はいつもより濡れていて、はっきりとイルハを映し出している。


「それは出来ないね」


「出来たとしたら、どうします?」


 シーラの瞳はこれでも揺れない。真っ直ぐにイルハの瞳を見据えたまま、微動だにしなかった。

 イルハもまた、シーラの瞳から視線を逸らさないでいる。


「それでも海には出るだろうね」


「それほど海がお好きですか?」


 それは突然だった。

 イルハを見詰めたシーラの右の瞳から、すーっと一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。

 けれども涙はその一筋で終わってしまう。それが間違いとでもいうように。


 イルハは我も忘れて見惚れていたはずだ。

 それでも彼の体は勝手に動いていた。イルハの腕はシーラを引き寄せ、これを胸の中に収めてしまう。


「聞かせて頂けませんか、シーラ。あなたはどうして海に一人であるのです?」


「海が好きだからだよ」


 シーラの声は、悲しみを含んでいない。いつもの声色に違いなかった。

 けれどもイルハは、それを普段と同じように捉えられない。彼にとっては、もう別の音に聞こえていた。


「私があなたをこの国に留めてみせましょう。それならどうです?」


「それでも海に出るよ」


「海に出ない選択が出来ないからですか?」


 胸の中でシーラが静かに笑った。シーラが普段見せない、ため息のようなそれは、イルハにも確かに伝わる。


「出来ないだろうね」


「では、別のことを問いましょう」


 イルハは自分があまりに冷静であることを楽しんでいる。


「あなたが海に出る前提で、私の妻にはなれますか?」


 イルハの胸の中で、シーラがまた笑った。今度は楽しそうな笑い方である。


「イルハって面白いね」


 イルハは腕の力を解いて、シーラの顔を覗き込んだ。


「本気ですよ」


「だって笑っているよ?」


 そう。イルハも笑っていた。自分に笑っていたのだ。

 それなのにイルハは言う。


「あなたがあまりに驚くからです」


「だってイルハまでそんなことを言うなんて」


「……私までってどういうことです?」


「……どういうことだろう?」


 二人ともよく笑った。

 イルハは腕の力を緩めたものの、シーラの背中に回した手を離さず、二人は抱き合ったままである。


「教えてくださいよ」「何でもないよ」「気になります」「気にしないで」と掛け合っているうち、いつもの楽しい時間に戻った。


 気持ちを伝えたところで、状況は何も変わっていない。

 それでもイルハは、とても満たされた気持ちになっていて、伝わるシーラの温もりと重ね、その胸に自信を漲らせていた。


 イルハの決意が固まった。この腕にシーラを留めたい。


 シーラはとても危ういことをしているだろう。手放してしまったら、次に会える保証などどこにもない。そういう類の後悔を、イルハはもう感じたくなかった。


 それは陸にあっても同じであることを、イルハはすでに失念している。海から引き離せば、シーラが確かに隣に存在してくれると、まだ彼は信じていた。


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